061 3月2日 出13ルカ16ヨブ31Ⅱコリ2
出エジプト記13章……主は、雲の柱、火の柱をもって、イスラエルの民を導かれました。主の導きというものは、主の共同体に臨むという前提でとらえるべきものであり、個人的に受けることに限定して考えるべきではありません。
ルカの福音書16章……金持ちが生前耳を傾けなかった「モーセと預言者」とは(旧約)聖書であり、「死人の中から生き返」る人とはイエスさまです。生前、みことばと、みことばの示すイエスさまに耳を傾けないで、みこころを無視して生きる人には、それ相応の報いがあります。それゆえ私たちはイエスさまとそのみことばに聴き従いつづけ、まだ知らない人々に宣べ伝えるのです。
ヨブ記31章……ヨブは、不正な者の在り方を語りながら、自分はどれほどそのような者ではなかったかということを語るにあたり、「アダムのように自分の背きをおおい隠」す者ではなかったと言いました。これは、アダムの子孫であるゆえに罪をおおい隠す性質の備わった、神さまによってしか解決しない現在が自分にあることを否定する態度です。この態度が取り扱われない限り、人はほんとうの意味で神さまの前に出ていくことはできません。
コリント人への手紙第二2章……パウロは自分のことを、「あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です」と語ります。これがまことの指導者の態度です。牧会者によっては、自分の指導する群れを自分の好きなように支配しようとする者がいますが、それは牧会者自身がキリストに従っていることになりません。牧会者が求めるべきは、権力欲を満足させる自分の肉的な喜びではなく、群れで共有する喜びです。
<祈りの課題>発行するディボーションテキスト『リビングライフ』に毎日「マクチェイン式聖書通読法」の箇所を掲載する「ツラノジャパン」と、関連組織である「CGNTV」のために。
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