084 3月25日 出36ヨハ15箴12エペ5

出エジプト記36章……民は聖所の奉納物をこれでもかと持ってきましたが、主はそのささげもの、ならびにささげものに伴う仕事を制限されました。私たちの生活は、幕屋に象徴される教会の生活がすべてではありません。過ぎたるは及ばざるがごとし、一生懸命になりすぎることは、必ずしも美徳ではありません。普段の生活を大切にしてこそ、主の御前にともに進み出ることに意義があります。

ヨハネの福音書15章……御父は、ぶどうの枝である私たちに鋏を入れるようなときがあります。それは痛みや喪失を伴う体験でもあり、私たちはそんなとき、神さまに見捨てられたと思うかもしれません。しかしそれは、イエスさまというぶどうの木から切り落とされることではありません。実を結ぶために、余計な枝葉が切り落とされるということです。後生大事にしているつもりのものは、実は神さまにあって愛の実を結ぶうえでは不必要であったりすることはよくあるもので、私たちはそれらのものを失うとき、むなしさや悲しみを覚えるのではなく、キリストの似姿に近づけたことを喜んでまいりたいものです。

箴言12章……知恵ある人は学びます。自分が完成品ではないことを知っているからです。しかし、だれの目から見ても完成品の姿からは程遠い愚か者が、学んで自分を陶冶しないとは、なんということでしょうか。しかし、彼らは永らえません。知恵ある者にふさわしく勤勉であるならば、この世でリーダーシップを取り、のちの世で統べ治める力を得ます。

エペソ人への手紙5章……ひそかに行ういやらしいこと、むさぼり、深酒……このようなことは聖徒にはふさわしくないことであり、話題にすらすべきではないことです。世の文化はこのようなものを称賛し、仲間入りしない私たちのことを馬鹿にしますが、猥談や酒宴に仲間入りしないことは、私たちにとって勲章というべきことです。

<祈りの課題>すべてのクリスチャンが自分の足りなさを悟り、日々学ぶ者となりますように。

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