025 1月25日 創26マタ25エス2使25
創世記26章……イサクは最初、ペリシテ人の地に寄留しながらも、居場所がなく、苦労しました。主の祝福はつねにともにありましたが、その地の人々は彼のことを受け入れませんでした。しかし、イサクは主の導きを求めつづけ、井戸を掘りつづけ、ついにこの地に定住できるまでになりました。目先の状況に左右されず、主の遠大な導きに信頼して進み、ついに大いなる祝福をいただいた姿が、ここにあります。私たちもこの地では祝福とともに多くの苦しみを受けますが、苦しみにばかり目を留めて、主にお従いすることをあきらめてはなりません。やがて天の御国に入れられるその日を望み見つつ、今日の労苦をしのんでまいりましょう。
マタイの福音書25章……この章でイエスさまは、世の終わりを3つのたとえで語られました。いずれにも共通しているのは、「天の御国に行けない者がより分けられる」ということです。私たち教会は、キリストの花婿として灯を掲げ、与えられているあらゆる財産(経済的なもの、物質的なもののみならず、人間関係、機会、状況)を用いて、人々、特に弱い立場にある人々に仕えつつ、イエスさまにいつお会いしても恥ずかしくないように備える必要があります。
エステル記2章……11節の、後宮の庭から何とかエステルの様子を知ろうとしていたモルデカイの姿は、まるで、自分の属する教会の聖徒を週の職場や学校に送り出した牧会者のようです。牧会者はイエスさまの心情で私たちの生活の現場がどうなっているかなんとか知りたくても、もちろんそれを知ることはできず、主の御手にゆだねるばかりです。私たちは、モルデカイがエステルを気にかけていたように、「神が心配してくださる」(Ⅰペテロ5:7)存在であり、それゆえ牧会者をはじめ聖徒たちが心配してくれている存在です。
使徒の働き25章……パウロは不当に殺されてはなりませんでした。それでパウロは、自分の身をユダヤ人たちにゆだねず、カエサルに上訴してローマに行く道を選びました。まことの主のしもべは殉教の道を行く定めですが、それでも「犬死に」をせよと主はおっしゃっているのではありません。いのちある限り、この世と妥協するなりして主を裏切るのではないかぎり、与えられたいのちを大切にし、少しでも主を証しする機会をつくっていかなければなりません。
<祈りの課題>迫害のもとにある信徒、献身者たちのいのちが守られ、極限の中でも福音が伝わり、多くの人が救われるように。
コメント
コメントを投稿