020 1月20日 創21マタ20ネヘ10使20
創世記21章……ハガルは、皮袋の水が尽きたとき、息子を放り出してそこから離れ、声をあげて泣きました。主はそのとき、彼女の目を開かれ、そこに井戸があることに気づかせてくださいました。人は時に、不条理とも思えるような厳しい思いをすることがあります。しかしそのときにも主は必ず、試練とともに脱出の道を備えてくださり、祝福に変えてくださいます。
マタイの福音書20章……私たちはつい、朝から働いた労働者の立場に置き換えて自分のことを考えてしまうのではないでしょうか。しかし、本来私たちは、神の国のために働くことも許されなかったのに、御父にスカウトされた、午後5時からの労働者です。どれだけの分量働いたかではなく、御父のもとに入れていただいているかどうかが大事です。働きを人と比較するなら、みじめになるか、傲慢になるだけです。
ネヘミヤ記10章……「神の宮をなおざりにしない」ために民の指導者と民全体が神の前に誓ったこのことは、神の宮という建物を大事にすること以上に、神の民という共同体を大事にすることです。いま、多くのクリスチャンは礼拝堂という建物に足を運べなくなっていますが、このときこそ私たちは、自分が神の民という共同体の一員であることを思い起こしてまいりたいものです。
使徒の働き20章……パウロは、自分が去った後のエペソ教会には、外部から荒らし回る者が現れたり、内部から曲がったことを説く者が現れたりするだろうと警告しつつ去っていきました。その後、エペソ教会はそのような内憂外患の事態に遭いながらも持ちこたえていくのですが(黙2:2)それはパウロのこの別れ際のメッセージに堅く心を止めていたからでしょう。教会は平安であり続けることがとても難しい、デリケートな存在です。いつでも群れに平安があるように、私たちは目覚めて祈りつづける必要があります。
<祈りの課題>すべての教会が内憂外患の事態から守られるように。生徒たちが自分の教会を覚えて祈る者となるように。
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