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091 4月1日 レビ4詩1-2箴19コロ2

レビ記4章……罪のきよめのささげ物をすることは、ひとりの罪が赦されること以上に、共同体全体が罪から守られることに意義があります。私たちにとっての悔い改めは、個人的なものである以上に、教会という共同体が罪の汚染から守られるうえで、公的なものであることを覚え、悔い改めの歩みをしてまいりましょう。 詩篇1篇~2篇……世の勢力は主にお従いする私たちの歩みを、しょせんかせや綱につながれて不自由になっている姿としかとらえず、そこから自由にしてやる、その代わり俺たちのしもべになれ、と、私たちの寛容さを逆手に取って迫ります。しかし、主の子どもたち、主のしもべたちをそのような目に合わせようとする者たちは、主が怒りをもっておさばきになります。私たちは、主と、この世の勢力と、どちらを恐れているでしょうか。 箴言19章……子どもを懲らしめるのは愛情のためです。子どもがきちんと成長するのを望むためです。しかし、子どもをいつまでも子ども扱いしたり、大人の好き勝手でコントロールしたりするのは、子どもを「殺す」ことになり、箴言のみことばは、そのような大人の好き勝手を戒めているのではないでしょうか。 コロサイ人への手紙2章……かしらなるキリストに結びつかない群れが健全な教会、健全なクリスチャンたちを断罪するということは、よくあることです。その群れは幻を見たというようなことで人を説得しにかかる「論より証拠」で行きます。しかし、私たちが人を判断する基準は、「キリストに結びついているかどうか」であり、その判断を私たちは、その基準であるみことばに通暁することで下すことができるようになります。 <祈りの課題>不健全な教えに陥っている兄弟姉妹がその教えから救われ、健全な教会形成に用いられますように。

090 3月31日 レビ2-3ヨハ21箴18コロ1

レビ記2章~3章……主は、ささげものを求めておられます。もちろん、儀式として宗教的にささげることで満足してはなりません。私たちが生活を通して、知恵・時間・金銭・持ち物・人間関係といったものを神さまにささげるのです。そのような生活を通してのささげものをする生き方は、形式的な宗教行為の対極にあるものです。 ヨハネの福音書21章……イエスさまが行われたことを記録するなら世界もその記録を収められない、というのはほんとうのことです。それは、創造主としてのイエスさまのみわざが想像を絶するほど多岐にわたるということもさることながら、人がイエスさまに出会うならば、その人ひとりひとりにイエスさまが日々、それぞれの人生に合わせてみわざを行われるわけで、その人生はたったひとりのものさえも、とても世界が推し量れるものではありません。ましてや世々の聖徒すべての人生となるとどうでしょうか。教会の歴史、世界の歴史とは、世界史の強化し歩や神学校の世界史の授業で学んでも、それはほんの一部でしかありません。あなたはちっぽけな人ではありません。神さまに、イエスさまに、大いに覚えていただいています。 箴言18章……反知性主義というものがあります。そのような者は知恵の持つ価値を否定しておきながら、自分の心をあたかも万人が信じるべき知性のように喧伝して、インターネットのような発言の保障されている環境でさらけだすことを好みます。しかし、そのような愚者の知恵など、知恵と呼ぶべきものではありません。私たちは、自分には知恵がないことを認め、へりくだる必要があります。 コロサイ人への手紙1章……主に献身するということは、苦しみをもってキリストのからだの欠けた部分を満たすことです。したがって、主への献身の生き方は自己実現の対極にあるもので、自分を否定しなければならない、この世の基準からしたら苦しみに満ちた生き方です。その生き方に喜びを見いだすには、どれほどこの世の喜びを求めず、主がともにおられることそのものに喜びを見出さなければならないことでしょうか。しかし、主にあって喜ぶことを知る人にとっては、主にある苦しみも喜びに変わります。 <祈りの課題>若い兄弟姉妹が聖書を勉強することを喜びとし、みことばを深く理解するものとなりますように。

089 3月30日 レビ1ヨハ20箴17ピリ4

レビ記1章……牛または羊の家畜が主にささげられる場合、傷のない雄でなければなりませんでした。ささげものとは、人のすべての罪を背負って十字架におかかりになったイエスさまといういけにえを象徴しています。イエスさまに罪がなかったように、私たちもイエスさまのきよめを日々いただいて、主の御前におささげする生活が、傷のない霊的な礼拝となるように努めてまいりたいものです。 ヨハネの福音書20章……人は「主を見せてほしい、そうすれば信じる」と言うでしょうが、そういう人は仮に主を見たとしてもおそらく信じません。私たちは主を見たことはないけれども信じていますが、それは幸いなことです。いつ、どこにもともにいてくださる主のご臨在を知ることができることは、地上の人生において最大の祝福のひとつです。 箴言17章……邪悪なことばに満ちたこの世の文化(音楽、小説、映画、演劇、テレビドラマ、インターネットの動画配信……)を好むことは、喜んで「邪悪な唇に聞き入り」「破滅の舌に耳を傾ける」ことにはならないでしょうか。そのような者をみことばは、(たとえ自分がどんなに善良な、みこころにかなう人を自負していたとしても)悪を行う者、偽り者と評価し、それはその人が「愚か者」であるということです。 ピリピ人への手紙4章……「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる」……素晴らしい告白ですが、「どんなことでも」というものには、神さまのみこころを外れた自己実現というものは含まれません。パウロがどんな境遇にも耐えられたのは、その境遇が主の御跡を従って十字架を背負う生き方であることを自覚していたからであり、自由自在な全能感で行動していたわけではありません。ここを間違えると、祈ってもかなえられないことそのもので神さまを信じなくなるという、大きな間違いを犯すことになります。 <祈りの課題>この世の文化の中に、主のみこころにかなった善良な文化が広がっていきますように。

088 3月29日 出40ヨハ19箴16ピリ3

出エジプト記40章……新しい月が始まるということは、モーセが会見の天幕を整えることを主に命じられたように、私たちにとって、主の前に出ていく姿勢を新たにする機会が与えられる、ということです。もうじき4月1日となりますが、新しい月、なお主の御前に献身を新たにしてまいりたいものです。 ヨハネの福音書19章……ユダヤの宗教指導者たちは、総督ピラトの前で「カエサルのほかに私たちに王はありません」と公言しました。それは、神の民の代表者が、ローマに魂を売った瞬間でした。主は、このように世の権力と妥協する道を選ぶ歩み、単なる宗教に堕した歩みを選ぶ者たちを容赦されません。私たちにとって主にお従いすることは、その程度のものなのでしょうか。 箴言16章……知恵は至上のものです。人は黄金(この世の富)を得ようと躍起になりますが、そのようなものを求めるのではなく、知恵を、主のみことばをたえずお読みすることによって身に着けるべきです。そのような者は、主に拠り頼む歩みをするという幸いを見出します。 ピリピ人への手紙3章……獄中にあり、すでに晩年に差し掛かったパウロは、凡人から見ると信仰の完成形のように思えるでしょう。しかしそんな彼にして、まだまだ完全な救いを達成するという目標に向かって歩んでいると告白しました。いわんや私たちは、どれほどその完成に向けた歩みをともにしていかなければならないことでしょうか。 <祈りの課題>私たちの日々の歩み、みことばに聴き従う歩みが、隣人愛という実を結ぶものとなりますように。

087 3月28日 出39ヨハ18箴15ピリ2

出エジプト記39章……アロンが主の御前に出ていくにあたって、主はその胸当てに、イスラエルの十二部族を主張する宝石を飾ることを命じられました。私たちも王である祭司、主の御前に出ていく存在ですが、私たちは自分のために祈るのみならず、主の御目に宝のような民のためにとりなして祈る使命が与えられています。 ヨハネの福音書18章……ペテロは門番に対し、イエスさまを知らないと言ったとき、大祭司の中庭に入るために「嘘も方便」と思ったかもしれません。そのことばによって中庭に堂々と入れたからです。しかし、大祭司の中庭で炭火にまで当たり、安全なところからイエスさまを見るということは、イエスさまについていっていることにはなりません。結局、門番に対しての「嘘も方便」は、人前でイエスさまを知らないといった事実であることに変わりはなく、かくして、イエスさまの予言された通りの結果となったのでした。 箴言15章……同じ内容のことを話すにしても、どのような話し方で話すかによって、相手への伝わり方は変わります。話をするということは、受け取った側の責任以上に、ことばを発する側にさらに大きな責任があります。くれぐれも怒りを含んだような乱暴な語調や表現を用いて、せっかくの会話を台無しにしないでおきたいものです。 ピリピ人への手紙2章……神さまがみこころのままに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるということは、自己実現をさせてくださるということではありません。生涯をかけて完成するべき、救いを達成させてくださる、ということにおいてです。ここを取り違えてはなりません。 <祈りの課題>私たちの発することばが柔和なものとなり、語るごとに人を慰め、徳を高めるものとなりますように。

086 3月27日 出38ヨハ17箴14ピリ1

出エジプト記38章……主はモーセに幕屋の作り方を細かくお授けになりましたが、それは、その手ほどきにしたがって用いる材料と、技術を発揮する人がいてはじめて完成するものです。私たちは神の国、礼拝の共同体をこの地上に立て上げる使命が与えられており、その使命を果たすために事細かな指示を私たちに与える聖書のみことばを持っていますが、そのみことばに聴き従い、私たちの持てる財産(人格、能力、お金、持ち物、不動産、人間関係、技術……)を差し出してともに神の国を立て上げるのです。 ヨハネの福音書17章……私たちはこの地上を生きるとき、ときにとてもつらくなることがあります。できればこのいのちを取り去ってほしい、などと思ったりするかもしれません。しかしそれは主のみこころではありません。私たちは主から特別な使命、御国を拡大するという使命が与えられているので、その使命が全うできるように、私たちを守ってくださる、これが主のみこころです。 箴言14章……アンガーコントロール、ということばがありますが、感情的に怒ることは愚かであることをみことばは語ります。また、愚か者の特徴が怒りにあることを、このみことばは喝破しています。私たちにとって主に聴き従う歩みが単なる形だけのものであってはならず、感情面に至るまでも従順であるようにしたいと思います。 ピリピ人への手紙1章……キリストのための苦しみはパウロも体験したことですが、同じように私たちも苦しみます。私たちはこの苦しみにあずかるとき、これを大いなる恵み、祝福と受け取るべきです。その苦しみの歩みは、自分の十字架を背負ってイエスさまにお従いする従順の歩みです。 <祈りの課題>すべてのクリスチャンが主のための苦しみをいとわず、従順の歩みに踏み出していけるように。

085 3月26日 出37ヨハ16箴13エペ6

出エジプト記37章……ベツァルエルは、契約の箱、その担ぎ棒、燭台、祭壇、すべてが金と輝くようにつくるよう命じられました。主の前に出るということは、この世の何よりも価値のある時間であり、私たちにとってのディボーションの時間も、イスラエルの民にとってそうであったように、民を代表してもっとも価値ある時間を過ごさせていただくということです。この特権を大事にしてまいりたいものです。 ヨハネの福音書16章……いま私たちの目の前には、目に見えるかたちでイエスさまはいらっしゃいません。しかし私たちは、イエスさまとともに過ごした弟子たちと同じ恵み、臨在の恵みをともにいただいています。なぜならば、聖霊なる神さまが御父とイエスさまから遣わされ、私たちとともにいてくださっているからです。このことは、イエスさまがともにいてくださっていることとまったく同じことです。 箴言13章……正常な神経の持ち主ならば、あえて貧しくなろうとはしません。貧しくならないために、人は知恵を得て、その知恵を生かす手立てとして、勤勉であるべきです。また、知恵のあるなしはその人の発することばに表れます。つまり、人にどのようにことばが伝わるか、すなわち、ことばを聞く人のことを配慮して、愛情をもって語っているか、ということです。私たちはことばを発するなら、このようなことばを発するべきです。 エペソ人への手紙6章……火矢というものは、刺さることで大きなダメージを受けるだけではなく、火が回ってさらに大きく、そして致命的なダメージを受けます。私たちのクリスチャンとしての在り方を攻撃することばは、特に中傷とさえ思えるような人格攻撃に終始します。それは気にしないようにしようとも折に触れてその激烈な表現とともに思い出し、じわじわと心を病ませていきます。信仰を働かせるならば、そのように致命的な傷を受けることを防ぐことができます。 <祈りの課題>貧しさから抜け出そうと考えないような心の病んでいる兄弟姉妹に力が与えられ、霊肉ともに富む人となりますように。

084 3月25日 出36ヨハ15箴12エペ5

出エジプト記36章……民は聖所の奉納物をこれでもかと持ってきましたが、主はそのささげもの、ならびにささげものに伴う仕事を制限されました。私たちの生活は、幕屋に象徴される教会の生活がすべてではありません。過ぎたるは及ばざるがごとし、一生懸命になりすぎることは、必ずしも美徳ではありません。普段の生活を大切にしてこそ、主の御前にともに進み出ることに意義があります。 ヨハネの福音書15章……御父は、ぶどうの枝である私たちに鋏を入れるようなときがあります。それは痛みや喪失を伴う体験でもあり、私たちはそんなとき、神さまに見捨てられたと思うかもしれません。しかしそれは、イエスさまというぶどうの木から切り落とされることではありません。実を結ぶために、余計な枝葉が切り落とされるということです。後生大事にしているつもりのものは、実は神さまにあって愛の実を結ぶうえでは不必要であったりすることはよくあるもので、私たちはそれらのものを失うとき、むなしさや悲しみを覚えるのではなく、キリストの似姿に近づけたことを喜んでまいりたいものです。 箴言12章……知恵ある人は学びます。自分が完成品ではないことを知っているからです。しかし、だれの目から見ても完成品の姿からは程遠い愚か者が、学んで自分を陶冶しないとは、なんということでしょうか。しかし、彼らは永らえません。知恵ある者にふさわしく勤勉であるならば、この世でリーダーシップを取り、のちの世で統べ治める力を得ます。 エペソ人への手紙5章……ひそかに行ういやらしいこと、むさぼり、深酒……このようなことは聖徒にはふさわしくないことであり、話題にすらすべきではないことです。世の文化はこのようなものを称賛し、仲間入りしない私たちのことを馬鹿にしますが、猥談や酒宴に仲間入りしないことは、私たちにとって勲章というべきことです。 <祈りの課題>すべてのクリスチャンが自分の足りなさを悟り、日々学ぶ者となりますように。

083 3月24日 出35ヨハ14箴11エペ4

出エジプト記35章……イスラエルの全会衆は、荒野の生活の乏しい中でも、なお主におささげするものを持ち寄りました。この姿は私たちにとっても模範になります。私たちは荒野の民よりもよほど豊かなのではないでしょうか。私たちは主におささげするために、どこに、何を持ち寄りますでしょうか。 ヨハネの福音書14章……私たちの祈りが聞かれるということは、イエスさまが御父に願うとおりのことを御父がなしてくださるということです。そのようにお祈りを聞いてくださることによって、御父は栄光を受けられます。このようにして私たちは生活を通して、御父の栄光をあらわすのです。私たちの祈りは果たして、御父が栄光をお受けになるにふさわしい内容となっていますでしょうか。 箴言11章……クリスチャンは人から寛容であることが求められやすい立場にあるでしょう。そんな私たちは、人の保証人になるような難しい立場を引き受けることを求められることもあるかもしれません。しかし、過度の責任を負おうとすることは、神さまが求めていらっしゃる以上の重荷を自分に負わせることになります。もし、保証人になることを断るからと、「それでもクリスチャンか!」などというような人には、言わせておけばいいのです。「クリスチャンだから」保証人にならないのです。 エペソ人への手紙4章……異邦人ということばに象徴される不信者の特徴は、好色です。しかし、クリスチャンはキリストにあって教えられているゆえに、好色というものを学ぶ者たちではないと、パウロは喝破しています。ダビデにしてもバテ・シェバを見るや好色から自由ではなかったように、脱ぎ捨てるべき古い人の特徴の代表のような好色から自由になることは簡単ではありません。しかし私たちは、主の恵みに拠り頼んで、好色から自由にならせていただくのみです。 <祈りの課題>保証人を引き受けたために大きな苦しみを背負ってしまっておられる兄弟姉妹が、その試練から脱出できるように。

082 3月23日 出34ヨハ13箴10エペ3

出エジプト記34章……神の民は宿営なる教会を出てこの世へと出ていきますが、注意しなければならないことは、この世の勢力は自分たちの神々と契約を結ばせようと、すなわち、自分たちの不義の文化に私たち神の民のことを染めてしまおうと、手ぐすねを引いていることです。もし私たちがこの世の文化に染まるならば、それは私たちはまことの神さまを捨ててこの世の神に仕えるということを意味します。この世の神を避けなければなりません。 ヨハネの福音書13章……イエスさまは弟子たち、すなわち、主のみことばを受けてお従いするすべての人に、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい、とおっしゃいました。その模範としてまずイエスさまは、完全なしもべの姿を取って、弟子たちの足を洗ってくださいました。私たちもこのようにへりくだって、兄弟姉妹のしもべとなるとき、イエスさまの愛を全うすることができるのです。 箴言10章……愚か者は不精であり、無精者は愚かです。普段から御国を立て上げるために働くことをしない「悪い、怠け者のしもべ」は、働かないくせして口だけは達者です。あたかもイエスさまの「タラント(ミナ)のたとえ話」の、働かなかったことを主人のせいにするようなしもべのようです。私たちは働かないことの理屈を考える前に、少しでも御国を立て上げるために前に進んでいきたいものです。 エペソ人への手紙3章……私たちは幸いな時代に生まれ、生かされています。なぜならば、キリストの奥義が御霊によって啓示されているからです。私たちは異邦人ですが、御霊によって福音を受け入れる者とされ、神の民とともに神の民として、御国の共同相続人にならせていただきました。私たちが御国を受け継ぐ者とならせていただいたとは、どれほど素晴らしいことでしょうか。 <祈りの課題>私たちが率先して兄弟姉妹に仕えるしもべとなることができますように。

081 3月22日 出33ヨハ12箴9エペ2

出エジプト記33章……主は、恵もうと思われる者を恵まれ、あわれもうと思われる者をあわれんでくださいます。その主のみこころは、主が特別に扱ってくださるというしるしによって知ることができます。私たちにはみことばが与えられていて、みことばに聴き従う恵みが日々あります。これこそ、主が特別に扱ってくださっているという証拠ではないでしょうか。 ヨハネの福音書12章……イエスさまは、ご自身に香油を注いだ女性を評価されました。それは葬りの日のための準備、すなわち、あと少しすれば十字架にかかられるというその日に備えたということです。私たちがおささげする礼拝とは、そのようにイエスさまの十字架を覚えておささげするものであり、その機会は貧しい人たちを救済する機会のように潤沢にあるわけではありません。一回一回の礼拝の機会を大事にしたいものです。 箴言9章……神さまは、人がみな知恵を得て賢くなることを願っていらっしゃいます。私たちがお読みしているみことばは、知恵の宝庫です。私たちが世に出ていってみことばに従った生き方を人々の前で実践するということは、この至上の知恵を人々に伝えるという主のみこころに従った生き方をしていることになります。 エペソ人への手紙2章……いわゆる「キリスト教国」と呼ばれる国のクリスチャンを見るとき、数的に劣っている国のクリスチャンがコンプレックスを覚えることはないでしょうか? 特に、不仲の民族どうしであったとすればなおさらです。しかし、同じキリストを信じる信仰によって、クリスチャンどうしに壁はありません。ともにキリストを見上げてまいりたいものです。 <祈りの課題>不仲なことにされている民族どうしが、イエスさまの十字架をともに信じる信仰によってひとつとなるように。

080 3月21日 出32ヨハ11箴8エペ1

出エジプト記32章……私たちは主の民であるといっても、堕落して主の怒りを受けるようなことの多い者です。それでも主が私たちのことを滅ぼさず、生かしてくださるのは、私たちが善良だからではありません。そのように主が滅ぼされることで敵の笑いものとなることのないようにする主のご配慮ゆえであり、主のご栄光が汚されないゆえです。すべては主のご栄光にかかっていることです。 ヨハネの福音書11章……イエスさまはラザロの死と復活をとおして、そのご栄光を顕してくださいました。人は死ということでいやしがたい悲しみと絶望を覚えるものですが、イエスさまの栄光の御力は、その死の悲しみと絶望さえないものにしてくださいます。悲しむ人は、主が座を占めていらっしゃり、召された人がいる天の御国を見上げてまいりたいものです。 箴言8章……主は、ご自身を熱心に探し求める者に、ご自身を現してくださいます。よく、「神はどこにいるのか」という人がいますが、そういう人はもし、主を捜し求めているようなそぶりをしていたとしても、所詮それは口だけ、パフォーマンスにすぎません。主は、へりくだる者に現れてくださいます。みことばの約束どおりに現れてくださいます。 エペソ人への手紙1章……教会は偉大な存在です。なぜ偉大かというと、万物の上におられるキリストが与えられた、キリスト、すべてのものをすべてのもので満たすお方のからだであるからです。教会とはこの地上において、どれほど大事な場所、大事な共同体でしょうか。これからも私たちは、教会に属し、教会を大事にしてまいりたいものです。 <祈りの課題>現在、特定の教会に所属しないクリスチャンの方が多くいらっしゃいます。そのような兄弟姉妹が所属できる教会が与えられますように。

079 3月20日 出31ヨハ10箴7ガラ6

出エジプト記31章……安息は極めて聖なるものです。私たちはこの安息をもって、神さまの御前に出て行きます。神さまの御前に休みもしないでがつがつと生きることをやめないならば、それはどれほど神の民にふさわしくない生き方をしていることでしょうか。私たちは安息の日を神さまの御前に聖別するために、普段から計画を立ててまいりたいものです。 ヨハネの福音書10章……イエスさまへの迫害はすでに始まっており、イエスさまの語られたおことばのゆえに石を投げつけようとする者たちが現れていました。そのような者たちの迫害からイエスさまが逃れておられたのは、迫害そのものを避けるためではありません。石打ちで死なれるのではなく、十字架で死なれるためでした。 箴言7章……誘惑する人妻がどれほど恐ろしい存在か、そこからいかに身を避けなければならないかを、これでもかと語っています。それは、この存在が恐ろしいからということもさることながら、クリスチャン男性はいかにきよめられた存在であろうとも、このような誘惑に弱いことを認めるべきだからということもあります。きよさを保つため、主の恵みとあわれみに今日もすがる必要があります。 ガラテヤ人への手紙6章……このみことばは「御霊に蒔く」ということは永遠のいのちを刈り取ることにつながると語ります。その種蒔きは具体的に言えば、信仰の家族、すなわち同じ教会で共同体として信仰生活を行う兄弟姉妹に対し、失望せずに善を行い続けることです。 <祈りの課題>クリスチャンたちが性的な罪から守られますように。

078 3月19日 出30ヨハ9箴6ガラ5

出エジプト記30章……聖なる注ぎの油は人に注いだり、似た調合のものをつくってはならないと戒められています。主のみこころにかなう祈りはあくまで神さまに対してささげるべきものであり、それを人に対して請願したり、人をあたかも神のように聖なる存在として扱ったりすることは、私たち神の民にとってとてもふさわしくないことです。 ヨハネの福音書9章……イエスさまは物乞いを罪人扱いせず、目を見えるようにしてくださいました。しかし宗教指導者たちは、今や目の見えるようになった彼をなおも罪人扱いし、会堂から追放しました。しかし、ほんとうに目が見えなくて罪人なのは物乞いではありません。何の権威でか、イエスさまを信じる者は会堂から追放するなどとうそぶいた彼ら宗教指導者です。 箴言6章……現代はインターネットの発達で、匿名で(しかも有名人や名士たちとまったく同じ字体で!)発言できる時代となり、人を中傷する(人に中傷される)機会がそれだけ増えたということになります。しかしみことばは、そのように中傷することに飽くことを知らない者は、破局を迎えることを警告しています。匿名を用いて人の目はごまかしおおせても、神さまに対しては何も隠すことはできません。 ガラテヤ人への手紙5章……私たちは律法によって戒められるのではありません。十字架によって戒められています。十字架によって戒められる人には、愛をもって人に仕える自由があります。自由を肉の働く機会に用いない信仰が育ちます。私たちは十字架を信じる信仰をしっかり保ち、御霊によって進んでまいりたいものです。 <祈りの課題>匿名掲示板で人のうわさ話や激烈な表現での中傷をすることを喜ぶ(本人は喜びではなく、正義感から必要に迫られてやっていると思っているかもしれないが)クリスチャンたちが、自分のしていることの重大さに気づき、悔い改め、建設的なことができるように。

077 3月18日 出29ヨハ8箴5ガラ4

出エジプト記29章……人が祭司に任職されるために、主は子羊の血を流し、屠ることを命じられました。Ⅰペテロ2:9によれば、私たちは祭司とされていますが、私たちを祭司とするために流された子羊の血は、イエス・キリストの十字架の血潮です。 ヨハネの福音書8章……私たちは自分のことを自由人のように思っていても、罪を行なっているならば罪の奴隷です。私たちが罪の奴隷から解放されて自由になるためには、イエスさまのことばという真理にとどまる必要があります。そのようにイエスさまのことばにとどまる者こそ、イエスさまの弟子にしていただいている者です。 箴言5章……姦淫を行わせる異性には「近づいてはなりません」。私たちのすることは、そのような劣情的な興味を抱くことではなく、配偶者と愛の生活をすることです。もし、配偶者がいなければ、配偶者を求めて祈ることが大事です。 ガラテヤ人への手紙4章……私たちはイエスさまを信じる信仰によって罪の奴隷から解放されました。なのに私たちは、罪の奴隷に戻ろうという意識が働くものです。しかし、その意識を当然のものとするならば、私たちにとってイエスさまとの交わりは意味のないものになります。私たちはキリストのある自由人としてのアイデンティティを持ち、また、それにふさわしくふるまう必要があります。 <祈りの課題>結婚を祈り求めるクリスチャンたちに最善のパートナーが与えられるように。

076 3月17日 出28ヨハ7箴4ガラ3

出エジプト記28章……主は、ご自分にお仕えする祭司のために聖なる装束を意匠を凝らしてつくらせるようにお命じになりました。私たちは、聖徒が主の御前にふさわしい礼拝をささげる祭司の役割を果たせるように、まるで聖徒の礼服を丹念込めて作るように、聖徒をお手伝いする役割が与えられています。礼拝堂の掃除、主の晩さん(聖餐式)やバプテスマ(洗礼式)の準備、みなこの「聖徒がふさわしい礼拝をささげるお手伝い」をすることによって、ともに主の御前に出る麗しい働きとなります。 ヨハネの福音書7章……イエスさまは、この年の過越の祭りには上っていかないとおっしゃってはいましたが、内密に行かれ、人々の前に現れて、渇く者はわたしのもとに来て飲みなさい、とおっしゃいました。イエスさまは人の時ではなく、神の時にしたがって行動されました。私たちもイエスさまに対して人間的な期待をし、それが応えられなかったらイエスさまを信じるのをやめるのではなく、イエスさまが行動される基準である神の時を見分けるために、祈りとみことばに専念する者となりたいものです。 箴言4章……私たちが霊的な子どもたち(自分の子どもであったり、教会の次世代であったり)に対してすることは、みことばの知恵を教えることです。罪の性質が取り扱われていないと、悪の道を志すようになってしまわないともかぎらないゆえ、みことばという至上の知恵を教えるのです。しかし、この知恵が何よりも素晴らしいことを子どもたちに示すには、まず大人である私たち自身が、知恵を喜び、知恵に従う生き方をすることです。 ガラテヤ人への手紙3章……誰も律法を完全に守り行うことはできず、したがってのろいのもとにあります。すべての人は律法という神の基準に達していない存在ゆえ、神ののろいと怒りを受けるべき存在です。しかしイエスさまは、木にかけられてのろわれた者となり、私たちが受けるべきのろいを身代わりに受けてくださいました。私たちは十字架のゆえに、神の怒りとのろいから救われました。 <祈りの課題>私たちが次世代育成(若者、子ども)に深い関心を寄せ、活動をしていくように、活動の段階に至っていないならば、まず自分がその働きを担えるように祈ることから始められるように。

075 3月16日 出27ヨハ6箴3ガラ2

出エジプト記27章……主の御前ではともしびが絶えずともされます。ともしびは主の民だからと神さまがともしてくださるのではなく、民の側で努力して絶やさずにともしておくものです。私たちにとって主の御前に礼拝をおささげするディボーションの生活をすることは、主の御前に絶えずともしびをともしておくようなものです。私たちはこのともしびが明るく燃えるように、神の前に燃え、人の前に世の光となります。 ヨハネの福音書6章……イエスさまについていこうと思う人々も、十字架という奥義を前にしては、二の足を踏み、イエスさまから去っていくものです。十字架のことばは人には愚かに思えますが、救いに召された人々にとって神の力、唯一の救いの道であると信じるべきもので、私たちの誇りとすべきは、人が何と言おうと十字架です。 箴言3章……人に悪をたくらむ、暴虐を行うことに、私たちはどこかで憧れたりしていないでしょうか。映画、テレビ、ゲーム……世のものはそのようなものにあこがれる人間の罪の性質を刺激します。しかし私たちは神の子どもたちらしく、そのようなものから身を避けていかなければなりません。 ガラテヤ人への手紙2章……律法主義で歩むことは、ある意味楽な歩みです。形式的な「宗教」をしてさえいればそれでいいからです。しかしそれはほんとうのところ、神さまにあってはもっとも不自由な生き方です。イエスさまの十字架によって自由にされた私たちは、人を意識したこのような宗教生活に堕しては、決してなりません。 <祈りの課題>世の中に健全な文化が根づいていくように、まず私たちから、この世の文化に一線を引くことができるように。

074 3月15日 出26ヨハ5箴2ガラ1

出エジプト記26章……神さまとイスラエルの民の会見する場としての幕屋は、極めて精巧にその材料が用意され、つくられました。すべては神さまのご指示どおりです。神さまと交わり、神さまに礼拝をおささげすることも、人間的なアイディアやプログラムで行うべきではありません。 ヨハネの福音書5章……イエスさまのなさることは、御父が行われることをご覧になって行われることです。それゆえ、あらゆる奇跡は、イエスさまご自身に由来するものではなく、父なる神さまに由来するものです。イエスさまの最大のわざは十字架ですが、その十字架こそ、御父が最大の犠牲をもって人類を救われた、その御業をそのまま実践されたことでした。 箴言2章……みことばの知恵を得ることと主を恐れることは一体です。主を恐れるからこそ、私たちは主のみことばから知恵を得て、そのみことばを守り行なって、悪の道に入っていくことがないようにするのです。 ガラテヤ人への手紙1章……福音はもちろん、イエスさまを信じて罪赦され、永遠のいのちをいただくということであり、これ以外に福音はありません。問題なのは、それ以外の教え、わけても律法主義を、あたかも信じ受け入れるべき福音のように教え、受け入れてしまうことです。そういう教えは往々にして魅力的に思えるもので、うかうかしているとそういう教えをありがたがり、イエスさまの福音を捨てるようになってしまいます。私たちは警戒する必要があります。 <祈りの課題>すべてのクリスチャンが、悪の道、特に異性の問題による失敗から身を避けるものとなりますように。

073 3月14日 出25ヨハ4箴1Ⅱコリ13

出エジプト記25章……ささげものとは、進んでささげる人から信仰共同体が受け取るべきものです。そこには「強制されて」とか、「するものと決まっているから(習慣だから)」といった理由があってはなりません。私たちのささげものの動機が問われています。私たちは果たして、自分から喜んでささげものをささげているでしょうか? ヨハネの福音書4章……サマリアの女は渇くことのない飲み水をイエスさまに求めましたが、そのときイエスさまは、この女性が男たちによっても満足を得ることができなかった(できないでいた)という、彼女のもっとも根本的な問題を言い当てられました。それは、彼女にとって悔い改めのはじまりでした。人は、イエスさまの前に罪を認めて悔い改めることによって、はじめてほんとうの回復を体験し、イエスさまのくださる渇くことのないいのちの真清水をいただくことができます。 箴言1章……箴言のみことばは特にそうですが、みことばは時に知恵を動員することでしか深い悟りを得ることができないような、難解な表現に終始することがあります。それは、それほど人が知恵深い存在として創造されていて、その知恵を用いてみことばを理解することで、知恵の源である創造主なる神さまにお従いし、神さまの似姿としてふさわしくふるまうためです。主のご栄光を現す営みは、みことばをお読みする段階ですでに始まっています。 コリント人への手紙第二13章……教会の指導者が願うことは、聖徒たちが強くなることです。その「強くなる」ということは、この世的に強くなるということではありません。そのように「強くなる」ということは、神さまの御前にはむしろ「弱くなる」ということです。ほんとうに強くなることは、キリストの強さがその身に実現することであり、そのためには、イエス・キリストと日々交わりを持つことが必要になります。教会の指導者は、聖徒たちがその日々の交わりの中にとどまれるように指導してこそ、本来の役割を果たしていることになります。 <祈りの課題>若者のクリスチャンたちがみことばから知恵を得る取り組みを日々続けていけるように。

072 3月13日 出24ヨハ3ヨブ42Ⅱコリ12

出エジプト記24章……民の代表者たちが畏れ多くも神さまご自身を仰ぎ見た場面です。しかし、神さまは彼らを打たれませんでした。それは、ご自身のみもとに引き寄せられるのが神さまのみこころであったからです。私たちも本来ならば神さまの御前に出ることの許されない者ですが、神さまは恵みをもって、私たちをみもとに召してくださいます。私たちのすることは、そのように召してくださる神さまのみもとに行き、神さまを喜ぶことです。 ヨハネの福音書3章……バプテスマのヨハネが告白したように、主の働き人のすることは、イエスさまが盛んになり、自分自身が衰えるように働くことです。人は、主の働き人を名乗るような人であっても、なんと自分を売り込もうとしたり、イエスさまが隠れてしまうような働きをしたりすることでしょうか。ヨハネの心境に至るのは難しいですが、この心境は、主の働き人ならだれでも持つべき働きの基準です。 ヨブ記42章……神さまがヨブを回復されたとき、ヨブに最初にお与えになった働きは、神さまについて確かなことを語らなかった3人の友のためにとりなして祈ることでした。この祈りをするには、ヨブが彼らに苦しめられたという、その罪を主にあって赦すことから始まります。私たちにとって赦すということは簡単なことではありませんが、自分に対してさまざまな傷つけることばを語ったことを忘れないでいて、余計に心を痛めるよりも、よほど生産的であり、それ以上に神さまのみこころにかなうことではないでしょうか。 コリント人への手紙第二12章……パウロはコリント教会を育てるために、他教会からの献金をつぎ込んでミニストリーにあたりましたが、それはかえって、コリント教会が自分たちで犠牲を払って成長する道を阻むことになってしまいました。パウロはそれを自ら、私があなたがたに働いた不正であると告白し、赦しを乞うています。教会がほんとうに成長し、成熟するためには、受けてばかりでいてはなりません。自分たちも犠牲を払い、他のためにささげる実践がどうしても必要になります。そのような成長をともに目指してまいりましょう。 <祈りの課題>人を赦すという問題で苦悩するすべてのクリスチャンが、怒りを手離すことで自由になれるように。

071 3月12日 出23ヨハ2ヨブ41Ⅱコリ11

出エジプト記23章……多岐にわたる律法のみことばの記述ですが、このように述べられているのは、神の民がこれらの律法を守り行うことによって、主にお従いする幸せな生活を送るためです。そのことは、さまざまな命令のみことばに交じって、他民族を追い払われるそのタイミングに至るまで、そのタイミングを定められる理由とともに述べられていることからも明白です。 ヨハネの福音書2章……イエスさまは主の宮から余計なものを追い出し、きよめられるお方です。私たちも主の宮です。私たちの中に、主のみこころに反する部分はあるはずです。エルサレム神殿で商売していた者たちは霊的感覚が麻痺していましたが、私たちはどうでしょうか? 問われる思いがあるならば、すぐに悔い改めるものとなりますように祈りましょう。 ヨブ記41章……ヨブの時代には、現代ではその正体を知るのが困難なレビヤタンなる動物(爬虫類? 恐竜ともいわれています)が存在し、その存在に人々は恐れを抱いていたようですが、この世界に猛獣、強くて獰猛な動物が存在することは、その創造主なる神さまが恐るべきお方であることを示しています。恐れるべきは動物のような目に見える存在ではなく、目に見えない神さまです。 コリント人への手紙第二11章……パウロは、自分の身に起こったことを率直に述べるにあたって、それを主によって話すのではない自慢話であると言っていますが、もちろんこれは自慢話のたぐいではありません。パウロは彼らに認められたところで何になるわけでもありません。そのように話すことで、コリント教会の信徒たちを謙遜にさせようとしているわけで、彼らを厳しく育てる愛情ゆえに語ったことです。 <祈りの課題>私たちの日々のディボーションの生活が、正しい悔い改め、主との交わりへと導かれますように。

070 3月11日 出22ヨハ1ヨブ40Ⅱコリ10

出エジプト記22章……上着を質に取ったらそれを夕方までに返さなければならない、とあります。それが主の民の守り行うべき掟ですが、上着を取る者には下着も与えよ、とイエスさまはおっしゃいました。その掟を守らない者が現れても、寛容であれ、ということです。そのように寛容であることは人には難しいことですが、神さまはご自身に背きつづける、私たちも含む主の民に対して寛容であられ、そのような民でも最低限守り行うべき掟を与えてくださり、私たちが掟のもとにある民であることを教えてくださっています。 ヨハネの福音書1章……イエスさまを信じるということは、私たち自身から出た行動ではありません。これも神さまがお導きのうちにさせてくださる行動です。そのようにしてイエスさまを信じ、神さまを信じるということが、「神によって生まれる」ということです。 ヨブ記40章……罪とは、自分と義とし、神さまを不義に定めることです。しかし、そのようなことをする人間は、神さまに比べていったい何ができるというのでしょうか。そのような大それた罪にとどまりつづける前に、いち早く悔い改める必要があります。 コリント人への手紙第二10章……教職者に与えられた権威は倒す権威ではなく、教会を立て上げる権威です。みことばを伝えるということに関して、教職者の悪口を言うことは、その権威をそしることになり、結局は自分自身が神さまの働き人として用いられなくなることにつながります。 <祈りの課題>今なお東日本大震災からの復興の途上にある東北地方で宣教する諸教会と教職者のために。

069 3月10日 出21ルカ24ヨブ39Ⅱコリ9

出エジプト記21章……主人と奴隷に天地の格差があった古代において、主なる神さまは奴隷の人権を大事にするように命じられました。もちろん、身分のちがいゆえにそれ相応の扱いをすることが許容されていましたが、主の願っておられたことは、彼ら奴隷に対して優しくすることでした。なぜならば、彼らもまた神のかたちに創造された存在だからです。 ルカの福音書24章……イエスさまのご復活は、単なる幻とか、物質的ではない霊においてではありません。肉体をとってこの地上を生きられたのとまったく同じように、肉体をもって復活されました。このことを弟子たちにお示しになるため、お魚を召し上がってみせられたとは、イエスさまは実にユーモアあふれるお方ではないでしょうか! ヨブ記39章……人間だけで生活しているかのような都会では忘れてしまいがちですが、神さまは私たちの住む世界に、鳥類や獣を備えられました。その生態は、ところどころ人間の生活と共通するところがあり、人間が神のかたちとして創造された存在である以上、彼ら生物を見ると、そこに大いなる神のご存在とみわざを見ることができます。このお方に人間は何をどうしても太刀打ちすることはできません。ヨブはこのようなお方を相手に、神をうんぬんするようなことをしていたのでした。 コリント人への手紙第二9章……神さまにささげるということは、自分ではいやなのに人に言われたからとささげるようでは、神さまに喜ばれるささげものにはなりません。ささげものは自発的であるべきです。神さまはその自発的にささげる喜びを私たちに与えてくださり、その喜びのささげものは神さまに喜んでいただけます。 <祈りの課題>日本のクリスチャンの献金生活が祝福されるように。

068 3月9日 出20ルカ23ヨブ38Ⅱコリ8

出エジプト記20章……「神をも恐れぬ」ということばがありますが、このときイスラエルは、神を大いに恐れていました。この恐れは、人を罪から遠ざけ、したがって、さばきから遠ざけることになります。神への恐れがあることは素晴らしいことであり、今日もまた私たちは、神を恐れつつお従いしたいものです。 ルカの福音書23章……イエスさまは、兵士たち、ひいては、そのように扇動したユダヤ人たち、すべての罪人たちが、ご自身を十字架につけたゆえのさばきにあうことのないように、御父に祈られました。私たちもまた、イエスさまのこの十字架上の祈りによって、罪赦され、御父の怒りを免れています。 ヨブ記38章……ヨブと客たちとの問答の末、嵐が起こり、その嵐の中から主ご自身が語られました。主はヨブを見捨てておられなかったのでした。むしろ、ヨブのことを特別に愛しておられたゆえ、ヨブがまことの創造主なるご自身にほんとうの意味で目を開くため、創造のあらゆる御業を突きつけられました。人は偉大なる創造の御業を前にして、自分の無力さ、卑小さを思わされますが、それはむしろ、創造主に目が開かれる祝福の道です。 コリント人への手紙第二8章……キリストの愛にほんとうにあふれているならば、どんなに貧しくても、ほかの必要のためにささげる人になります。コリント教会はマケドニア教会に比べてはるかに豊かだったようですが、この「ささげる」ということに対しては、大いなるチャレンジを必要としていました。私たちの教会も、外部の必要を覚えてささげることが実践できているでしょうか? それができるには、私たちは何よりも、キリストの愛に満ちあふれている必要があります。 <祈りの課題>ささげたい、という思いが与えられたら、躊躇せずにささげる私たちとなれるように。

067 3月8日 出19ルカ22ヨブ37Ⅱコリ7

出エジプト記19章……主はイスラエルの民に、御声に聴き従い、主の契約を守るならば、主の所有していらっしゃる全地においてご自身の宝となるとおっしゃいました。主の民は、イエスさまの十字架を信じる信仰によって、御父と契約を結んでいただいた存在であり、それで救われているゆえに、みこころを守り行い、人々の間で主のご栄光を現し、その生き方で宝となる者たちです。 ルカの福音書22章……宗教指導者たちがイエスさまに対し、お前がキリストならそうだと言え、と迫ったのは、そのおことばを聞いて悔い改め、信じ受け入れるためではありませんでした。死刑に定めるためでした。イエスさまはそのようになっている状況を「今はあなたがたの時、暗闇の力です」とおっしゃいました。闇の力、サタンの勢力は、ほかならぬ、イエス・キリストを無きものにしようとする勢力です。 ヨブ記37章……エリフのことばの述べる対象は、全地や天体にまで至る神さまの御業にまで及びます。このような偉大なお方を前にして、人は何も言うことはできません。私たちは天地に現れるあらゆる表象を見て、その背後におられる創造主なる神さまをいつもほめたたえていますでしょうか。 コリント人への手紙第二7章……人に悲しまれることはだれにとってもつらいことです。このときのパウロも、その手紙によってコリント教会が悲しんだゆえ、一時(いっとき)苦しみました。しかし、コリント教会は悲しむことに終わらず、悔い改めました。すなわち、神さまに立ち帰ることをしました。私たちが悲しむ理由は、神さまに立ち帰るためであって、悲しみの中にとどまって、押しつぶされてしまうためであってはなりません。 <祈りの課題>現在、コロナ下その他の理由で主の晩さん(聖餐式)を中止している諸教会に、再開に向けた知恵が与えられるように。

066 3月7日 出18ルカ21ヨブ36Ⅱコリ6

出エジプト記18章……イテロは、ひとりで民をさばかないようにモーセに知恵を授けたのは、モーセも、そのさばきを待つ民も疲れ果ててしまわないためでした。主のみこころを守り行う優秀なリーダーは、ひとりで何でもやろうとしないで、職務分掌に踏み切る勇気を持ち、それを実践に移せる人です。 ルカの福音書21章……世の終わりはいつ来るかはわかりませんが、そのときにはしるしが現れます。人々はそのしるしゆえに怖れますが、私たちにとってその時すべきことは、贖いが近づいていることを知り、身を起こし堂々とイエスさまの御前に立つ備えをすることです。 ヨブ記36章……神さまは人を助け出してくださるお方です。しかし、神さまを敬わない、すなわち、神を神としない者はそれ相応の行動しか神さまに前に取ることができず、神さまはその行動にしたがって彼らのことをおさばきになります。 コリント人への手紙第二6章……14節以下のみことばは、「不信者」を糾弾する文脈で語られています。このみことばは、クリスチャンがまだイエスさまを信じていない人との結婚を批判する根拠となったりしているようですが、その根拠にこのみことばを用いるのはあまりに本人たちにかわいそうです。この場合の「不信者」は、昔から存在し、特に最近顕著になっている、教会に入り込んで食い荒らすタイプの「異端」を指しているとみるのが妥当です。 <祈りの課題>諸教会が健全な終末意識に立てるように。

065 3月6日 出17ルカ20ヨブ35Ⅱコリ5

出エジプト記17章……イスラエルがアマレクに勝利するには、祈りの手を天に上げるモーセの手を支えるアロンとフル、人が2人必要でした。とりなしの祈りというものは一人でできるものではありません。2人でも3人でもイエスさまの名において集まるところにはイエスさまもともにおられると語られましたが、祈りの共同体をつくることがとても大事です。いま事情があって教会に集えていらっしゃらない方も、この祈りの共同体に加わられることを祈っていただきたいと思います。 ルカの福音書20章……宗教指導者たちは、バプテスマのヨハネに対する見解を問われて答えに窮しました。とどのつまり、彼らが恐れていたのは、彼らを取り囲む群衆に、自分たちのことを霊的に上に立つ指導者だと認めてもらえる特権が剝奪されることでした。しかし、このような者たちがイエスさまの権威がどこから来たのか尋ねるなど、愚かですし、傲慢なことです。イエスさまはそんな彼らの悪い性質が取り扱われないかぎり、ご自身の権威について彼らに何か語られる必要はありませんでした。 ヨブ記35章……エリフは、ヨブのしていることは、知識もなしに御前に言い分を並べ立てている罪を犯していることだと喝破しました。神さまがほめてくださったヨブにしてそうだったのです。いわんや私たちのような、みことばに関して生半可な知識にとどまっているような者たちは、神さまの前に負けを認めてへりくだらないかぎり、どれほど傲慢で無知なことばを主の御前に並べ立ててしまうことでしょうか。 コリント人への手紙第二5章……私たちがはこの地上にあって苦しみ、それゆえに主に向かって声なき叫びをあげます。しかしその理由は、この地上の生活から解放されたいという願いそのものにあるのではなく、天国に入り、まことのいのちに入れられたいからだとパウロは説破しました。私たちもこの地上にあって苦しみますが、私たちは、やがて入れられる天国を積極的に切望し、この地上の人生を、天国に入る準備の時間として大切にしてまいりたいものです。 <祈りの課題>いま教会に集えていない兄弟姉妹が、特別な養いと導きを受けられますように。入れられるべき共同体へと導かれますように。

064 3月5日 出16ルカ19ヨブ34Ⅱコリ4

出エジプト記16章……イスラエルの民は安息日の前の日に、2日分のマナを集めるように命じられました。それは、安息日が全き休みの日となり、マナを取り集めるという労働に出ていかないようにするためです。安息日の前の日にしっかり労働するのは、安息日をしっかり聖別するためです。私たちは、働くために休むのではなく、休むために働くのです。 ルカの福音書19章……イエスさまが王になることを望んでいない者は、終わりの日にそれ相応のさばきを受けます。この地上においては、イエスさまの再臨に備えて種まきをし、少しでもその実を刈り取れるように主の求めることが大事です。主はさばき主で、自分のしたことをいちいちおさばきになるなどと言い訳をして、何もしないのならば、そのような者こそを主はおさばきになります。 ヨブ記34章……ヨブは神さまを告発するようなことばを並べたてましたが、エリフは、神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない、と、ヨブを戒めました。エリフのこのことばは、神さまについて私たちが語るときのあらゆる前提となります。 コリント人への第二の手紙4章……パウロは、見えるものではなく、永遠に続く見えないものに目を留めていると語りました。パウロがコリント教会を育てているのは、見えないもの、すなわち、この書簡を読んだすべてのクリスチャンが神を愛し、人を愛する人として成長する大いなる未来へと実を結ぶためです。パウロがそれを見ていたように、私たちもまだ見ぬ未来のビジョンを描き、今日も種を蒔きつづけたいものです。 祈りの課題……トラクトの戸別配布に献身する、EHCをはじめとするすべての組織のために。郵便受に入れられたトラクトが読まれ、読んだ人が救いに導かれますように。

063 3月4日 出15ルカ18ヨブ33Ⅱコリ3

出エジプト記15章……主はイスラエルの民に、掟を守ることを命じられましたが、それはイスラエルの選択にかかっていました。ただし、イスラエルは一方で、守り行わないという選択をした場合の結果として、主がエジプトに下されたようなわざわいを甘受しなければならない、という警告も受け取っていました。主はゆえなくわざわいを下される方ではありません。 ルカの福音書18章……弟子たちが、イエスさまの予告された十字架と復活のみことばを理解できなかったのは、それが彼らには隠されていたからだとあります。主の十字架と復活、昇天と聖霊降臨を経て、はじめてみことばの意味が開かれたように、私たちも今はみことばの意味がわからないことがあります。しかし、主が時を来たらせてくださり、その意味を知ることができるようになります。主のお導きに期待しましょう。 ヨブ記33章……エリフは、これまでの問答の中でヨブに欠けていたものは、罪の悔い改めと主への賛美であることを明らかにしました。私たちも大きな苦しみの中におかれたとき、ヨブのごとく赤裸々な嘆きをすることは妨げられてはなりませんが、そのような中でも悔い改めと賛美に至る恵みをいただくならば幸いです。 コリント人への手紙第二3章……私たちの受けた永遠のいのちの栄光はキリストによって覆いが取り除けられ、覆われていません。それゆえ私たちは主の栄光を映しつつ生きてまいります。そのように私たちは、この世において主の栄光を輝かせながら生きる者として召され、遣わされています。 <祈りの課題>苦悩の中にあるクリスチャンたちが、それだけで終わるのではなく、主への立ち帰りと賛美へと導かれる恵みをいただきますように。

062 3月3日 出14ルカ17ヨブ32Ⅱコリ2

出エジプト記14章……イスラエルに求められていたことは、不満の叫びをあげることではなく、黙っていることでした。その中で主はみわざを行われ、エジプトにさばきを下されました。私たちも時に、祈りにおいてことばを連ねることに終始せず、沈黙の中で主を待ち望むことが必要になります。主はそのような中でもみわざを行なってくださいます。 ルカの福音書17章……私たちが神さまに従順にお従いする行動を重ねるのは、当然のことですが、神さまに感謝していただくためでは決してありません。主人のしもべが主人の恵みで職を得ているゆえ、すべきことを粛々と行うのと同じことです。神さまのために働くこととは、隣人に愛を実践することです。感謝してもらうことを前提に奉仕すべきではありません。奉仕するのは当然のことです。むしろ、感謝すべきです。 ヨブ記32章……ほんとうに知恵があり、神さまを恐れるエリフは、年少ということでことばを控えていましたが、彼らの問答が終わったタイミングで語りはじめました。彼はもはや、年少ということを気にせず、心からあふれそうになることばを語るのみでした。このタイミングを備えてくださったのは、神さまのお導きでした。 コリント人への手紙第二2章……教会の中には時に問題が起こり、その問題を起こした人に対する相応の処分が下されることがあります。それはその処分によって、その人が悔い改めるためです。しかしそうなったら、教会のすることは、その人がかつて起こした問題を何かにつけて取り上げて糾弾することではなく、赦すことです。主が「あなたの罪を思い出さない」とおっしゃったように、その問題をもう口にしないことが、教会の取るべき愛の態度です。 <祈りの課題>聖書を持っていない世界のクリスチャンたちに、みことばが届くように。危険を冒してみことばを届けている働き人が守られるように。

061 3月2日 出13ルカ16ヨブ31Ⅱコリ2

出エジプト記13章……主は、雲の柱、火の柱をもって、イスラエルの民を導かれました。主の導きというものは、主の共同体に臨むという前提でとらえるべきものであり、個人的に受けることに限定して考えるべきではありません。 ルカの福音書16章……金持ちが生前耳を傾けなかった「モーセと預言者」とは(旧約)聖書であり、「死人の中から生き返」る人とはイエスさまです。生前、みことばと、みことばの示すイエスさまに耳を傾けないで、みこころを無視して生きる人には、それ相応の報いがあります。それゆえ私たちはイエスさまとそのみことばに聴き従いつづけ、まだ知らない人々に宣べ伝えるのです。 ヨブ記31章……ヨブは、不正な者の在り方を語りながら、自分はどれほどそのような者ではなかったかということを語るにあたり、「アダムのように自分の背きをおおい隠」す者ではなかったと言いました。これは、アダムの子孫であるゆえに罪をおおい隠す性質の備わった、神さまによってしか解決しない現在が自分にあることを否定する態度です。この態度が取り扱われない限り、人はほんとうの意味で神さまの前に出ていくことはできません。 コリント人への手紙第二2章……パウロは自分のことを、「あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です」と語ります。これがまことの指導者の態度です。牧会者によっては、自分の指導する群れを自分の好きなように支配しようとする者がいますが、それは牧会者自身がキリストに従っていることになりません。牧会者が求めるべきは、権力欲を満足させる自分の肉的な喜びではなく、群れで共有する喜びです。 <祈りの課題>発行するディボーションテキスト『リビングライフ』に毎日「マクチェイン式聖書通読法」の箇所を掲載する「ツラノジャパン」と、関連組織である「CGNTV」のために。