003 1月3日 創3マタ3エズ3使3
本日は日曜日、主日礼拝の日です。
礼拝と聖書通読で、合わせて祝福をいただく日です。感謝です。
創世記3章……善悪の知識の木の実を食べて神さまに反逆する罪を犯したアダムとエバは、エデンの園から追放されることになりました。そのとき神さまは、園の中央にあるいのちの木に天使ケルビムと炎の剣を配置され、人が近づけないようにされました。これは、罪の中にいて神さまと交わりを持てない者は死ぬしかなく、いのちの木の実を食べて永遠に生きることができないという、神さまのみこころです。私たちは死ぬ者であるゆえに、永遠のいのちなる神さまを求めるのであり、イエスさまを信じ受け入れて神さまのものとされたら、いのちの木の実を食べる者へと回復されます(黙22:14)。
マタイの福音書3章……イエスさまはヨハネからバプテスマをお受けになりました。それはまるで逆の立場のようでしたが(14節)、イエスさまはこのことを、「わたしたちにふさわしい、実現すべき正しいこと」とおっしゃいました。イエスさまにしてそのようにおっしゃり、また、このバプテスマからイエスさまの公生涯が始まったことを考えると、私たちにとってバプテスマは、クリスチャンとして公の生き方を始める機会であり、それだけ大事なものです。教会に通いながらもなおバプテスマを受けることを迷っておられる方々のためにお祈りします。
エズラ記3章……エルサレムに帰還したユダヤ人たちによる祭りは規定どおり行われ、ついに神殿の礎は据えられました。それは喜ばしいことでしたが、年長の者たちは、かつてのソロモンによる神殿の壮麗さ、雄大さを知っていただけに、あまりに小さなこの礎に悲しくなりました(ハガ2:3)。若者の喜びと老人の悲しみ、悲喜こもごもです。バビロン捕囚とソロモンの神殿の破壊がユダの偶像礼拝の罪の結果であることを考えると、老人たちは罪のさばきを受ける以前の栄光を回顧していると言えましょう。
私たちも罪のせいで失ったものがあり、そのために悲しんでいるかもしれません。しかし、神さまは私たちを、イエスさまを信じる信仰によって、聖霊の神殿としてくださいました。今はみすぼらしいようでも、終わりの日に必ず回復されます。
使徒の働き3章……施しを求めていた男性の障がいがいやされたのは、ペテロとヨハネが「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったことがきっかけでしたが、これは使徒たちの力や敬虔さによるものではありません(12節)。大事なのはイエスさまの御名と、その御名に対する信仰です(16節)。
この世界においてはなんと多くの人が、クリスチャンそのものの敬虔さや人格、行いばかりに目が行き、その人を立たせ、生かしているイエスさまに目を留めようとしないことでしょうか。クリスチャンもそのような世界に迎合されようと頑張る必要はありません。むしろ、イエスさまの御名が伝わり、その御名によって多くの人が立ち上がるように、お祈りする必要があります。
<祈りの課題>本日の礼拝を、オンライン礼拝に切り替えざるを得なくなっているすべての教会が守られますように。
<明日の通読箇所>創4、マタ4、エズ4、使4
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