245 9月2日 Ⅰサム26Ⅰコリ7エゼ5詩42-43
サムエル記第一26章……眠りこけていたサウルを前にしたダビデは、主に油注がれた者には決して手を下すことはできないと言って、殺すことはしませんでした。この眠りは主ご自身が下されたものであり、ダビデは主からのこのテストに合格したことになります。主は、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する」(ローマ12:19)とお語りになるお方であり、復讐というものを人の手にお委ねになるお方ではありません。私たちはこの、自分で復讐したいという誘惑から絶えず守られる必要があります。
コリント人への手紙第一7章……結婚は「するかしないか」という選択で考えるべきものではありません。「召された状態にとどまっているかどうか」、これが大事です。もし、自分への召しが結婚であると確信するならば、結婚を祈り求めるべきですし、もし、自分への召しが独身であると確信するならば、きよい身を保つことで神の栄光を現す者となるように祈り求めるべきです。どちらにせよ、その召しにふさわしく歩むならば、私たちは神の栄光を現すという、至上の生き方をすることになります。
エゼキエル書5章……髪とひげを蓄えているべき預言者がそれをそり落とすということは、見ている者を不安にさせなかったでしょうか。しかし、神の民はそれほどのことを預言者にさせるほど、神の前に恥ずべき者となっていました。その責めを、滅亡という形で負わせられることとなりました。もし、私たちが主の働き人として召されているならば、民のためにこのような恥を負うことも辞さずに行わなければなりません。それは髪やひげをそり落とすという形ではないにせよ、日々の祈りの中で、民の罪と恥をイエスさまの十字架のゆえに背負う祈りは、つねにささげる必要があるのではないでしょうか。
詩篇42篇~43篇……私たちのたましいは時にうなだれます。私たちは弱いからであり、けっして不信仰だからではありません。しかし、私たちはそのようなとき、神を待ち望むという大きな祝福をいただきます。落ち込んでいるときこそ神を待ち望む、その祝福を、今これをお読みのみなさまもこの瞬間に体験されますように。
<祈りの課題>未婚の兄弟姉妹が、召しにしたがって結婚、ないしは独身であることを選択されますように。
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