009 1月9日 創9-10マタ9エズ9使9
創世記9章~10章……父親が恥をさらすようなとき、子どもとしてすべきことは、その恥をまじまじと見ることではなく、むしろ恥をおおってあげることです。ハムが子孫までのろいを受けたのは、父の恥を告げ口したゆえでした。こんにちの私たちにとっては、教会の聖徒たちのうわさを「祈りの課題」の美名のもとに言いふらすことが、このハムの愚かさに当たるのではないでしょうか。私たちはもし、聞くだに恥ずかしい「祈りの課題」を耳にしたならば、することは「祈ること」であって「その『課題』を言いふらすこと」ではありません。
マタイの福音書9章……この世界に弱り果てている人たちがあふれているということは、それだけ、神さまに立ち帰っていのちを得ようという人が多いことになります。したがって、収穫は多いのです。しかし38節を注意して読むと、それは「収穫の主の『ご自分の』収穫」であるとイエスさまは語られます。私たちが第一にすることは、自分たちの群れの教勢を拡大しようと頑張ることではありません。主がその群れを増やしてくださるために、そのための働き人が起こされるように祈ることです。
エズラ記9章……復興しつつあるエルサレムに、罪深い生活様式は持ち込まれていました。このためにエズラは霊的リーダーとしてうちひしがれ、ひたすらにとりなしの祈りをささげました。いまは天の御国にて主イエスさまが、御父の右の座にて私たち罪人のためにとりなしの祈りをささげていらっしゃいますが、エズラの祈りを見ると、いわんや主なるイエスさまのとりなしの祈りはどれほど真剣だろうかと思わざるを得ません。私たちに必要なのはエズラの心、イエスさまの心です。その心で、自分を含めたこの地の民の罪を深く嘆き悲しみ、真剣に祈るのみです。
使徒の働き9章……19節に「ダマスコの弟子たち」とあります。彼らはダマスコ地域のクリスチャンであり、本来ならばサウロによって大迫害を受けるべき存在でした。ところが今や、彼らはサウロの始まったばかりのミニストリーを援助する人々となりました。ガラテヤ書1章17節の記述をもとに考えると、そのできごとはサウロが主に出会ってすぐとも、アラビアにいったん行ったあととも考えられますが、どちらにせよ、サウロはもはや反キリストのユダヤ人とともに歩まず(22節)、正真正銘のクリスチャン、イエスさまの証人となりました。私たちの周りにも、私たちの持つ信仰ゆえに迫害を加えてくるような人はいないでしょうか? 彼らのために祈りましょう。サウロ(パウロ)を起こされた主は、こんにちに至るまでも働いていらっしゃいます。
<祈りの課題>豪雪に見舞われた日本海側の方々と諸教会のために。
<明日の聖書通読箇所>創11、エズ10、マタ10、使10
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