089 3月30日 レビ1ヨハ20箴17ピリ4
レビ記1章……牛または羊の家畜が主にささげられる場合、傷のない雄でなければなりませんでした。ささげものとは、人のすべての罪を背負って十字架におかかりになったイエスさまといういけにえを象徴しています。イエスさまに罪がなかったように、私たちもイエスさまのきよめを日々いただいて、主の御前におささげする生活が、傷のない霊的な礼拝となるように努めてまいりたいものです。
ヨハネの福音書20章……人は「主を見せてほしい、そうすれば信じる」と言うでしょうが、そういう人は仮に主を見たとしてもおそらく信じません。私たちは主を見たことはないけれども信じていますが、それは幸いなことです。いつ、どこにもともにいてくださる主のご臨在を知ることができることは、地上の人生において最大の祝福のひとつです。
箴言17章……邪悪なことばに満ちたこの世の文化(音楽、小説、映画、演劇、テレビドラマ、インターネットの動画配信……)を好むことは、喜んで「邪悪な唇に聞き入り」「破滅の舌に耳を傾ける」ことにはならないでしょうか。そのような者をみことばは、(たとえ自分がどんなに善良な、みこころにかなう人を自負していたとしても)悪を行う者、偽り者と評価し、それはその人が「愚か者」であるということです。
ピリピ人への手紙4章……「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる」……素晴らしい告白ですが、「どんなことでも」というものには、神さまのみこころを外れた自己実現というものは含まれません。パウロがどんな境遇にも耐えられたのは、その境遇が主の御跡を従って十字架を背負う生き方であることを自覚していたからであり、自由自在な全能感で行動していたわけではありません。ここを間違えると、祈ってもかなえられないことそのもので神さまを信じなくなるという、大きな間違いを犯すことになります。
<祈りの課題>この世の文化の中に、主のみこころにかなった善良な文化が広がっていきますように。
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