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032 2月1日 創33マコ4エス9-10ロマ4

創世記33章……人の前にも神の前にも完全に砕かれたヤコブは、エサウに何度もひれ伏し、贈り物を差し出しました。しかしエサウは、そのようなヤコブに怒りもせず、ヤコブのことを受け入れました。主は人の恩讐を超えて働かれ、本来あるべき関係へと導いてくださるお方です。 マルコの福音書4章……イエスさまはたとえをもって群衆に語られましたが、それを聴いたままにせず、その深い意味を尋ね求めるレベルにまで達しているのが、ほんとうの弟子です。私たちが手にしている聖書は、たとえの意味まで詳しく書かれていて、ということは、私たちは弟子に召されているということです。 エステル記9章、10章……アダルの月(ユダヤ暦の12月)の13日は本来、プル(くじ)が投げられて、ユダヤ人が虐殺されることに定まっていた日でした。しかしそれは転じて、ユダヤが勝利を得た日となり、その翌日と翌々日の14日と15日は、プリムの祭りとして守られることとなりました(プリムはプルの複数形)。エステル記は、プリムの祭りの由来が書かれた書です。 ローマ人への手紙4章……アブラハムが信仰によって義と認められたのは、自分のためだけではなく、私たちのためです。私たちも律法の行いによってではなく、信仰によって、義と認められます。 <祈りの課題>この2月も、ますます主のご栄光を現す私たちとなりますように。

031 1月31日 創32マコ3エス8ロマ3

創世記32章……エサウとの再会を前に、ヤコブは砕かれていました。しかし、人間的に謙遜になる以上に、彼は神によって砕かれる必要がありました。神さまはヤコブを砕き、「神と闘う」という意味とともに「神は戦う」という意味を持つ「イスラエル」という名を授けてくださいました。彼は負けましたが、負けたことを持って神さまはヤコブに大いなる勝利を与えてくださったのでした。まことに、神の前にへりくだることこそが真の謙遜を生みます。 マルコの福音書3章……聖霊を冒瀆するということは、イエスさまによって救われることを一切拒否するということです。これは、単に神さまを冒瀆することとはレベルの異なることです。私たちは、自分はもしかすると聖霊を冒瀆して、永遠の罪に定められているかもしれない、などと不安に思う必要はありません。しかし、このみことばは、ほかの兄弟姉妹の霊的な働きをむやみにさばかないようにという戒めとも取ることができます。もしその、私たちの目には奇異に見える働きが、聖霊なる神さまのお働きであったならば、私たちはそのさばいたことばの責任を取らされることになるかもしれません。 エステル記8章……王服を身に着けてスサの町に颯爽と現れたモルデカイの姿に、ユダヤ人は歓喜の声を上げましたが、これは、終わりの日にあらゆる悪を滅ぼされ、私たち神の民を喜びに包んでくださるイエスさまのお姿をほうふつとさせます。まことに、神の民はしばらくの間苦しみますが、天国に入れられたら、もはや私たちを害するものは何もありません。 ローマ人への手紙3章……神の義は、律法を守るような宗教的善行によって保障されるのではありません。ユダヤ人であれ異邦人であれ、だれにとっても、イエス・キリストを信じることによって保障されます。私たち人間が第一にすべきことは、イエスさまを信じることです。 <祈りの課題>1月の歩みに感謝し、2月からの歩みに主のお導きを求めましょう。

030 1月30日 創31マコ2エス7ロマ2

創世記31章……ヤコブはラバンに見切りをつけ、去っていきました。それは主のご命令によることでしたが(3)、ラバンは自分のことを反省もせず、ヤコブは全く愚かなことをしたとなじりました(28)。しかし、ラバンにとって大事だった偶像をラケルが持ち去ったことがきっかけで、ヤコブは堂々と、自分の言うべきこと、すなわち、自分の正しさとラバンの不当さを述べることができました。ラバンはもはや反論ができず、ヤコブたちを行くに任せました。主は、愛する子どもの苦しみを見ておられ、その試練とともに脱出の道を備えてくださいます。 マルコの福音書2章……安息日は人を自由にするためのものです。しかし宗教指導者たちは、安息日の規定を細かく定めることで、人を不自由にしました。それは実のところ、宗教指導者たちの利権を守るためでした。イエスさまはそんな彼らの、宗教の皮をかぶった偽善を明らかにされ、宗教指導者たちによって苦しめられていた人々を自由にしてくださいました。 エステル記7章……ハマンはこの瞬間まで、よもやエステルがユダヤ人だったとは知りませんでした。それをこのような形で知った時の彼のショックはどれほどのものだったことでしょうか。彼は命乞いをしましたが、その命乞いさえも王の目に、王妃エステルを凌辱する行為に映り、ハマンはこともあろうに、モルデカイをつけるはずだった柱につけられていのちを落としました。神さまは見ておられます。剣を取る者はみな剣で滅びると、イエスさまがおっしゃったとおりです。 ローマ人への手紙2章……人をさばくということは、自分が同じことを行なっているのに、それを棚に上げて人を責めることであるというのが、神さまの御目から見た定義です。私たちはどれほど、自分の罪を見ようともせず、人の罪ばかり見て、それゆえに神の怒りを積み上げている者でしょうか。そのような私たちのすることは、もっときよくなって神と人から責められないようになることではありません。神のいつくしみと忍耐と寛容に拠り頼んで悔い改めることです(4)。 <祈りの課題>新型コロナウイルス流行を誰かのせいにして留飲を下げるのではなく、まず自分から罪を悔い改めるものとなり、その悔い改めの輪が広がっていきますように。

029 1月29日 創30マコ1エス6ロマ1

創世記30章……神さまはヤコブの窮状をご存知でした。悪知恵の働くラバンのもとで知恵を働かせて、ヤコブが自分の羊ややぎの群れを増やしていくとき、主は特別に介在され、群れが増えるようにしてくださいました。主は、ご自身が選んでくださった者の味方でいてくださいます。 マルコの福音書1章……イエスさまは極めてお忙しい生活をしておられました。「すぐに」ということばが多く用いられていることからも、それがわかります。しかしイエスさまは、朝まだ暗いうちに起きて、御父への祈りの時間を持っておられました。早天祈祷の根拠はここにあります。私たちも朝早くの祈りの時間を確保しましょう。 エステル記6章……惨殺されるはずだったモルデカイ、そしてユダヤ人の身に、大逆転が起こりはじめました。モルデカイがかつて王のために行なったよいことが、このタイミングで王に思い出されたのは、すべて主の導きでした。ハマンが敵対していたのはモルデカイでもユダヤ人でもありません。主です。主を恐れない大胆不敵な態度が、ここへきてさばかれることになったのでした。 ローマ人への手紙1章……人間に対する神さまのさばきは、人間がしたいとおりに生きるように、放っておかれるという形で現れます、この世界のあらゆる悪は、まさしく、神さまが放っておかれた結果、人間が好んで選んだことです。その責任は神さまではなく人間にあり、人間は神さまの怒りを受けるべき存在となりました。 <祈りの課題>現在、コロナ下でミニストリー展開に困難を覚えているすべての教会、教団教派、宣教団体、ムーブメントのために。

028 1月28日 創29マタ28エス5使28

創世記29章……兄弟の間の葛藤のある意味犠牲者だったはずのヤコブが、こんどは、自分が犠牲を強いる立場になり、レアをなおざりにしてラケルを愛しました。しかし神さまは、レアを顧みてくださり、4人も男の子を生まれさせてくださいました。特に、三男のレビからは献身者の家系であるレビ人(びと)を生まれさせ、四男のユダからはダビデ王朝の王家、そしてイエスさまを生まれさせてくださったのでした。神さまは、人の愛情という点で見捨てられた人に、特別な愛情を注いでくださるお方です。 マタイの福音書28章……最後の数節の「大宣教命令」においては、「弟子としなさい」というご命令がもっとも、イエスさまのおっしゃりたかったことです。まことに、私たちクリスチャンの生きる道は、私たち自身がイエスさまの弟子となり、イエスさまの弟子をつくることです。生活のすべてがイエスさまの弟子となる、弟子をつくることにつながるならば、とても素晴らしいことです。 エステル記5章……エステルは2度に分けて、王とハマンを招きました。この2度目の招待の間の1日に、ハマンは凶悪なアクションを起こし、一方で、王は絶妙なタイミングでモルデカイの功績を知るところとなりました。エステル記は「神」ですとか「主」ということばが出てきませんが、明らかに主の御手が動いていることが、このみことばの背後から見えてきます。 使徒の働き28章……難破してたどりついたマルタ島は、未開の地域でしたが、パウロは、本物の神さまを示し、そこも宣教の場となりました。囚人が護送される途中というイレギュラーな中で、みなが多大なもてなしを受けるという驚くべきことは、この旅程にも神さまの御手が臨んでいたゆえでした。 <祈りの課題>主の弟子づくりのために献身しておられるすべての働き人のために。

027 1月27日 創28マタ27エス4使27

創世記28章……豊かだった父の家を身一つで離れ、石に枕する身となったヤコブは、どんなに心細かったことでしょうか。しかし、主はそのようなヤコブに現れてくださり、ヤコブはけっしてひとりではないことを教えてくださいました。私たちもこの世の歩みは時にとても心細くなるものですが、目に見えないお方である主はいつも、ともにおられます。 マタイの福音書27章……イスカリオテのユダは、イエスさまがストレートに「悪魔」と言ったほどの反キリスト的人間です(ヨハ6:70)。そんな彼が首を吊ったのは、イエスさまを死刑にさせたことを後悔してでしょうか? そんな理由で後悔などするような人間でしょうか? もし彼が、イエスさまがおっしゃるとおり「悪魔」であるならば、おそらく彼は、イエスさまが十字架に死なれることを、断固として阻止にかかったはずです。宗教指導者たちに渡せば、彼らは「石打ち」にしてくれ、十字架につけられることはないという計算があったのでしょう。しかし彼らのしたことは、「十字架」でした。それゆえ、神からも悪魔からも見放されたユダは、のろいに満ちた死に方をするしかなかったのでした。 エステル記4章……すべてのユダヤ人の断食の祈りに力を得て、死を賭して王のもとに行くことを決断したエステルの姿は、ゲツセマネの園にて万軍の天使に力づけられて十字架への道を踏み出された、イエスさまのお姿を想起させます。エステルのために断食したユダヤ人たちは、その祈りに自分たちのいのちがかかっていたので、その祈りは真剣にならざるを得ませんでした。エステルと同じように、死と隣り合わせになりながら宣教の働きを繰り広げておられる働き人のために、私たちはどれほど祈らなければならなうことでしょうか。 使徒の働き27章……助かる望みも今や完全に断たれようとしていた(20)、どれほど絶望的で、心細いことでしょうか。しかし、この航行は主の御手のうちにあることで、パウロはこのような理由で死ぬことはなかったのでした。それを知っていたパウロは、船の中のみなを、主とそのみことばへの確信をもって励ましました。私たちも、みことばをもって人々を励まし、不安から平安へと導く使命と責任が与えられています。 <祈りの課題>宣教の最前線におられる兄弟姉妹を覚えて祈る私たちとなりますように。思いつく方々のために祈りましょう。

026 1月26日 創27マタ26エス3使26

創世記27章……ヤコブはイレギュラーな形で父イサクの祝福を手に入れましたが、その結果、今度は自分が「十度も」だまされる、ラバンのもとでの生活へと導き入れられました。祝福というものは簡単に手にできたわけではありませんし、「だまし、奪い取った」(35節)行為が無条件に正当化されるわけでもありません。私たちも天の御国に入れられる祝福は「信じるだけ」という、この世的に見れば「ずるい」とすら思えるほど簡単な形で手に入れましたが、その祝福が人生の中で完成するには、多くの苦しみを経なければなりません。 マタイの福音書26章……「剣をもとに収めなさい」というイエスさまのみことばを聴きましょう。この世界は、政治、経済、文化……あらゆる形で「剣」を振るい、平和とは名ばかりの、権力者の欲望を成し遂げる試みがなされています。しかし、まことの平和は人ではなく、神さまに属するもので、それは、この争いばかりの私を含む人間のあらゆる罪を十字架で背負ってくださったイエスさまを信じる信仰により、はじめてつくられます。 エステル記3章……神の民ユダヤは皆殺しの危機に陥りました。それは、モルデカイがハマンにひれ伏さなかったからという、それだけの理由です。モルデカイは間違ったことをしていません。神の前に正しいことを行なっています。しかし、その正しい行動のゆえに、ユダヤ人が危機に陥ったように、私たちの正しい行動は、クリスチャン全体の迫害につながりかねません(実際、そういう時代がありましたし、共産圏やイスラム圏では今もなおそうです)。それでも私たちは、神さまが私たちクリスチャンをみな、特別に守り、ことごとく天国に入れてくださることを信じ、偶像礼拝や人礼拝などの間違った行動から身を避ける者となりたいものです。 使徒の働き26章……パウロは、たとえ王に対してさえも、自分の話を聞く人がみな自分のようになってほしいと話しました。それはもちろん、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得るように、ということです。ただしパウロは、「この鎖は別として」とも語っているわけで、キリスト者はすべからく殉教すべきである、と言っているのではありません。私たちが宣べ伝えるのはキリストにあって自由を得るということであって、キリストを信じれば束縛されるということであってはなりません。 <祈りの課題>平日の生活の中で、私たちがあらゆる機会を生か...

025 1月25日 創26マタ25エス2使25

創世記26章……イサクは最初、ペリシテ人の地に寄留しながらも、居場所がなく、苦労しました。主の祝福はつねにともにありましたが、その地の人々は彼のことを受け入れませんでした。しかし、イサクは主の導きを求めつづけ、井戸を掘りつづけ、ついにこの地に定住できるまでになりました。目先の状況に左右されず、主の遠大な導きに信頼して進み、ついに大いなる祝福をいただいた姿が、ここにあります。私たちもこの地では祝福とともに多くの苦しみを受けますが、苦しみにばかり目を留めて、主にお従いすることをあきらめてはなりません。やがて天の御国に入れられるその日を望み見つつ、今日の労苦をしのんでまいりましょう。 マタイの福音書25章……この章でイエスさまは、世の終わりを3つのたとえで語られました。いずれにも共通しているのは、「天の御国に行けない者がより分けられる」ということです。私たち教会は、キリストの花婿として灯を掲げ、与えられているあらゆる財産(経済的なもの、物質的なもののみならず、人間関係、機会、状況)を用いて、人々、特に弱い立場にある人々に仕えつつ、イエスさまにいつお会いしても恥ずかしくないように備える必要があります。 エステル記2章……11節の、後宮の庭から何とかエステルの様子を知ろうとしていたモルデカイの姿は、まるで、自分の属する教会の聖徒を週の職場や学校に送り出した牧会者のようです。牧会者はイエスさまの心情で私たちの生活の現場がどうなっているかなんとか知りたくても、もちろんそれを知ることはできず、主の御手にゆだねるばかりです。私たちは、モルデカイがエステルを気にかけていたように、「神が心配してくださる」(Ⅰペテロ5:7)存在であり、それゆえ牧会者をはじめ聖徒たちが心配してくれている存在です。 使徒の働き25章……パウロは不当に殺されてはなりませんでした。それでパウロは、自分の身をユダヤ人たちにゆだねず、カエサルに上訴してローマに行く道を選びました。まことの主のしもべは殉教の道を行く定めですが、それでも「犬死に」をせよと主はおっしゃっているのではありません。いのちある限り、この世と妥協するなりして主を裏切るのではないかぎり、与えられたいのちを大切にし、少しでも主を証しする機会をつくっていかなければなりません。 <祈りの課題>迫害のもとにある信徒、献身者たちのいのちが守られ、極限の中でも福...

024 1月24日 創25マタ24エス1使24

創世記25章……神の選びは、長子の権利を売るような俗悪な者としてエサウが育つところにも表れました。私たちは、兄弟の出生順のようなどうにもならない環境を、絶対的なものと考え、どうしようもないと思ってはいないでしょうか。しかし、それ以上に私たちが目を留めるべきものは、人間の目には絶対的に見える環境さえ超えて私たちを選ばれ、導かれる、神さまの御手です。 マタイの福音書24章……私たちが生きるこの世界は、終末です。私たちはイエスさまを信じているゆえに、考えられないような苦しみに遭います。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われるとイエスさまはお語りになりました。私たちが避けるべきは、イエスさまを信じるゆえの苦しみではありません。イエスさまを信じていないがごとく振舞う、この世と調子を合わせる生き方を、私たちは避けるべきです。 エステル記1章……クセルクセスが王妃ワシュティにした扱いは、ひどいといえばひどいものでした。しかしこのことが、のちの日にエステルを王宮に入れ、神の民を救うことにつながったと考えると、主の民に属さない権力者の心さえも動かされる、大いなる全能者、主なる神さまの御手を思わずにはいられません。 使徒の働き24章……フェリクスは賄賂をもらってパウロを釈放する権限がありました。しかしパウロは、そのようにして自分も、フェリクスも罪を犯してまで手にした自由には、何の価値も意味もないことを知っていました。私たちは時に、この世の自由を謳歌しない道を選ぶゆえ、キリストの御名によって囚人のごとくなります。しかし、それによって私たちは、御国を受け継ぐにふさわしい者とされます。 <祈りの課題>今週一週間も、私たちが主を証しする生き方に用いられるものとなりますように。

023 1月23日 創24マタ23ネヘ13使23

創世記24章……アブラハムのしもべは事細かに花嫁の条件を挙げて祈り、果たして、そのとおりの女性が現れました。主のみこころを知る人は、このような大事なことを祈るにあたって、具体的な祈りの課題を外すことはないように導かれます。現在、結婚を祈り求めていらっしゃる兄弟姉妹も、ぜひそのことを心に留めて、みこころをしっかり求めて祈っていただきたいと思います。 マタイの福音書23章……私たちが教会の中で、教職者など特定の人を指して「先生」と呼ぶことは、教会の秩序という点から奨励されるべきことです。しかし、その「先生」と呼ばれる立場にある人は、「先生」と呼ばれることを当然のこととしてはいけません。時にそういう教職者を指して、例えば「さん付け」で呼ぶ人が教会に現れたとしても、それで気を悪くするようなら、イエスさまのおっしゃっているこのみことばの精神を、頭では理解していても、心では全く理解していないことになります。私たちは「高い」地位にあることに慣れるようではいけません。へりくだりが必要です。 ネヘミヤ記13章……ネヘミヤが留守にしている間に、かつてユダヤを迫害したトビヤに主の宮の一部屋(それも本来、宮の大事な用具を保管するための重要な部屋)をあてがったり、安息日に売り買いしたり、結婚生活を通して偶像礼拝の危機に民を晒したりと、ユダヤは堕落していました。宗教改革というものはひとたびすればそれで終わりのものではありません。つねに民全体が目覚め、いつでもともに取り組むべきものです。 使徒の働き23章……パウロのいのちをめぐって、実にたくさんの人々が動きました。パウロを必ず殺そうと誓った40人以上の者たち、それとは逆に、パウロのいのちが守られるように、パウロを護送した470人……ひとりの主の囚人をめぐっても、これほどのせめぎあいが繰り広げられます。私たち主の民をめぐっても、神の軍勢とサタンの軍勢の霊的な戦いは私たちの背後で熾烈に繰り広げられますが、主は最後に勝利を取ってくださり、私たちを勝利の凱旋に加えてくださるお方であることを、忘れないようにしたいものです。 <祈りの課題>私たちの信仰生活において、不必要なものを見極め、それを取り除いていくことを私たちが実践してまいりますように。

022 1月22日 創23マタ22ネヘ12使22

創世記23章……アブラハムは、土地をただで譲りますというヒッタイト人の申し出を断り、かなり高額と思われる、銀400シェケルのお金を支払いました。これはヒッタイトの口車に載せられたのではなく、この地に対する権利をアブラハム(とその子孫)が永久に持つために必要なことでした。私たちの場合はというと、天国にはただで入れているといっても、その背後に、イエスさまの十字架の血の値が支払われていることを忘れてはなりません。 マタイの福音書22章……イエスさまやそのみことばに難癖をつけ、勝ち誇った気分でいる人というのは、いついかなるときにもいるもので、この時代のパリサイ人やサドカイ人などそうでした。しかしそれは、人を立て上げて自由にするためではなく、人を縛って甘い汁を吸う既得権をイエスさまが奪うのを恐れたからで、彼らのどこにも愛はありませんでした。イエスさまはそのような愛なき者の屁理屈にきちんとお答えになりましたが、イエスさまもみことばも真理である以上、そのような者の難癖に負けるようなやわな存在ではありません。 ネヘミヤ記12章……賛美をささげるにあたって、リーダーが立てられれてその統率のもとに組織された聖歌隊が奉仕する様子が登場します。私たちも礼拝において賛美をおささげしますが、それは会衆が「ともに」主の御前に出ていくということにおいて必要だからです。礼拝で賛美を歌うとき、周囲の歌に合わせることを心掛ける理由が、ここにあります。 使徒の働き22章……パウロは、自分がローマ市民であることを主張し、裁判にもかけずに鞭で打たれることは不当だと述べました。たしかに、主のしもべは迫害に遭いますが、みことばは、明らかに法的にアウトなことまで黙って耐え忍べと言っているわけではないことが、ここからわかります。 <祈りの課題>礼拝出席時にマスクを着用せざるを得ないため、充実して賛美がささげられなくなっているすべての教会が守られるように。

021 1月21日 創22マタ21ネヘ11使21

創世記22章……アブラハムはモリヤへと向けて出発するとき、火と刃物を取りました。それを見ただれもが、それは何らかの家畜を屠るためのものと思ったことでしょう。しかしアブラハムの中では、それはひとり子イサクを屠るためのものでした。それを携えつつ3日の道のりをイサクとともに歩いたアブラハムの心境を想像してみましょう。私たちの父なる神さまも、私たちのためにひとり子イエスさまを十字架におかけになるというご計画を世の初めから持たれて以来、ずっとそのみ思いを持たれてきたのでした。この御父のみ思いを、今日も心に留めてまいりましょう。 マタイの福音書21章……宗教指導者たちが、ヨハネのバプテスマが人に由来すると言わなかったのは、そう言うことによって激高した群衆に石で打ち殺されるのを恐れたからでした。そのように、バプテスマのヨハネの権威を認めていた彼ら宗教指導者でしたが、イエスさまは無きものにしようとしたのでした。「宗教」や「神信仰」、はたまた「キリスト教」が問題になるのではありません。「イエスさま」を信じるかどうかが究極の問題となるのです。 ネヘミヤ記11章……エルサレムに住む人々はこのように、代表者の名前が聖書に記録される栄誉に浴しました。地上の都に入れられることにもこれほどの栄誉があるならば、まして、天のエルサレムなる天国に入れられるとき、いのちの書に名が記されていることはどれほどの栄誉となることでしょうか。私たちはこの箇所をお読みし、いずれ天の御国にて自分の名が呼ばれるときを望み見たいものです。 使徒の働き21章……主にお従いするということは、御国の拡大のために働きをすることとはかぎりません。その働きが一切止められ、殉教するということもあり得るわけです。それを何として求めたいのは人情ですが、私たちが求めるべきは、「主のみこころがなりますように」(14節)と祈ることです。 <祈りの課題>世界各地で流されている殉教者の血が地に落ちることなく、多くの実を結びますように。

020 1月20日 創21マタ20ネヘ10使20

創世記21章……ハガルは、皮袋の水が尽きたとき、息子を放り出してそこから離れ、声をあげて泣きました。主はそのとき、彼女の目を開かれ、そこに井戸があることに気づかせてくださいました。人は時に、不条理とも思えるような厳しい思いをすることがあります。しかしそのときにも主は必ず、試練とともに脱出の道を備えてくださり、祝福に変えてくださいます。 マタイの福音書20章……私たちはつい、朝から働いた労働者の立場に置き換えて自分のことを考えてしまうのではないでしょうか。しかし、本来私たちは、神の国のために働くことも許されなかったのに、御父にスカウトされた、午後5時からの労働者です。どれだけの分量働いたかではなく、御父のもとに入れていただいているかどうかが大事です。働きを人と比較するなら、みじめになるか、傲慢になるだけです。 ネヘミヤ記10章……「神の宮をなおざりにしない」ために民の指導者と民全体が神の前に誓ったこのことは、神の宮という建物を大事にすること以上に、神の民という共同体を大事にすることです。いま、多くのクリスチャンは礼拝堂という建物に足を運べなくなっていますが、このときこそ私たちは、自分が神の民という共同体の一員であることを思い起こしてまいりたいものです。 使徒の働き20章……パウロは、自分が去った後のエペソ教会には、外部から荒らし回る者が現れたり、内部から曲がったことを説く者が現れたりするだろうと警告しつつ去っていきました。その後、エペソ教会はそのような内憂外患の事態に遭いながらも持ちこたえていくのですが(黙2:2)それはパウロのこの別れ際のメッセージに堅く心を止めていたからでしょう。教会は平安であり続けることがとても難しい、デリケートな存在です。いつでも群れに平安があるように、私たちは目覚めて祈りつづける必要があります。 <祈りの課題>すべての教会が内憂外患の事態から守られるように。生徒たちが自分の教会を覚えて祈る者となるように。

019 1月19日 創20マタ19ネヘ9使19

創世記20章……アブラハムはまたも妻のことで失敗しましたが、このことは、アビメレクの家の胎を開くために祝福を祈るという、主の御業が起こされることにつながりました。このようなことを通してますますアブラハムが祝福の源であることを、主はアブラハムに対して思い起こさせてくださったわけです。私たちも弱さのゆえに失敗する者ですが、主がその弱さを強さに変えてくださる御業を起こされ、人を祝福する者としてくださることを信じ、またそのために用いられるという自覚を持ってまいりたいものです。 マタイの福音書19章……青年はイエスさまに、どんな良いことをすれば永遠のいのちを得られますか、と尋ねましたが、イエスさまは、良いお方の戒めを守りなさい、とおっしゃいました。その戒めが形だけでしか守れていなかった現実を青年は突きつけられ、去っていきましたが、まことの戒めは、「互いに愛し合いなさい」という戒めをもって集約されます。この青年は、イエスさまが人を愛するように愛することができていたならば、このみことばに従順に従おうと悩み、それができない現実をイエスさまの前に悔い改め、恵みにすがったはずで。まことの永遠のいのちはそこから開けてきます。 ネヘミヤ記9章……ここでなされていることは、先祖以来、こんにちに至るまでの罪を告白し、悔い改めることです。主は、ご自身の民が罪を犯すとき、懲らしめられますが、悔い改めるならば何度でも忍耐し、生きる機会を与えてくださいます。私たちも先祖の罪を告白し、今なおこの民が、世界が罪の中にあるゆえに苦難を体験していることを覚え、わが罪として悔い改めることが求められています。 使徒の働き19章……魔術は多くの富をもたらします。その原資となる魔術書にして銀貨5万枚の値打ちがするならば、そこからもたらされた魔術はどれほどのマーケットになるでしょうか。しかし彼らは、たとえこの世の富が得られなくなろうとも、イエスさまによって罪赦され、永遠のいのちを得るために、その生活の元手をすべて焼き捨てました。私たちは主の願われる永遠の道を行くためには、捨てなければならないものがたくさんあります。 <祈りの課題>コロナに翻弄される世界全体にまことの悔い改めが大々的になされるように。

018 1月18日 創19マタ18ネヘ8使18

 ※ 昨朝、激しい腰痛に襲われ、ブログが更新できなくなってしまいました。1日遅れになって申し訳ありません。 創世記19章……主の御目から見た世の乱れというものが、性的な面に顕著に現れることが、このみことばからわかります。私たちはこの世界を主の視点で見て、とりなす者となっているでしょうか。自分自身と自分の家族、教会をきよく保つために祈っていますでしょうか。 マタイの福音書18章……自分自身が監獄に入れられ、日本円に換算して6000億円になろうかという負債を返すなど、不可能なことです。それほどの罪を赦していただいたのに、私たちは兄弟姉妹の過ちになんと不寛容なことでしょうか。「主の祈り」が、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と唱和するようになっているのも、無意味にそうなっているのではありません。兄弟姉妹を愛し、赦すことは、キリスト者の本分です。それができないゆえにわれわれも苦しむのですが、そのときこそ主のあわれみにすがり、人を赦せる者となれるように祈ってまいりましょう。 ネヘミヤ記8章……民は、群れなしてみことばを再び聴いたとき、泣きました。それは悔い改めの時であり、感動の時でした。しかしこのとき、主は、ご自身を喜ぶように民を導かれました。なぜなら、主を喜ぶことは力だからです。私たちも時に力が失われるほど激しい悔い改めの思いに導かれることがあるでしょう。しかし、悔い改めの後には大いなる喜びがあります。感謝し、喜びましょう。 使徒の働き18章……信徒伝道者がテントメーカーと呼ばれる根拠は、この2節から3節のみことばです。教職者はみことばと祈りに専念する者ですが、それでも困難にある信徒の必要を満たすために一肌脱ぐことも時に必要とされます。それでこそ、信徒とともに教会を立て上げることにつながります。 <祈りの課題>一般の職業に就きながら主の働きに献身しておられるすべての教職者のために。

017 1月17日 創18マタ17ネヘ7使17

創世記18章……アブラハムは、ソドムとゴモラが滅ぼされないように何度も神さまに祈りましたが、そのように祈った根拠は、「全地をさばくお方は公正を行うべきではありませんか」(25)ということでした。この地は主の怒りに触れてさばかれ、滅ぼされても当然のようですが、主が忍耐してくださるのは、私たちが主の御前にささげる、主のご性質を信じての祈りのゆえです。 マタイの福音書17章……イエスさまは父なる神の御子なので、父なる神さまの「家」である神殿税を納める必要はありません。しかし、イエスさまは、ご自身の義務としてではなく、集金をする者たちをつまずかせないため、という理由で、奇跡的な方法でペテロに神殿税のための銀貨を手に入れさせました。私たちは、御国の子どもとしてふるまっていいのだからと、何をしてもいいようでも、やはり考えるべきは、周りに対して証しとなる行動をしているかどうかで、主はその行動も備えてくださるお方です。 ネヘミヤ記7章……バビロン捕囚で苦しんだエルサレムの民は、ついに元通り住むことを許されました。これだけ長いスペースを割いて族名が書かれているのは、主にあっては、一族ということが重要な意味を持っていたことをほのめかしています。こんにちの私たちは、主にあっての一族は、それぞれの属している教会で、教会ごとに天のエルサレムに挙げられる、とイメージすれば、この族名が延々と続く箇所はわかりやすいかもしれません。 使徒の働き17章……ベレアのユダヤ人は、パウロの語ったことばを聞くことに終わらせず。果たしてそのとおりかどうか毎日聖書を調べました。私たちも、日曜日の礼拝メッセージを聴くだけで終わらせず、聖書のみことばは何を語っているのかをつねに学ぶ姿勢が大事です。そうしてこそ、私たちはみことばをほんとうの意味で身に着けることができます。 <祈りの課題>本日の礼拝のために。 <明日の聖書通読箇所>創19、マタ18、ネヘ8、使18

016 1月16日 創17マタ16ネヘ6使16

創世記17章……神さまがその民を生まれさせるのは、サラとの間に生まれる子どもからであると宣言されました。その時サラはすでに90歳になっていました。このことは、神の民が生まれるのはもはや人間業によるのではない、ということを示しています。私たちが神の民とされたのも、やはり人間業ではありません。 マタイの福音書16章……ペテロはイエスさまのことを、生ける神の子キリストであると告白しました。イエスさまは、このことは人間によって明らかにされたのではなく、御父が明らかにしてくださったのであるとおっしゃいました。イエスさまを信じ、主と告白することは、人間業ではありません。神さまの御業です。 ネヘミヤ記6章……トビヤはあらゆる手段で、エルサレムの城壁の再建を妨害してきました。しかし、それでも城壁が再建されたのは、ひとえに、ネヘミヤのリーダーシップによるものでした。神の民のリーダーはすべからく、主によって立てられ、主によって使命が与えられているという自覚を持ち、主に拠り頼む祈りを絶えずささげるべきです。 使徒の働き16章……占いを行う女奴隷にとりついた悪霊は、パウロが主のしもべであることを知っていました。しかし、彼の素性を正確に言い当ててはいましたが、彼にまとわりついてその働きを告げて回るのは、「宣伝」ではなく「妨害」です。時に、私たちキリスト教会の働きを宣伝するような未信者がいるものですが、彼らの背後にどのような霊的な働きがあるか、私たちは知恵深く見抜いていく必要があります。宣教は聖霊なる神さまの働きであって、悪霊の働きを借りてはならず、また借りないでもできるものです。 <祈りの課題>緊急事態宣言下にある都道府県のすべての教会のクリスチャンのために。 <明日の聖書通読箇所>創18、マタ17、ネヘ7、使17

015 1月15日 創16マタ15ネヘ5使15

創世記16章……アブラムはまたも失敗をしました。今度の失敗は、優柔不断ゆえのことであり、サライに言われるがままにハガルとの間に子どもをもうけたこと、これまたサライに言われるがままにハガルを追い出したこと、どちらも、優柔不断ゆえの失敗です。しかし、このような過ちを通しても、主はアラブ人という一大勢力を生まれさせ、その中からも救いに定めた御国の民を起こしてくださったのでした。 マタイの福音書15章……心から出てくるものは人を汚します。それは、私たちの心がイエスさまの十字架の血潮(を信じる信仰)によってきよめられていないからです。それなのに私たちは、例えばここでパリサイ人が問題にしているように、洗わない手で食べるような、形式的、表面的なことに、なんと左右されていることでしょうか。 ネヘミヤ記5章……ユダヤの共同体は、金銭的に深刻な問題を抱えはじめていました。ネヘミヤはそのような共同体の問題にメスを入れる勇気を奮いました。彼は、本来ユダヤ人が集中すべき城壁修復に力を入れさせるように、ユダヤの代表者たちのために牛を屠りましたが、自分は鳥肉で我慢するように、ぜいたくに振舞わない指導者として模範を示しました。 使徒の働き15章……マルコの処遇を巡って対立したパウロとバルナバは、どちらがよい、悪いということではありません。パウロは神の正義を取り、バルナバは神の愛を取りました。この、神の愛と正義を同時に実現することは、人間にはとても難しいことです。イエスさまの十字架は、人間には解決困難な、神の正義と愛を同時に実現したものでした。 <祈りの課題>日本で活動する宣教師の先生方のため。 <明日の聖書通読箇所>創17、マタ16、ネヘ6、使16

014 1月14日 創15マタ14ネヘ4使14

創世記15章……いけにえの動物は真っ二つに切り裂かれました。しかしこの契約は、神さまが一方的にアブラムと結ばれた、恵みの契約です。神さまは信仰により義と認めてくださる人々のために、ご自身のひとり子イエスさまを十字架の上で裂かれ、血潮を流してくださり、その血により私たちと契約を結んでくださいました。神さまがアブラムと結ばれた契約は、イエスさまの十字架を望見したものでした。 マタイの福音書14章……ペテロはイエスさまを信じて湖の上に踏み出しましたが、イエスさまではなく、湖面の波を見たとき、溺れかかりました。イエスさまはそんなペテロの手を引いてくださり、ペテロは助かりました。私たちも不信仰ゆえに世の波におぼれるときがあります。しかし、そのようなときでも、私たちの主イエスさまは私たちの手を引いて、助け、守ってくださいます。 ネヘミヤ記4章……主の働きを脅かす者はいつも存在し、ひどい働きかけをします。しかし、もし私たちに確信があるならば、その脅かし、障害をものともせずに、私たちには働こうという意志が与えられます。主の民のリーダーは、この意志が人々に与えられつづけるように、祈る必要があります。 使徒の働き14章……宣教ということは、自分自身が神の国に入るために多くの苦しみを経ることです。宣教の対象者が主ではなく宣教者を見て喜んだりとか、激しい迫害にあったりとか、苦難もさまざまです。しかし私たちは、そのようになってでも、宣教という主のみこころに従順になることによって、神の国をこの地において体験する道が、自分にも、自分の接するほかの人にも開かれます。 <祈りの課題>教会の中の分裂、教会外からの攻撃など、内憂外患の状況にあって教会のかじ取りに困難をきたしている、すべての牧会者のために。 <明日の聖書通読箇所>創16、マタ15、ネヘ5、使15

013 1月13日 創14マタ13ネヘ3使13

創世記14章……ソドムの王が、神のさばきに遭って滅ぼされたソドムの代表者であることを考えると、アブラムに贈り物をしようとしたその動機を考えるべきです。アブラムがこの贈り物を受け取ったならば、ソドムとその王のアブラムに対するマウンティングを許すことになります。それはアブラムにしてみれば、神さまにお従いするよりもこの世の権力に妥協した、ということを意味します。私たちは、この世の祝福を受けることを神の祝福のように取り違えることがないか、よく考える必要がありましょう。 マタイの福音書13章……イエスさまはたとえで語られましたが、そのことは「群衆」と「弟子」を分けられることでした。「群衆」はたとえを聞いたら、そのたとえの何やら面白い表現を聞くのに満足して、「勉強になりました」という気分になって、それで終わりです。しかし「弟子」は、たとえは難解なものであると認め、イエスさまに食い下がってお尋ねします。私たちも、みことばをたえず深く学ぶ「弟子」でありたいものです。 ネヘミヤ記3章……この箇所は、エルサレムを修復した人々の名前が次々と列挙されていて、圧巻です。まことに、主のみこころどおりに働いた人々は、このようにして何千年も、そして世界中で記念されます。私たちも、この地上で主のご栄光を顕しつつ働くことは、サタンの勢力に奪われたこの地の領域を主のもとへと取り戻すことであることを考えると、エルサレムの城壁の修復のようです。主はそのような私たちのことを覚えていてくださいます。 使徒の働き13章……本来、福音は神の民であるユダヤ人が優先して聞かなければならないものでした。しかし彼らは拒否しました。そこから異邦人宣教の道が開かれました。その宣言を聞いて異邦人は喜んだとあります。私たちもユダヤ人ではないならば、このことを、もったいない恵みと喜んでいるでしょうか。そして、ユダヤ(イスラエル)が福音を聞く機会が開かれるように、祈ってまいりたいものです。 <祈りの課題>ユダヤ人宣教が進みますように。 <明日の聖書箇所>創15、マタ14、ネヘ4、使14

012 1月12日 創13マタ12ネヘ2使12

創世記13章……アブラムは、ロトに選択権を手渡しました。ロトはアブラムの、そんな親心にも似た気持ちを知ってか知らずか、「自分のために」土地を選びました。アブラムはそのために、ロトが選んだ土地ほどには潤っていない土地を選ばざるを得なかったようでしたが、主はその土地においてアブラムのことを祝福すると約束してくださいました。人に譲るために損を見ることも私たちにはありますが、そのような損を見ている中で、私たちは無から有を生み出してくださる主のみわざを体験します。 マタイの福音書12章……御霊に対する冒瀆、聖霊に逆らう者は絶対に赦されない、という、絶対的にきびしいおことばが出てきます。私たちはこのことばをとても気にしてはいないでしょうか。しかし、御霊に対する冒瀆とは、ちょっとやそっとのことを指しているのではなく、それこそ、赦される余地もないほど恐ろしい罪です。言うなれば、イエスさまを主と告白させてくださる霊に逆らうことであり、イエスさまを悪魔呼ばわりすることです。これはどれほど恐ろしいでしょうか。そのようになる前に、私たちは霊的に悪い、暗い状態に陥らせるあらゆるこの世の文化、またオカルト的なものを、身の回りから遠ざけ、自分自身も遠ざかる必要があります。 ネヘミヤ記2章……ネヘミヤはエルサレム崩壊の知らせを聞いて、悲しみの中にありましたが、その悲しみが王にさとられるという、献酌のプロとしてきわめてよくない状況になってしまいました。しかし、ネヘミヤはこのとき主に祈り、勇気をもってその悲しみの理由と、自分のしたいことを王に告げました。すると王は聞き入れてくれました。世の人たちは、主のみこころが成らない、主のみこころが汚されることに対する悲しみを私たちが持つことに、けっして無理解ではありません。ただ、状況を打開するために世の人たちの理解を得るためには、やはり何よりも、お祈りすることが必要です。 使徒の働き12章……その絶大な権力で使徒ヤコブを葬り、ペテロも葬ろうとしたヘロデ王は、神さまにさばかれて死にました。実に、世の権力、とりわけ、教会に魔の手を伸ばすような権力は、主の御手に握られています。私たちもそのような反キリストの勢力によって、たいへんな目、怖ろしい目にあうこともあるでしょう。しかし私たちは落ち込んだままでいることはありません。その勢力を統べ治める神さまを信じ、その御手にすべ...

011 1月11日 創12マタ11ネヘ1使11

創世記12章……主の召命を受けて踏み出したアブラムは、その祝福をともに生み出す源となるべきサライを手離そうとしても、なお自分の身を守ろうとしました。これはみこころに反したことでした。しかし主はアブラムではなく、サライを召し入れたファラオの宮廷を打たれました。このことにより、アブラムはエジプトにいることが許されなくなり、飢饉の中をさすらうことになったわけですが、これで、アブラムが神さまによって特別に召され、守られた存在であることもまたはっきりしました。 マタイの福音書11章……旧約聖書で預言されたイエスさまのさきがけ、そして、人々にまことの悔い改めを説き、イエスさまへと導いたバプテスマのヨハネにして、イエスさまこそがまことのキリストなのか動揺していました。しかしイエスさまは、ご自身の行われるわざによって信じなさい、と、ヨハネを励まされました(ヨハネ10:38)。しかしイエスさまは、ヨハネに対し、人として最大限の高い評価をしていらっしゃいます。 ネヘミヤ記1章……ネヘミヤは、エルサレム崩壊の知らせを聞いて大きなショックを受け、神さまに祈りました。しかしこのときネヘミヤは、第一にイスラエル、神の民の罪を告白しています。エルサレムを再建してください、という祈り以前に、悔い改めの祈りが優先したのでした。私たちも祈るとき、懇願の祈りよりも優先させるべきは、悔い改めの祈りです。 使徒の働き11章……ついに異邦人にも教会が開かれました。この教会の人々は「キリスト者」という名誉ある呼び名を得て、さらには、困窮した兄弟に援助するということまでしました。異邦人だからと、形成されたばかりだと、恵みを受けるばかりではなかったのでした。彼らはささげることを知っていました。「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるならば、このような愛のわざの実を結んでしかるべきではないでしょうか。 <祈りの課題>本日成人式を迎える兄弟姉妹のために。 <明日の聖書通読箇所>創13、マタ12、ネヘ2、使12

010 1月10日 創11マタ10エズ10使10

創世記11章……バベルの塔が建てられたのは、地を満たせという主のみこころに反逆することに大きな目的がありました。主に反抗することに人々が徒党を組むならば、「しようと企てることで、不可能なことは何もない』という、怖ろしいこととなります。しかしこのとき、主は介在されて塔の建築が未遂に終わり、みこころどおり人々が全地に散らされたように、どんなに、人々が群れを成して主に反抗する道を歩んでいることが止められないように見えても、主が介在されるなら、必ずみこころは成ります。 マタイの福音書10章……人々の前でイエスさまのことを知らないという者のことは、イエスさまも、御父の前でその人のことを知らないとおっしゃる(33節)、大変厳しいみことばですが、私たちはこのことばに耐えられるでしょうか? しかし、このみことばどおり、イエスさまを知らないと言ってしまったゆえに、本来ならばイエスさまに見捨てられたはずのペテロのことを、主が立たせられ、用いられたように、主は私たちにもチャンスと勇気を与えてくださいます。恐れないでまいりたいものです。 エズラ記10章……18節から43節、主の共同体に罪をもたらした者たちの名前が、ことごとく記録されました。恥を後代まで残したことになるわけですが、しかし彼らはまた、罪を断ち切る誓いをした人たちでもありました。そういう意味でも彼らの名前がことごとく記録されているともいうことができます。私たちも罪が明らかになり、その事実が人々の口に上るのは恥ずかしいことかもしれませんが、その罪を悔い改めるなら、主は私たちの悔い改めを覚え、もうその罪を思い出されることはないと約束してくださっています。 使徒の働き10章……主は言われます。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」確かに私たちは、聖い神さまのみことばの基準から見ればみな罪人です。しかし、神さまがその罪をイエスさまの十字架によって赦してくださった以上、その罪に縛られて、自分や人のことを罪人と見なしつづけることをやめなければなりません。罪人を十字架によりきよめてくださった、主のみこころに心を留めましょう。 <祈りの課題>今日の日曜礼拝のために。 <明日の聖書通読箇所>創12、マタ11、ネヘ1、使11

009 1月9日 創9-10マタ9エズ9使9

 創世記9章~10章……父親が恥をさらすようなとき、子どもとしてすべきことは、その恥をまじまじと見ることではなく、むしろ恥をおおってあげることです。ハムが子孫までのろいを受けたのは、父の恥を告げ口したゆえでした。こんにちの私たちにとっては、教会の聖徒たちのうわさを「祈りの課題」の美名のもとに言いふらすことが、このハムの愚かさに当たるのではないでしょうか。私たちはもし、聞くだに恥ずかしい「祈りの課題」を耳にしたならば、することは「祈ること」であって「その『課題』を言いふらすこと」ではありません。 マタイの福音書9章……この世界に弱り果てている人たちがあふれているということは、それだけ、神さまに立ち帰っていのちを得ようという人が多いことになります。したがって、収穫は多いのです。しかし38節を注意して読むと、それは「収穫の主の『ご自分の』収穫」であるとイエスさまは語られます。私たちが第一にすることは、自分たちの群れの教勢を拡大しようと頑張ることではありません。主がその群れを増やしてくださるために、そのための働き人が起こされるように祈ることです。 エズラ記9章……復興しつつあるエルサレムに、罪深い生活様式は持ち込まれていました。このためにエズラは霊的リーダーとしてうちひしがれ、ひたすらにとりなしの祈りをささげました。いまは天の御国にて主イエスさまが、御父の右の座にて私たち罪人のためにとりなしの祈りをささげていらっしゃいますが、エズラの祈りを見ると、いわんや主なるイエスさまのとりなしの祈りはどれほど真剣だろうかと思わざるを得ません。私たちに必要なのはエズラの心、イエスさまの心です。その心で、自分を含めたこの地の民の罪を深く嘆き悲しみ、真剣に祈るのみです。 使徒の働き9章……19節に「ダマスコの弟子たち」とあります。彼らはダマスコ地域のクリスチャンであり、本来ならばサウロによって大迫害を受けるべき存在でした。ところが今や、彼らはサウロの始まったばかりのミニストリーを援助する人々となりました。ガラテヤ書1章17節の記述をもとに考えると、そのできごとはサウロが主に出会ってすぐとも、アラビアにいったん行ったあととも考えられますが、どちらにせよ、サウロはもはや反キリストのユダヤ人とともに歩まず(22節)、正真正銘のクリスチャン、イエスさまの証人となりました。私たちの周りにも、私...

008 1月8日 創8マタ8エズ8使8

創世記8章……神さまはひとたびは大洪水でこの地を滅ぼされましたが、市場の被造物である人間は何をどうしても罪人であることを心に留められ、人のゆえにこの地をのろうことはなさらないと誓われました。私たちが生きながらえているのは、実に、この地界をもって守ってくださる主のみ恵みのゆえです。 マタイの福音書8章……人の子、イエスさまにお従いするということは、極めて厳しいことで、それは、身を休める場所においても、獣や野鳥以下になってしまうことを意味します(20)。しかし、世の安楽よりも、イエスさまに従うことのほうに喜びを見出せるならば幸いです。私たちも覚悟が問われています。 エズラ記8章……エズラは大群衆を率いてエルサレムにのぼるにあたり、道中の無事を保障するにあたって、王権をかさにペルシアの部隊に護衛を頼むことを恥と考え、断食して主に祈りました。すると神さまは、道中の敵たちから彼らを守ってくださいました(23節)。エズラは、目に見える王の権力よりも、自分たちの仕えている全地の王なる神さまがはるかに強いことを信仰によって受け入れていました。私たちもとかく、目に見えるものに左右されがちですが、根本的に、神さまに対してエズラが持っていたような信仰を持っていますでしょうか。 使徒の働き8章……魔術師シモンは人々を驚かせる行為をしていたところを見ると、悪霊の力が働いていたと言えます。そういう人でも主は救ってくださいますが、いけないのは、そういう人が深い考えもなしに主の賜物をいただき、教会の中でリーダーになろうとすることです。ペテロは彼に悔い改めの祈りをするように迫りましたが、彼は自分で祈るのではなく、ペテロに祈ってもらおうとしました(24節)。ほんとうに御霊の人ならば、自分で祈って悔い改めることができるわけで、人の祈りに全面的にゆだねて自分自身に対する霊的責任を放棄することはありません。私たちは、人に祈ってもらう前に、まず自分自身で祈ることを身に着けてまいりたいものです。 <祈りの課題>悪霊の支配下にあって苦しんでいる人々のために。 <明日の聖書通読箇所>創9-10、マタ9、エズ9、使9

007 1月7日 創7マタ7エズ7使7

創世記7章……神さまがノアに、箱舟の中にすべての生き物をつがいで入れなさいと命じられたとき、ノアはそのみこころに従おうとしました。それはどれほど困難なことだったことでしょうか。地上のすべての生き物を入れることなどできるのでしょうか。しかし神さまは、ノアのもとに生き物がつがいでやってくるように計らわれました(9)。まことに、神さまのみこころは生き物の世界を含めた森羅万象にまで及ぶことを受け入れ、今日も主に信頼してまいりましょう。 マタイの福音書7章……日本で言う「猫に小判」ということわざが西洋では「豚に真珠」であることはみなさまご存じでしょう。これはイエスさまの語られたもことばがもとになったことわざです。しかし、よく読むと「豚に真珠」は「猫に小判」とはちがいます。真珠のごとくとうとい聖なるもの、すなわち主のみおしえを、豚に象徴された、たましいのけがれを洗い落とそうとしない者に説いて聞かせようとするならば、手ひどい反抗にあって害を受けるからおよしなさい、ということです。私たちがもし、性悪な人間を含めただれに対してもみことばを語るべきだと考えたらとても憂鬱になりますが、イエスさまはむしろ、語る相手のことをよく考えた上で語りなさい、と言っておられるのではないでしょうか。 エズラ記7章……エズラは、主の律法をよく調べて、自分で実行したうえでイスラエルにてこのみことばを教えようと心を定めた人でした(10)。自分が実践し、そして自分がリーダーシップを行使する共同体にみこころを実行させるうえで必要なことは、まず自分がみことばに精通することです(11)。私たちの属する共同体がみことばを守り行う祝福をいただくためには、そのみことばを解き明かすべく、群れのリーダーの教職者(牧師先生や宣教師先生)が充分にみことばに親しみ、みことばをお勉強する時間が持てるように、群れで祈り、お助けしたいものです。 使徒の働き7章……ステパノは、みことばを語ったがために悲惨な死を遂げたようなものです。ユダヤの宗教指導者たちは、イエスさまのおっしゃるところの「真珠を与えられた豚」でした。しかしステパノはそれでも、神さまが彼らのことを赦してくださるようにと祈りました。その祈りは聞かれ、この指導者の中からのちの日の使徒パウロが起こされました。私たちには、クリスチャンである、みことばに従っている、みことばを語っている...

006 1月6日 創6マタ6エズ6使6

創世記6章……神さまは、暴虐で満ちた地を滅ぼし去られるお方です(13)。このようなことを実際に予告された神さまは、実際そのとおりに事を行われましたが、警告をきちんと受け取るほどにみことばに従順だったノアは家族とともに救われました。こんにちにおいても、神さまはみこころに従順な者を求めていらっしゃいます。そして、みこころに従順な者、すなわち、イエスさまを信じ受け入れる者は救っていただけます。 マタイの福音書6章……寄付金を出すこと、お祈りすること、断食をすることは、素晴らしいことにはちがいありません。しかしそれはどこまでも、神さまとの関係の中で自発的に行うものです。要は、それを人の前に見せるような動機がないかが問われている、ということです。私たちも信仰の成長の証しとして、このような行動に踏み出すことはよいことですが、どこかで人にほめられることを期待していないか、よく考える必要があります。 エズラ記6章……神さまのみこころであった神殿建築が再開でき、ついに完成したのは、キュロス王の「お墨付き」がしっかりと保管されていたからでした。神さまはこのように、あらゆる者がいたずらにふれることの許されない王の文書を用いて、みこころを成し遂げられました。神さまが天において私たちに対して持っておられるみこころは、地上の王の心よりも確実なものです。神さまは必ず、私たちに対して持っておられるみこころを成し遂げられます。 使徒の働き6章……この時代の十二使徒に象徴される、たとえば牧師や宣教師のような直接献身者が第一にすることは、「みことばと祈りの奉仕に専念すること」です。教会は、牧会者がみことばを学んで語り、充分に祈りの時間を持てるように、積極的にいろいろな奉仕(雑用とイコールではなく、それは「たましいの救いと弟子づくり」も含みます)を担えるようになる必要がありますし、牧会者も、雑事にかまけるのではなく、みことばと祈りを最優先にする必要があります。 <祈りの課題>茨城の学校は冬休みが終わり、今日から授業が始まります。全国の子どもたちの信仰が守られ、成長しますように。全国の教会学校の働きのために。 <明日の通読箇所>創7、マタ7、エズ7、使7

005 1月5日 創5マタ5エズ5使5

創世記5章……ノアの存在は、主がのろわれたこの地における労働と労苦から人を慰めてくれる者となろう、という祈りが込められています(29)。主の民は、神のかたちにつくられた人本来の生き方を回復する存在として(1,3)、この世をのろうのではなく、祝福し、慰める存在です。 マタイの福音書5章……自分のことを迫害する人のために、私たちは何を祈りますか。その人がどうか悪い目に遭いますように、というようなことを、いとも簡単に私たちは祈っていないでしょうか。しかし、主は彼らが祝福されるように祈りなさい、と命じていらっしゃいます。思えば、私たちも主に敵対する者であったのに、主は私たちのことを滅ぼすことなく、救ってくださいました。神さまのこの慈愛を思えば、私たちも敵のために祈れるはずです。とても難しいことですが、ともに取り組みましょう。 エズラ記5章……神殿建設は一度は頓挫しましたが、それは主のみこころであるという確信をいだいて、ユダヤ人たちは神殿建設に取り掛かりました。それを妨害する者たちは、それが果たしてペルシアの王の勅令によるものなのか確かめようとしました。もし勅令だったら、彼らには妨げることなどできず、むしろ彼らはこの建築を積極的に支援するべきです。みこころならばどのような悪条件が重なろうとも、必ず成し遂げられます。 使徒の働き5章……早くも初代教会には内憂外患の事態が生じました。しかし、主はリーダーのペテロに素晴らしい知恵を授け、正しく事を行う力を与えられたのみならず、律法学者の中からも発言力のある指導者を起こされ、教会を守ってくださいました(34~39)。私たちは主の守りを信じ、恐れから解放されてまいりたいものです。 <祈りの課題>2021年の仕事の始まったすべての社会人のために。その職場で勤勉に働くことで神の栄光が顕されるように。 <明日の通読箇所>創6、マタ6、エズ6、使6

004 1月4日 創4マタ4エズ4使4

月曜日になりました。いよいよ仕事始め、みなさまが守られますようにお祈りします。 創世記4章……カインは殺人という大きな罪を犯しました。しかし、カインは神の前に罪を告白しました。カインは罪の結果の刈り取りとして地上をさまよい歩くことになりましたが、しかし神さまはそのようなカインに、殺人者が手を触れることのないようにしるしをくださいました。カインの悔い改めを神さまは受け入れてくださいました。私たちに必要なのは「後悔」ではなく、自分から神さまへと方向転換する「悔い改め」です。 マタイの福音書4章……悪魔との戦いに勝利されたイエスさまは宣教を開始されました。そこで宣べ伝えられたことは「天の御国が近づいた」ことであり、それは、イエスさまを通して天の御国に入りなさい、ということです。天の御国に入る条件は「悔い改め」です。悔い改めることを知らないならば、いつまでたっても神さまに向かうことはできません。悔い改めはみっともないことではなく、大いなる祝福、栄光です。 エズラ記4章……主の働きというものはしばしば、大きな脅かしを受けるものです。主に敵対する者は、ゆえなく、それも私たちが予想だにしなかった形で攻撃を加えてきます。しかし私たちはそれを意外なことと思い、面食らっていてはなりません。主に従う者に迫害は必ず臨むと主イエスさまがおっしゃっている以上、攻撃は避けられないものです。それはときに、かなりきついかたちで臨むものですが、私たちは信仰の先祖たちにならって、困難に耐え、困難を乗り越える者となっていきたいものです。 使徒の働き4章……主を証しすることは迫害を招きます。しかし私たちは、神さまに従うことの方が人に追従するよりも正しいこと、すべきことだと知っています(19節)。まことに、みことばを語る者には確信が与えられます。その人は大胆になります。そして、その迫害に耐えた証しは教会という共同体を力づけます。私たちも迫害をものともせずみことばを語る者となるため、大胆さが与えられるように祈りましょう。 <祈りの課題>宣教が困難な地域でみことばを宣べ伝え、地下教会を形成する働きに従事しておられる兄弟姉妹のために。因習の強い家庭や地域に遣わされている日本の兄弟姉妹のために。 <明日の通読箇所>創5、マタ5、エズ5、使5

003 1月3日 創3マタ3エズ3使3

本日は日曜日、主日礼拝の日です。 礼拝と聖書通読で、合わせて祝福をいただく日です。感謝です。 創世記3章……善悪の知識の木の実を食べて神さまに反逆する罪を犯したアダムとエバは、エデンの園から追放されることになりました。そのとき神さまは、園の中央にあるいのちの木に天使ケルビムと炎の剣を配置され、人が近づけないようにされました。これは、罪の中にいて神さまと交わりを持てない者は死ぬしかなく、いのちの木の実を食べて永遠に生きることができないという、神さまのみこころです。私たちは死ぬ者であるゆえに、永遠のいのちなる神さまを求めるのであり、イエスさまを信じ受け入れて神さまのものとされたら、いのちの木の実を食べる者へと回復されます(黙22:14)。 マタイの福音書3章……イエスさまはヨハネからバプテスマをお受けになりました。それはまるで逆の立場のようでしたが(14節)、イエスさまはこのことを、「わたしたちにふさわしい、実現すべき正しいこと」とおっしゃいました。イエスさまにしてそのようにおっしゃり、また、このバプテスマからイエスさまの公生涯が始まったことを考えると、私たちにとってバプテスマは、クリスチャンとして公の生き方を始める機会であり、それだけ大事なものです。教会に通いながらもなおバプテスマを受けることを迷っておられる方々のためにお祈りします。 エズラ記3章……エルサレムに帰還したユダヤ人たちによる祭りは規定どおり行われ、ついに神殿の礎は据えられました。それは喜ばしいことでしたが、年長の者たちは、かつてのソロモンによる神殿の壮麗さ、雄大さを知っていただけに、あまりに小さなこの礎に悲しくなりました(ハガ2:3)。若者の喜びと老人の悲しみ、悲喜こもごもです。バビロン捕囚とソロモンの神殿の破壊がユダの偶像礼拝の罪の結果であることを考えると、老人たちは罪のさばきを受ける以前の栄光を回顧していると言えましょう。 私たちも罪のせいで失ったものがあり、そのために悲しんでいるかもしれません。しかし、神さまは私たちを、イエスさまを信じる信仰によって、聖霊の神殿としてくださいました。今はみすぼらしいようでも、終わりの日に必ず回復されます。 使徒の働き3章……施しを求めていた男性の障がいがいやされたのは、ペテロとヨハネが「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったことがきっ...

002 1月2日 創2マタ2エズ2使2

みなさま、おはようございます。 ブログは早朝のうちに更新しようと思います。今朝は8時台と、遅くなってごめんなさい。 では、聖書通読とまいります。 創世記2章……女(エバ)は男(アダム)の心臓近くのあばら骨から取られ、人として造られました。それは、心をともにする存在を象徴していると言えないでしょうか。「それゆえ」「ふたりは一体となる」とみことばは語ります。まことに、夫婦とは別人格であると同時に、一体の存在であります。この「夫婦が一体」ということですが、あらゆる動物がアダムの助け手となれなかった(20)ことからもわかるように、たとえばペットのような存在では一体感を完全に満たせないということが、聖書のメッセージです。配偶者を大切にしましょう。未婚の方は、ふさわしい配偶者が与えられるように祈りましょう。 マタイの福音書2章……新しい王(イエスさま)の出現に、ヘロデもエルサレムの人々も恐れ惑いました。まことに、イエスさまが来られるということは、世の人たちにとって、これまであたりまえのように享受していたものが揺れ動くことを意味します。そして、その存在はイエスさま(と、イエスさまを受け入れた私たち)をなきものにしようと、総攻撃を仕掛けてきます。私たちは主に拠り頼み、これらの世の脅かしに負けないようにしなければなりません。イエスさまの家族を守ってくださった神さまは、私たちのことも守ってくださいます。 エズラ記2章……イスラエルの民の部族名が多くの紙面を割いて列挙されています。私たちはつい、この部族名の列挙に退屈さを感じてしまうかもしれませんが、私たちはここで、ついに時が満ちて帰還できたイスラエルが、その部族ごとに神さまに呼び出される喜びをイメージしてみましょう。私たちに適用するならば、終わりの日に、神さまが教会ごとに私たちを天国に呼び出してくださるイメージでしょうか。読んでいて、「おお! ついにうちの部族もエルサレムに帰れる!」という喜びが伝わってくるはずです。 使徒の働き2章……教会の誕生です。(旧約)聖書のほんとうの意味がわかった聖徒たちは堂々と毎日宮に集まり、また、家々で食事をともにする交わりを持ちました。まことに教会とは、建物があって初めて成り立つものではなく、聖徒たちが主の御名によって集まるところに成り立つものです。そこには礼拝があり、交わりがあり、民全体に証しになる、宣...