018 1月18日 創19マタ18ネヘ8使18
※ 昨朝、激しい腰痛に襲われ、ブログが更新できなくなってしまいました。1日遅れになって申し訳ありません。
創世記19章……主の御目から見た世の乱れというものが、性的な面に顕著に現れることが、このみことばからわかります。私たちはこの世界を主の視点で見て、とりなす者となっているでしょうか。自分自身と自分の家族、教会をきよく保つために祈っていますでしょうか。
マタイの福音書18章……自分自身が監獄に入れられ、日本円に換算して6000億円になろうかという負債を返すなど、不可能なことです。それほどの罪を赦していただいたのに、私たちは兄弟姉妹の過ちになんと不寛容なことでしょうか。「主の祈り」が、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と唱和するようになっているのも、無意味にそうなっているのではありません。兄弟姉妹を愛し、赦すことは、キリスト者の本分です。それができないゆえにわれわれも苦しむのですが、そのときこそ主のあわれみにすがり、人を赦せる者となれるように祈ってまいりましょう。
ネヘミヤ記8章……民は、群れなしてみことばを再び聴いたとき、泣きました。それは悔い改めの時であり、感動の時でした。しかしこのとき、主は、ご自身を喜ぶように民を導かれました。なぜなら、主を喜ぶことは力だからです。私たちも時に力が失われるほど激しい悔い改めの思いに導かれることがあるでしょう。しかし、悔い改めの後には大いなる喜びがあります。感謝し、喜びましょう。
使徒の働き18章……信徒伝道者がテントメーカーと呼ばれる根拠は、この2節から3節のみことばです。教職者はみことばと祈りに専念する者ですが、それでも困難にある信徒の必要を満たすために一肌脱ぐことも時に必要とされます。それでこそ、信徒とともに教会を立て上げることにつながります。
<祈りの課題>一般の職業に就きながら主の働きに献身しておられるすべての教職者のために。
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