265 9月22日 Ⅱサム18Ⅱコリ11エゼ25詩73

サムエル記第二18章……ダビデの気持ちは複雑でした。自分に敵対する者が、ほかならぬ自分の息子であったからです。しかし、ヨアブはそのような王の気持ちなど、まったく考えず、ただ血を流すことしか考えていませんでした。そのような残忍さが、アブネルとアマサの血を流すことにつながり、それゆえにダビデはソロモンに、ヨアブを処刑するように命じましたが、王の心を知らぬ者は王の重要な働きを任されるわけにはいきません。いわんや主の働き人は、人間的な成功を求めることによって、主のみこころに背くようなことになってはなりません。

コリント人への手紙第二11章……パウロは、主によって話すのではないと断りを入れて、「自慢話」を話していますが、それは、彼らコリント教会が自分を誇っていることが、パウロが実際に体験してきたことに比べて、どんなにむなしいかということを示すために、主があえてパウロに語ることをお許しになったことがらです。結果としてこのパウロの陳述は、主のみことばとして聖書に収録されました。それは何よりも、これらパウロの体験してきたことが「事実」であるからです。実際にそのような体験をしている人のことばほど説得力のあるものはありません。私たちにとってもみことばは机上の空論であってはなりません。実際に体験することで、ほかの人にみことばは伝わっていきます。

エゼキエル書25章……主の民を虐げるような者は、主が必ずさばきを下されます。ほうっておかれることはありません。私たちは、自分たちクリスチャンに迫害を加える者がいつまでも永らえているのを見て、「主よ、さばきはまだですか!」と叫びたくなってはいないでしょうか。主はそのような者たちに速やかにさばきを加えられ、そのさばきのわざをもって、ご自身の栄光を顕してくださいます。そのようなさばきに瀕する世界のために、私たち主の民はとりなして祈ってまいりましょう。

詩篇73篇……主の敵が栄えつづけたと思ったら、その最期は悲惨である……そのことをほんとうに知ることができるのは、世から見れば奥まった場所である主のみもとにいるときです。私たちがそのひそかな場所で主との交わりを持っていないならば、この世の権力者がいつまでも永らえるその姿しか見えず、悲しい思いをするしかありません。私たちにとってのまことの喜びは、世にて栄えることではありません。主のみもとにいることこそまことの喜びです。

<祈りの課題>世をうらやみたくなる思いに陥りそうになったとき、主との深い交わりに入っていく私たちとなりますように。

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