091 4月1日 レビ4詩1-2箴19コロ2
レビ記4章……罪のきよめのささげ物をすることは、ひとりの罪が赦されること以上に、共同体全体が罪から守られることに意義があります。私たちにとっての悔い改めは、個人的なものである以上に、教会という共同体が罪の汚染から守られるうえで、公的なものであることを覚え、悔い改めの歩みをしてまいりましょう。
詩篇1篇~2篇……世の勢力は主にお従いする私たちの歩みを、しょせんかせや綱につながれて不自由になっている姿としかとらえず、そこから自由にしてやる、その代わり俺たちのしもべになれ、と、私たちの寛容さを逆手に取って迫ります。しかし、主の子どもたち、主のしもべたちをそのような目に合わせようとする者たちは、主が怒りをもっておさばきになります。私たちは、主と、この世の勢力と、どちらを恐れているでしょうか。
箴言19章……子どもを懲らしめるのは愛情のためです。子どもがきちんと成長するのを望むためです。しかし、子どもをいつまでも子ども扱いしたり、大人の好き勝手でコントロールしたりするのは、子どもを「殺す」ことになり、箴言のみことばは、そのような大人の好き勝手を戒めているのではないでしょうか。
コロサイ人への手紙2章……かしらなるキリストに結びつかない群れが健全な教会、健全なクリスチャンたちを断罪するということは、よくあることです。その群れは幻を見たというようなことで人を説得しにかかる「論より証拠」で行きます。しかし、私たちが人を判断する基準は、「キリストに結びついているかどうか」であり、その判断を私たちは、その基準であるみことばに通暁することで下すことができるようになります。
<祈りの課題>不健全な教えに陥っている兄弟姉妹がその教えから救われ、健全な教会形成に用いられますように。
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