249 9月6日 Ⅰサム31Ⅰコリ11エゼ9詩48
サムエル記第一31章……サウルは死に、その死体は偶像の宮にさらしものにされました。主に不従順だったサウルにふさわしい最期だったといえます。私たちにとっては、いかに生きるかと同じくらい大事なことは、いかに死ぬか、すなわち最期を迎えるかということです。私たちはこの世界が終わり、イエスさまの御前に立つとき、恥ずかしくなく御前に立つ準備はできていますでしょうか。
コリント人への手紙第一11章……私たちクリスチャンは自分のしたあやまちのゆえに、しばしば厳しい目にあうことがあります。しかしそれは主から下されたさばきのようであっても、その内実は「懲らしめ」であるというべきです。私たちはこの「懲らしめ」にあうゆえに、世において犯されている「さばき」にふさわしい悪の言動から守られ、身を避けるようになっているわけです。ゆえに、この「懲らしめ」は感謝すべきことです。
エゼキエル書9章……エゼキエルが見た幻は、世の終わりに臨む主のさばきの前触れといえるものです。私たちの住むこの世界は、全体が絶望的なさばきに覆われます。しかし私たちはイエスさまの十字架の血潮によって守っていただけます。私たちは守られていることに満足しているだけではなりません。この世界からひとりでも多くの人が救い出されるように祈り、また、そのために行動すべきです。
詩篇48篇……主のさばきというものは、私たち神の民にとっては恐ろしいものではありません。なぜなら私たち神の民は、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救われ、永遠の救いに入れられているからです。私たちのすることはむしろ、さばき主なる主がそのさばきによってこの地に正義を行なってくださることを喜ぶことです。今日も主のさばきを待ち望みましょう。
<祈りの課題>私たちが主の正しいさばきを待ち望み、さばき主なる主の御手にすべてを委ねるものとなりますように。
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