026 1月26日 創27マタ26エス3使26

創世記27章……ヤコブはイレギュラーな形で父イサクの祝福を手に入れましたが、その結果、今度は自分が「十度も」だまされる、ラバンのもとでの生活へと導き入れられました。祝福というものは簡単に手にできたわけではありませんし、「だまし、奪い取った」(35節)行為が無条件に正当化されるわけでもありません。私たちも天の御国に入れられる祝福は「信じるだけ」という、この世的に見れば「ずるい」とすら思えるほど簡単な形で手に入れましたが、その祝福が人生の中で完成するには、多くの苦しみを経なければなりません。

マタイの福音書26章……「剣をもとに収めなさい」というイエスさまのみことばを聴きましょう。この世界は、政治、経済、文化……あらゆる形で「剣」を振るい、平和とは名ばかりの、権力者の欲望を成し遂げる試みがなされています。しかし、まことの平和は人ではなく、神さまに属するもので、それは、この争いばかりの私を含む人間のあらゆる罪を十字架で背負ってくださったイエスさまを信じる信仰により、はじめてつくられます。

エステル記3章……神の民ユダヤは皆殺しの危機に陥りました。それは、モルデカイがハマンにひれ伏さなかったからという、それだけの理由です。モルデカイは間違ったことをしていません。神の前に正しいことを行なっています。しかし、その正しい行動のゆえに、ユダヤ人が危機に陥ったように、私たちの正しい行動は、クリスチャン全体の迫害につながりかねません(実際、そういう時代がありましたし、共産圏やイスラム圏では今もなおそうです)。それでも私たちは、神さまが私たちクリスチャンをみな、特別に守り、ことごとく天国に入れてくださることを信じ、偶像礼拝や人礼拝などの間違った行動から身を避ける者となりたいものです。

使徒の働き26章……パウロは、たとえ王に対してさえも、自分の話を聞く人がみな自分のようになってほしいと話しました。それはもちろん、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得るように、ということです。ただしパウロは、「この鎖は別として」とも語っているわけで、キリスト者はすべからく殉教すべきである、と言っているのではありません。私たちが宣べ伝えるのはキリストにあって自由を得るということであって、キリストを信じれば束縛されるということであってはなりません。

<祈りの課題>平日の生活の中で、私たちがあらゆる機会を生かして主にお従いし、イエス・キリストを宣べ伝える者となりますように。

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