244 9月1日 Ⅰサム25Ⅰコリ6エゼ4詩40-41
サムエル記第一25章……ダビデにとっては、咎がなかったのに言いがかりをつけて恥辱を負わせたナバルとその家に制裁を加えることは、正当なことと思われていました。しかし、それはのちの日に王となったとき、きわめて悪い歴史を刻むことになります。それを知っていたナバルの妻アビガイルは、ダビデにつく者たちが食べるだけの食糧を持参してダビデの怒りをなだめました。この行為のゆえに、ナバルが死んだらダビデは時を移さず、未亡人となったアビガイルを妻に迎えました。絶対者の怒りをなだめるためにその怒りの前に立ちはだかる姿は、御父の御前において十字架に両腕を広げ、人という人に注がれる神の怒りからかくまってくださった、イエスさまの御姿を現してはいないでしょうか。
コリント人への手紙第一6章……神の国を相続できない者の特徴は、性的に乱れているということに表れます。しかし、主はそのような者を救って、キリストのからだの一部としてくださいました。ゆえに、遊女に象徴されるあらゆるむさぼりと交わり、私たち自身をそれらのものの一部にしてしまうならば、その行為は最もキリスト者としてふさわしくない行為になります。私たちはキリストの血潮という代価が払われて買い取られたキリストのからだであるという意識をもって、神の栄光を現すべきです。
エゼキエル書4章……神の民の霊的世界の代表選手であるエゼキエルは、その奇異ともいえる行動をもって、神の民の現住所を民にあらわす責任を神さまから託されました。しかし、彼ら民がやがて食べ物にも事欠くようになることを象徴する行動をするにあたり、人糞でつくったパン菓子を食べるように命じられることには、さすがにエゼキエルも抵抗しました。しかしその理由は、生理的に受け付けられないから、という私的な理由ではありません。神のみこころにしたがって今まで生きてきた、それは食物をとる際にも徹底してきた、という、従順に裏打ちされた生活の履歴のゆえです。そのようなやり取りができるような親しさを神さまとの間に持っていたエゼキエルにならって、私たちも従順の生き方を苦しみのうちにこなすとき、神さまの励ましと許しを体験してまいりたいものです。
詩篇40篇~41篇……神さまがお喜びになるのは、私たちの「宗教行為」ではなく、心から喜んでの「従順」です。私たちはそのように信じて従順の歩みをするように努めますが、私たちが「従順」と信じていたものは、いつの間にか神さまに行為によって認められるための「宗教行為」に切り替わってはいないでしょうか? 私たちはそれゆえに、行為以前に、神さまとの喜びの交わりを分かち合うことが必要になります。
<祈りの課題>私たちの従順の歩みのため、それも行為そのものに傾くのではなく、神さまとの生きた交わりをまず持つものとなりますように。
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