021 1月21日 創22マタ21ネヘ11使21
創世記22章……アブラハムはモリヤへと向けて出発するとき、火と刃物を取りました。それを見ただれもが、それは何らかの家畜を屠るためのものと思ったことでしょう。しかしアブラハムの中では、それはひとり子イサクを屠るためのものでした。それを携えつつ3日の道のりをイサクとともに歩いたアブラハムの心境を想像してみましょう。私たちの父なる神さまも、私たちのためにひとり子イエスさまを十字架におかけになるというご計画を世の初めから持たれて以来、ずっとそのみ思いを持たれてきたのでした。この御父のみ思いを、今日も心に留めてまいりましょう。
マタイの福音書21章……宗教指導者たちが、ヨハネのバプテスマが人に由来すると言わなかったのは、そう言うことによって激高した群衆に石で打ち殺されるのを恐れたからでした。そのように、バプテスマのヨハネの権威を認めていた彼ら宗教指導者でしたが、イエスさまは無きものにしようとしたのでした。「宗教」や「神信仰」、はたまた「キリスト教」が問題になるのではありません。「イエスさま」を信じるかどうかが究極の問題となるのです。
ネヘミヤ記11章……エルサレムに住む人々はこのように、代表者の名前が聖書に記録される栄誉に浴しました。地上の都に入れられることにもこれほどの栄誉があるならば、まして、天のエルサレムなる天国に入れられるとき、いのちの書に名が記されていることはどれほどの栄誉となることでしょうか。私たちはこの箇所をお読みし、いずれ天の御国にて自分の名が呼ばれるときを望み見たいものです。
使徒の働き21章……主にお従いするということは、御国の拡大のために働きをすることとはかぎりません。その働きが一切止められ、殉教するということもあり得るわけです。それを何として求めたいのは人情ですが、私たちが求めるべきは、「主のみこころがなりますように」(14節)と祈ることです。
<祈りの課題>世界各地で流されている殉教者の血が地に落ちることなく、多くの実を結びますように。
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