073 3月14日 出25ヨハ4箴1Ⅱコリ13

出エジプト記25章……ささげものとは、進んでささげる人から信仰共同体が受け取るべきものです。そこには「強制されて」とか、「するものと決まっているから(習慣だから)」といった理由があってはなりません。私たちのささげものの動機が問われています。私たちは果たして、自分から喜んでささげものをささげているでしょうか?

ヨハネの福音書4章……サマリアの女は渇くことのない飲み水をイエスさまに求めましたが、そのときイエスさまは、この女性が男たちによっても満足を得ることができなかった(できないでいた)という、彼女のもっとも根本的な問題を言い当てられました。それは、彼女にとって悔い改めのはじまりでした。人は、イエスさまの前に罪を認めて悔い改めることによって、はじめてほんとうの回復を体験し、イエスさまのくださる渇くことのないいのちの真清水をいただくことができます。

箴言1章……箴言のみことばは特にそうですが、みことばは時に知恵を動員することでしか深い悟りを得ることができないような、難解な表現に終始することがあります。それは、それほど人が知恵深い存在として創造されていて、その知恵を用いてみことばを理解することで、知恵の源である創造主なる神さまにお従いし、神さまの似姿としてふさわしくふるまうためです。主のご栄光を現す営みは、みことばをお読みする段階ですでに始まっています。

コリント人への手紙第二13章……教会の指導者が願うことは、聖徒たちが強くなることです。その「強くなる」ということは、この世的に強くなるということではありません。そのように「強くなる」ということは、神さまの御前にはむしろ「弱くなる」ということです。ほんとうに強くなることは、キリストの強さがその身に実現することであり、そのためには、イエス・キリストと日々交わりを持つことが必要になります。教会の指導者は、聖徒たちがその日々の交わりの中にとどまれるように指導してこそ、本来の役割を果たしていることになります。

<祈りの課題>若者のクリスチャンたちがみことばから知恵を得る取り組みを日々続けていけるように。

コメント

このブログの人気の投稿

210 7月29日 士12使16エレ25マコ11

365 12月31日 Ⅱ歴36黙22マラ4ヨハ21

361 12月27日 Ⅱ歴32黙18ゼカ14ヨハ17