027 1月27日 創28マタ27エス4使27

創世記28章……豊かだった父の家を身一つで離れ、石に枕する身となったヤコブは、どんなに心細かったことでしょうか。しかし、主はそのようなヤコブに現れてくださり、ヤコブはけっしてひとりではないことを教えてくださいました。私たちもこの世の歩みは時にとても心細くなるものですが、目に見えないお方である主はいつも、ともにおられます。

マタイの福音書27章……イスカリオテのユダは、イエスさまがストレートに「悪魔」と言ったほどの反キリスト的人間です(ヨハ6:70)。そんな彼が首を吊ったのは、イエスさまを死刑にさせたことを後悔してでしょうか? そんな理由で後悔などするような人間でしょうか? もし彼が、イエスさまがおっしゃるとおり「悪魔」であるならば、おそらく彼は、イエスさまが十字架に死なれることを、断固として阻止にかかったはずです。宗教指導者たちに渡せば、彼らは「石打ち」にしてくれ、十字架につけられることはないという計算があったのでしょう。しかし彼らのしたことは、「十字架」でした。それゆえ、神からも悪魔からも見放されたユダは、のろいに満ちた死に方をするしかなかったのでした。

エステル記4章……すべてのユダヤ人の断食の祈りに力を得て、死を賭して王のもとに行くことを決断したエステルの姿は、ゲツセマネの園にて万軍の天使に力づけられて十字架への道を踏み出された、イエスさまのお姿を想起させます。エステルのために断食したユダヤ人たちは、その祈りに自分たちのいのちがかかっていたので、その祈りは真剣にならざるを得ませんでした。エステルと同じように、死と隣り合わせになりながら宣教の働きを繰り広げておられる働き人のために、私たちはどれほど祈らなければならなうことでしょうか。

使徒の働き27章……助かる望みも今や完全に断たれようとしていた(20)、どれほど絶望的で、心細いことでしょうか。しかし、この航行は主の御手のうちにあることで、パウロはこのような理由で死ぬことはなかったのでした。それを知っていたパウロは、船の中のみなを、主とそのみことばへの確信をもって励ましました。私たちも、みことばをもって人々を励まし、不安から平安へと導く使命と責任が与えられています。

<祈りの課題>宣教の最前線におられる兄弟姉妹を覚えて祈る私たちとなりますように。思いつく方々のために祈りましょう。

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