251 9月8日 Ⅱサム2Ⅰコリ13エゼ11詩50

サムエル記第二2章……イスラエル(ベニヤミン)の代表戦士とユダの代表戦士との間の闘技は、ユダの側の圧勝に終わりました。ベニヤミンのアブネルはこれを見て、主が味方しておられるのはユダの側、すなわちダビデの側だということを見て取ったはずです(その後のイシュ・ボシェテに対する彼の態度からもそれは明らかです)。それを知ったアブネルは闘技をやめさせようとしますが、結果、ヨアブの弟アサエルの抵抗にあい、流さなくてよい血を流し、結果、それがアブネルのいのちを縮めることになりました。もとはといえばアブネルが闘技をしようと言い出したことが発端です。私たちは争うことで物事の決着をつけたがるものですが、その前に、平和の主なるイエスさまが私たちの間に平和を成し遂げてくださることがみこころだということを、私たちは謙遜に認め、主のみこころに従う必要があります。

コリント人への手紙第一13章……私たちは多くの場合、自分の蓄えた「知識」(それは聖書に関するものも含む)や、「業績」(それは教会形成に関するものも含む)を、自分の霊的成長の度合いを測る基準にします。しかし、そのような私たちは、自分がどれほどの罪人で、それにもかかわらずイエスさまがどれほどそんな自分のことを愛してくださっているか、実感していますでしょうか? その愛を自分のものにしていただいているならば、私たちもわずかながらでも、イエスさまの愛によってほかの兄弟姉妹を愛する人にならせていただけるはずです。その愛はいつまでも残るものです。

エゼキエル書11章……主は私たちのうちから石のように頑なな心を取り除き、肉のように血の通った心を与えられて、みこころを理解するようにしてくださいます。しかし、それには条件があります。私たちが主を捨て、その結果偶像(貪り)に身を焦がし、悪に手を染めることをわがうちから追放することです。そのような悪に染まった者に対する主のさばきは恐ろしいものがありますが、主は必ず、みこころにかなう者をふさわしい悔い改めへと導いてくださいます。

詩篇50篇……神さまは私たちに、目に見えるいけにえのような「宗教行為」を求めていらっしゃるのではありません。むしろ求めていらっしゃるのは、「感謝」です。感謝というものは、日々との主との生きた霊的な交わりから生まれてくるものです。その交わりは喜びを生み、けっして兄弟姉妹をさばくという形で実を結んだりはしません。私たちが実を結んでしかるべきなのは「感謝」です。

<祈りの課題>すべてのことに感謝する私たちとなることができますように。

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