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119 4月29日 民6詩40-41雅4ヘブ4

民数記6章……24節から26節は、礼拝の祝祷の時間にも唱えられる祝福のことばです。このみことばによると主の祝福は、守ってくださること、恵んでくださること、平安をくださることに表れます。敵に囲まれていて格別の守りを必要としたいにしえの弱小民族、イスラエルは、こんにちにおいては、サタンと悪霊どもの軍勢に満ちたこの世において弱い立場で生きる私たちです。しかし主は私たちに格別に御顔を向けてくださり、守り、恵み、平安をくださいます。 詩篇40篇~41篇……主は、いけにえやささげ物(宗教行為)をお喜びになりません。むしろ主が喜んで受け入れてくださるのは、みこころを守り行うことです。私たちの人生は思えば、恵みによって危機から守っていただくことばかりではないでしょうか。このような中で私たちは主の御名をほめたたえ、ますます、みこころを守り行おうと意識するのです。 雅歌4章……私たちは主の御名をことばを尽くしてほめたたえますが、主も私たちのことを愛しておられるゆえに、ことばを尽くしてほめたたえてくださるということを、私たちは考えたことがあるでしょうか。雅歌のこの豊かなことばをご覧ください。主はこのように私たち、主の愛を受けた者たちの美を歌ってくださいます。 ヘブル人への手紙4章……イエスさまは私たちの弱さも傷も、すべてご存知です。人としてこの地上を生きられ、あらゆる苦しみを通ってこられたイエスさまは、私たちが何で傷つき、何で苦しんでいるか、よくご存じで、そんな私たちに寄り添ってくださいます。イエスさまはご自身が神の御子だからと、私たちのことを傲然と見下ろされるようなお方ではありません。私たちはいつもイエスさまの御前に、祈りをもって大胆にお近づきしたいものです。 <祈りの課題>セルフイメージの低い兄弟姉妹が、そんな自分たちのことを特別に愛してたたえてくださる主の愛を一心に受け取り、元気になれますように。

118 4月28日 民5詩39雅3ヘブ3

民数記5章……ねたみについてのおしえ。主は、特殊な調合によってつくられる「のろいをもたらす水」を、不倫した疑惑のある女性に飲ませるということをお許しになりますが、この「儀式」は、不倫の疑惑があれ、潔白であれ、女性が共同体の中で主の御前に引き出されることであり、共同体の中に働かれる主のお取り扱いを受けることになります。こんにちにおいてはもちろん、主の共同体においてこのようなことは行いませんが、私たちが罪を犯しているにせよ犯していないにせよ、主の共同体の中でたえず私たち自身が問われているということに変わりはありません。 詩篇39篇……悪しき者は神さまを認めないゆえに愚か者でもありますが、その者の責めることば、あざけることばを受けても、私たちは何か言い返すことで、自分たちも彼らと同じレベルの愚か者となってはいけません。それゆえに主は私たちに、悪しき愚か者の前で沈黙することを求められますが、それはとてもつらいことです。私たちは口を開くことなしには、私たちを生かし、どんな人のことも生かしてくださる主を証しすることはできないからです。しかし主はやはり私たちがつらくても、沈黙することをお求めになります。それでも主は、ことばにならない私たちの心の叫びを聞いてくださり、その叫びにふさわしく応えてくださいます。 雅歌3章……恋い慕う人を捜し求め、ついにはしっかり捕まえて奥の間に連れていく乙女の姿は、イエスさまを捜し求め、奥まった部屋(マタイ6:6)でのイエスさまとの交わりを願う、私たちにとってのモデルです。私たちはこれほどまでにイエスさまを求め、慕っているでしょうか。 ヘブル人への手紙3章……モーセに率いられた荒野の民のかたくなさは、律法書(特に出エジプト記、民数記)を読めばわかります。しかし、彼らがかたくなだったのは、人間だからしかたないことだったのではありません。むしろ彼らの姿は、私たち救いを全うすべき者たちにとって反面教師です。私たちは彼らの姿を見てわがふりを直し、かたくなさから解放されるように祈る必要があります。 <祈りの課題>この世のだれよりもイエスさまを慕い求める信仰が、私たちを含めたすべてのクリスチャンの間に育ちますように。

117 4月27日 民4詩38雅2ヘブ2

民数記4章……ケハテ族、ゲルション族、メラリ族は、レビ族の中から特に、幕屋に関する働きをする献身者として選抜されました。主に礼拝をささげるうえで、特に主の宮の奉仕をする献身者が必要とされるということが、このみことばから裏づけられます。ただし、彼らはほかの部族より「偉い」わけではなく、あくまで主の宮のための献身者として聖別されているだけであり、それはこんにちの、牧師や宣教師のような献身者も同様です。 詩篇38篇……聖徒はときに、罪のゆえに激しく打ちひしがれるものです。その罪ゆえに主に激しく責められることがリアルに感じられてならないのです。しかし、そのような者でも、主の御名を叫び求める権利までは取り去られてはいません。私たちが責められる思いになるとき、私たちのすることは、主から身を避けることではなく、積極的に主の御名を呼び求めることです。 雅歌2章……歌い手は何度となく、愛する人に呼び掛けています。イエスさまは私たちのことを「愛する人」と呼んでくださいます。私たちもイエスさまに対して「愛する人」と呼びかけることが許されています。なんと感謝でうれしいことでしょうか。 ヘブル人への手紙2章……イエスさまは試みを受け、苦しまれました。それは私たち「アブラハムの子孫」、信仰をもって救いに定められた神の子どもたちを助け出してくださるためです。このように十字架の苦しみをもって私たちを救い出してくださったイエスさまは、私たちのことを兄弟と呼んでくださいます。 <祈りの課題>私たちの教会の献身者(牧師や宣教師)の働きや生活が支えられるように。

116 4月26日 民3詩37雅1ヘブ1

民数記3章……レビ人は、イスラエルのすべての長子の代わりを果たす存在です。主の民の共同体が御前にふさわしくあるためには、その共同体は一定の献身者の存在を必要とします。しかし、主の御前に近づく祭司に資格が必要だったように、献身者にもそれ相応の資格が必要です。現代の教会においては、神学校卒業と教会組織からの按手が大きな目安となります。 詩篇37篇……主とその民に敵対する悪しき者はこの地上でほしいままに振る舞い、私たちは彼らの横暴さ加減を見て、彼らの天下はこれからも続くと思って暗澹たる気持ちになるかもしれません。しかし、主は彼らのことを必ずおさばきになります。ほんとうに勝利されるのは主なる神さまであって、悪しき者たちではありません。 雅歌1章……ほんとうの愛は片思いや支配・被支配の関係ではなく、お互いが愛のことばを呼び交わすような交わりであってしかるべきです。私たちはなかなか、雅歌で描かれているような男女の関係を、たとえ夫婦の間でも(夫婦の間だからなおさら?)照れくさくて持ちにくいものかもしれませんが、イエスさまと私たちの間には、このような愛の交わりが成立してしかるべきです。 ヘブル人への手紙1章……イエスさまは御使い(天使)よりもはるかにまさったお方であることが述べられています。よく知らない人は、キリスト教会が天使礼拝をするかのように思っているようですが、御使いは私たち人間に仕える霊であり、礼拝の対象でもなければ、崇敬を受けるべき対象でもありません。しかし、イエスさまは創造主であり、また救い主であり、私たちの礼拝を受けるべきお方です。 <祈りの課題>世界中のクリスチャン夫婦が健全な愛の関係を保ちますように。

115 4月25日 民2詩36伝12ピレ

民数記2章……主は、一族ごとに軍団を形成して進んでいくように命じられました。大事なことは、「軍団というグループの中にとどまる」ことです。主の民として生きていくには、単独では無理です。どこかの信仰の共同体に属し、その共同体での責任を果たす必要があります。こんにちにおいてのそれは、教会です。 詩篇36篇……悪者のことばは私たちを傷つけます。時にそのことばは私たちの心の奥底まで届き、忘れようにもなかなか忘れることができません。そんなとき私たちのすることは、雲にまで及ぶ大いなる主の恵みを味わい知ることです。私たちが詩篇のみことばを熟読玩味するとき、主のその大いなる恵みを知り、その恵みのもとに傷からの癒しをいただくことができます。 伝道者の書12章……人間のすべきことは、神を恐れること、神の命令を守ること、これだけです。私たちは神を恐れているなら、神の命令を聞いただけにとどめず、その命令を実際に具体的に実践するはずです。この聖書通読も、単なる人生の素養のために読むのでは意味がなく、その日々のみことばを具体的に守り行うことで、クリスチャンたちがともにキリストの似姿に変えられ、終わりの日にイエスさまの御前に恥ずかしくなく立てる日に備えるためにすることです。 ピレモンへの手紙……パウロはオネシモのことで、ピレモンの前にとりなし手となりました。これは、イエスさまが私たち罪人のために御父の前でとりなし手となってくださった、その愛の行いにならう行動です。私たちの教会の中にも人間関係でつまずいている人がいるかもしれません。そのような人たちも主のみからだのひと枝として振る舞えるように、私たちは何ができるでしょうか。 <祈りの課題>傷つきやすい兄弟姉妹が、主の恵みによって心を強くして歩んでいけますように。

114 4月24日 民1詩35伝11テト3

民数記1章……十二部族が数えられたのは、のちに控えている戦いに備えるためです。そのような中にあっても、レビ族の数は登録されませんでした。主に礼拝をささげる(ために働く)ということは、それほどイスラエルの民にとって特別なこと、大事なことであり、世的なことと混同されてはならないことでした。 詩篇35篇……私たちはときに、敵の攻撃にさらされることがあります。しかし私たちは窮することはありません。なぜならば、全能なる神さまが私たちの味方であり、戦ってくださるからです。私たちのすることは、神さまの御名を必死に呼び求めることです。 伝道者の書11章……若いときにはどんな自由も利くように人は思いがちですが、その若いときの「あやまち」も、例外なく主のさばきの対象になります。特に主の民に属する若者は、自分はあのとき若かったなどという言い訳をしてはいけません。若かろうとも主の御前では責任を問われるもので、私たちは若い日より自分の罪を認め、悔い改めることを常とする必要があります。 テトスへの手紙3章……分派をつくることはなぜ除名されるべき罪なのでしょうか? それは、そのような者は分派をつくることによって、教会のコントロールから脱した、自分のしたい放題のカルトを形成することになるからです。このような者の聖書解釈を正しいとか、実のあるものとか考えて、従おうとしてはなりません。 <祈りの課題>日本と世界の教会がカルトから守られますように。インターネットサイト「異端・カルト110番」の働きのために。

113 4月23日 レビ27詩34伝10テト2

レビ記27章……このみことばは主の聖なるものに関して、きわめて客観的な基準を提示しています。このことには、人間的な主観によって主にささげられるものの善し悪しが決まることを避けるという、大きな目的が込められています。私たちも、主にささげる生活には人間的な主観を極力込めないようにし、主がお定めになった基準にしたがってささげていくように、自他ともに努める必要があります。十分の一の献金、主日の聖別は、その最たるものでしょう。 詩篇34篇……ダビデはこの詩を詠んだとき、とっさの機転で狂人になったふりをして敵の攻撃をかわしましたが、それは屈辱ともいうべき行動でした。しかし主は、ダビデが落ち込んだままにしてはおかれませんでした。主はダビデを引き上げ、敵の手から引きつづき守ってくださいました。私たちも敵のなぶりものでいつづけることはありません。主は救い出してくださいます。 伝道者の書10章……食事には2つの目的があります。ひとつは楽しむため、もうひとつは力をつけるため。しかし、臨戦態勢にある人生のただ中で、楽しむためだけに食事をしているようならば、その食事は身を滅ぼします。私たちにとって食事は、主の栄光を現す日々の戦いにおいて力をつけるためのものです。 テトスへの手紙2章……神さまが私たちを恵みもて救ってくださったということは、私たちが以前の悪い生活を改めることのないまま、そのまま生きつづけていいということではありません。「不敬虔とこの世の欲を捨て」「慎み深く、正しく、敬虔に生活」するように、主の恵みは私たちのことを招いています。 <祈りの課題>私たちクリスチャンが救いの恵みに感謝して、神と人の前に正しい生き方を目指していけるように。

112 4月22日 レビ26詩33伝9テト1

レビ記26章……主は、ご自身に従順に従う者には祝福をくださいますが、従わない者、罪を犯して悔い改めない者には、何度となく手を下されます、しかしその主のお取り扱いは、最終的に主の民を悔い改めに導きます。主は彼らが破滅の中で悔い改めるとき、ヤコブとの契約を思い起こしてくださる、すなわち、彼らを主の民として扱ってくださいます。 詩篇33篇……賛美の歌というものは、心がまっすぐな人にこそふさわしいものです。私たちの心に問われるような罪があるならば、その罪をそのままにして賛美を歌うことはよくありません。しかし私たちが、示された罪をことごとく悔い改めるならば、賛美を歌う者として回復されます。 伝道者の書9章……このみことばは、生きることが死ぬことにまさることを教えています。生きていても死んだようであってはなりません。生きているならば飲食を楽しみ、服飾を楽しみ、家庭生活を楽しむことです。それが、私たちのことをこの地上に生かされる、主のみこころです。 テトスへの手紙1章……神さまは知っていればいいのではありません。行いが神さまのみこころにかなっていることがだいじです。人が行いにおいてみこころにかなう者となるためには、汚れと不信仰から救われる必要があり、また、そのように祈る必要があります。 <祈りの課題>精神的、霊的な弱さを抱えているクリスチャンが、自殺と希死念慮から守られますように。

111 4月21日 レビ25詩32伝8Ⅱテモ4

レビ記25章……主はヨベルの年というものを定められました。年季が明けて完全な自由を得るその日があるからこそ、人は日々の労働に打ち込む理由があるとさえ言えます。私たちは今、50年の労働が明けた際の休息ということができない現実の中にいるかもしれません。しかし、ほんとうのヨベルは私たちが天の御国に入れられる時に実現することを覚えて、日々励んでまいりたいものです。 詩篇32篇……罪を犯したならば心に責めを負い、衰え果てます。しかし、私たちには逃げ込む先があります。主のみもとに罪を告白するならば、主は私たちの罪を赦してくださり、私たちのことを衰えから回復させてくださいます。 伝道者の書8章……ソロモンは、知恵を尽くして物事の道理を見極めようとしたとき、すべてが神のみわざであることを悟ったと語ります。その悟りに至るまでソロモンは大いに悩み、苦しみました。私たちはそのような苦しみの思索を経ないで、いとも簡単に、すべては神のみわざであるなどと言ってはいないでしょうか。私たちはその結論を持つ者ではありますが、同時に大いに悩み苦しむことも必要です。 テモテへの手紙第二4章……終わりの日は教会が人間中心になります。神さまのみことばを聴くよりも、自分の好みに合ったことを聴きたがり、みことばをストレートに語る教職者を排斥します。私たちもできれば、耳に痛いことを聴きたくないと思いますでしょうか。しかし万事が人間中心、罪人中心になる時代だからこそ、私たちは主のみことばをしっかり聴く必要があります。 <祈りの課題>聖徒たちが自分の肉の思いよりもみことばを大事にしていくことができますように。

110 4月20日 レビ24詩31伝7Ⅱテモ3

レビ記24章……シェロミテの息子は、主の御名を汚して罵ったゆえに、イスラエルの共同体から除かれることになりましたが、ほんらい、主の共同体の中において主の御名を汚す人が現れるなど、考えられないことです。しかし彼の場合、もともとがイスラエルではなく、エジプトの社会に生きていて、母親もイスラエル人ではあったもののその影響をいまだに引きずっていたことが推測されます。私たちは主の共同体の中に生きている以上、過去の性質、過去の生活習慣には別れを告げていなければ、主に喜ばれることはありません。 詩篇31篇……人がそしりにあうとき、その人は衰え果てます。まるで死人のようになってしまいます。しかし主は、このような者を御手にうちに包み、救い出してくださいます。敵の攻撃に傷ついた者が祈るなら、主は聞き届けてくださいます。 伝道者の書7章……26節。「神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」このように喝破したソロモン自身が、異国から偶像を持ち込んだ女たちによって身を滅ぼし、イスラエルに大きなダメージを与えるに至ったのでした。このことばは、ソロモン自身の失敗の人生から生まれた人生訓であると言えます。多くの妻とそばめを持ったソロモンは、うらやましい存在でも何でもありません。 テモテへの手紙第二3章……終わりの日の特徴は、人が自分のことしか愛さなくなるということに表れます。本来神さまは、お互いを愛するように人を創造され、生かしておられるのに、人はその自己中心の生き方によって、神さまのみこころを損ないます。私たちはそのような人々を、まず避けることが命じられています。 <祈りの課題>すべてのクリスチャンが異性の問題で失敗することから守られますように。

109 レビ23詩30伝6Ⅱテモ2

レビ記23章……主は、畑から収穫する際には、畑の隅から刈り入れてはならず、落穂も拾い集めてはならない、それらは貧しい人と寄留者のためのものであると規定されました。このことからわかることは、主は立場の弱い人を気にかけておられるということ、また、そのような人のことを強い立場の人、余裕のある人は気をかけるべきであるというみこころを示しておられることです。私たちは、自分さえよければいいのではありません。貧しい人、弱い立場にある在留外国人のような人のことを考え、少しでも助けになる行動を起こすことは、主のみこころにかなったことです。 詩篇30篇……私たちは御怒りからかくまっていただいている存在です。時に私たちは、罪を犯して主の御怒りが感じられてならないことがありますが、主はその御怒りを示される以上に、私たちをなおも生かしてくださり、新しい朝、新しい日を与えてくださることによって、私たちに愛を示してくださいます。 伝道者の書6章……5章で筆者は、飲食は主が与えてくださった楽しみであると述べましたが、ここでは一転して、飲食とはむなしいものであると語ります。なぜむなしいかというと、飲食は決して満たされないからです。このことは何を語るかというと、地上の営みはむなしいものであるということです。私たちの生きる目的は地上にあってはなりません。天の御国に人生の目標がなければ、私たちの人生はどこまでもむなしいものになります。 テモテへの手紙第二2章……神学上の議論というものは緻密(と自分で思っている)な理論を構築し、自分の立場の違う人を打ち負かすならば、爽快かもしれませんし、自分は神学的に正しい特別な人だなどと悦に入ることができるかもしれません。しかしそのような態度は教会を病ませるものでしかありません。私たちのすることは論争ではなく、教会において徳になることをすることです。 <祈りの課題>だれであれ神学論争に打ち込む人が、教会を異端・カルトから守る場合を除き、教会を立て上げる働きに献身していきますように。

108 4月18日 レビ22詩28-29伝5Ⅱテモ1

レビ記22章……全焼のささげ物としてささげられるべきものは、傷のない雄であり、欠陥のあるものは一切ささげることが許されませんでした。これは遠い将来、完全なるお方、イエスさまが十字架におかかりになって、ご自身をささげ尽くされたという形で完全に成就されました。イエスさまがささげ尽くされた以上、それ以上のささげ物は無用です。 詩篇28篇~29篇……悪者や不法を行う者は、口では平和のような立派なこと、もっともなことを語ります。しかし、考えと行いでは悪を行なっています。主はこのような者をおさばきになります。私たちはこのような者に主の御手が伸ばされることを祈る必要がありますし、何よりも、私たちがそのような悪から守られるように祈る必要があります。 伝道者の書5章……18節~20節。これまでの嘆きから一転して、筆者が良いと思うことについて述べています。それは、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることであると語ります。それはもちろん、神さまが与えてくださった富と財があるゆえに許されるものです。私たちが虚無のうちに落ち込んでしまわないのは、神さまがまさにこのリアルな恵みを日々くださっているからです。私たちは、その労働の対価としての飲食の恵みを享受できない人々のために祈る必要があります。 テモテへの手紙第二1章……テモテは、母と祖母の偽りなき信仰を受け継いでいることが、この箇所からわかります。私たちにとって信仰とは、自分自身のみならず、次世代のためのものでもあります。私たちは、次の世代もまた自分たちと同じように主の御前に純粋な信仰を持つことができるように祈っていますでしょうか? <祈りの課題>全国の教会の日曜学校や青年会といった、次世代のための働きが祝福されるように。

107 4月17日 レビ21詩26-27伝4Ⅰテモ6

レビ記21章……祭司のような献身者とその家族には、高い性倫理が要求されていたことがこのみことばからわかります。しかしそれは、献身者が主のみこころをあらわす存在であるからで、例えば預言者ホセアのようなケースは、このみことばと矛盾することではなく、このみことばが性倫理の基礎になっているゆえに、主の民に神のメッセージを語るうえで極めてインパクトのあることでした。 詩篇26篇~27篇……私たちは生きているならば、多くの危険なことを体験するものです。そのようなとき、逃げ込む先がある人は幸いです。主は、この世で時に苦しい目に遭う私たちをかくまってくださるお方です。私たちの願うべきことは、主の御前にとどまり、主ご自身に思いを巡らすことです。私たちに聖書のみことばが与えられているのは、主ご自身に思いを巡らすためでもあります。 伝道者の書4章……9節から12節は虚無感漂う伝道者の書の中で、ひときわ異彩を放つ肯定的な描写です。一人より二人、ということを語っていますが、これは単なる仕事上のパートナーという次元ではないことは、11節からわかります。9節から12節に書いてあることは、神さまが人間の世界に定められた「結婚」というものについてです。12節はさらに「三つ撚りの糸」とありますが、さらに1本の糸は、イエスさまを象徴していると言われます。単なる結婚生活ではなく、イエスさまを中心とした生活こそが強いものです。 テモテへの手紙第一6章……「議論やことばの争いをする病気」……相手を緻密な議論(と自分で思い込んでいるもの)でやりこめて、それで悦に入るような人というのは、いつ、どの時代の教会においてもいるものではないでしょうか。現代日本の教会にも確実にいます。しかし、そういう人は建徳的ではなく、むしろトラブルメーカー、本人が意識するにせよしないにせよ、教会の交わりと秩序に挑戦する人です。そういう人は自分のことを敬虔な信徒であると周囲に見せたがるかもしれませんが、結ぶ実がそうではないことを証明しています。ほんとうに敬虔な信徒は、主ご自身で満ち足りているゆえに、議論やことばで争いを仕掛けるような愚かなことはしません。 <祈りの課題>教会に多数存在する神学論争が、教会を分裂させる道具ではなく、徳を建てるためのものとして用いられるように。

106 4月16日 レビ20詩25伝3Ⅰテモ5

レビ記20章……きよい神さまにお従いする生き方をしないならば、それ相応のけがれた生き方をするしかなくなります。しかし神さまは、そのけがれた生き方という結ぶ実をご覧になり、その人も民もおさばきになります。そのさばきの器として主はイスラエルを用いられましたが、のちの日にはイスラエルもその罪を犯すようになり、主の御怒りに触れるようになりました。私たちは信仰告白すれば何もしなくてもいいのではありません。生涯かけて救いを完成させるために、避けるべき罪を避ける必要があります。 詩篇25篇……私たちは若い頃には分別がなくて、多くの罪を犯したものです。それらの罪がそのまま残され、主のさばきの対象でありつづけたならば、もはやその人は主のための働きをすることなどできません。しかし主はご自身の民を憐れんでくださり、その罪を赦し、もはや思い出すことをしないでくださいます。この大いなるあわれみのゆえに主に感謝しましょう。 伝道者の書3章……人にとって、生きている間の良いこととは、喜び楽しむことだけです(12)。ということで、人は喜び楽しむことを至上の目的として生きるわけですが、私たちクリスチャンが主にあって喜び楽しむことがこの世の快楽主義と異なるのは、それが刹那的なむなしいものではなく、そこで主と喜びを分かち合うことで、主との交わりの生まれるものだからです。喜ぶこと、楽しむことは求めてよろしいものですが、それは「主にあって」というのが必須の条件となります。 テモテへの手紙第一5章……初代教会は教会が拡大するにつれ、教職者を必要としていましたが、だからといって少しでも見込みのありそうな人ならだれでも教職者にしていいわけではありませんでした(22)。こうなると、従来相応の働きをしていた人の働きが守られる必要があるわけですが、その働きの妨げとなることには、「病気」というものも挙げられます。テモテも病気を抱えていたようで、パウロはその病気に適切に対処することを彼に勧めていますが(23)、それは彼の快楽のためではなく、彼の牧する羊の群れが守られるためです。教職者が病気から守られるように祈って助けるのは、信徒として必要なことです。 <祈りの課題>自分の属する教会の牧師が、特に健康面で守られるように。

105 4月15日 レビ19詩23-24伝2Ⅰテモ4

レビ記19章……この章は実生活における多くの戒めから成っています。その多くは一般的な倫理と共通するものですが、そうではないものもまた多くあります。聖書は単なる倫理の書物ではありません。神さまとの関係でいかに生きるかを示している書物であり、それはときに一般的な倫理と相いれないものですが、私たちはこの掟のみことばをお読みするとき、その掟を守り行うことで聖くあることを御民に求めておられる主のみこころを受け止める必要があります。 詩篇23篇~24篇……24章には王なる主の入城の描写が出てまいります。私たちの心は何かに支配される存在であり、それはいわば王を王座にお迎えするようなものですが、私たちは自分の心の王座に主を喜んでお迎えしていますでしょうか。 伝道者の書2章……飲み食いや楽しむことを含むすべての営みはむなしいものです。25節をお読みすると、「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか」とありますが、そのむなしさの中で絶望してしまわないために、人は「主にあって」あらゆることをすることを学ぶ必要があります。 テモテへの手紙第一4章……食物というものが創造されたのは、それを食し、味わうことによって、人が神さまに感謝するためです。実に、神さまから離れた飲み食いはむなしいものであり、食前に感謝のお祈りをおささげすることはそういう意味で意義深いことです。その食物を断つことはお祈りに集中するために自発的に行うならともかく、人から強要されて行うべきことではありません。 <祈りの課題>私たちクリスチャンが、あらゆることに主のご栄光を現すことを学びますように。

104 4月14日 レビ18詩22伝1Ⅰテモ3

レビ記18章……主はイスラエルの民に、これまでいた場所(エジプト)と、これから行く場所(カナン)の風習をまねてはならないと警告されましたが、その警告のあとに続くみことばをお読みすると、その風習の多くが性的な汚れをともなうものであることがわかります。こういうことはいち文化として認めるべきものではありません。私たちはそのようなところから救われてきよさにあずかっている以上、私たちのすることは聖潔に進むことであって、このようなけがれはなんとしても避ける必要があります。 詩篇22篇……クリスチャンはときに、自分が神の民であり、神の民に主が応えてくださるという「事実」を知っていても、なお主の御手が遠いと感じられて、悲しくも絶望的になることがあります。しかし、この詩篇は多くがイエスさまの十字架によって成就したように、そのように絶望に陥るとき私たちは、イエスさまの十字架の苦しみに少しでもあずかる栄誉に浴しています。しかし、イエスさまは復活し、勝利してくださいました。私たちもイエスさまの十字架だけではなく、復活にあずかっているゆえに、このような逆境に勝利させていただいています。 伝道者の書1章……私たちは21世紀を生きており、日々技術革新を体験していると思っています。しかしみことばは、「日の下には新しいものは一つもない」と喝破します。すべての源であられる神さまに立ち帰ることがないならば、すべては「風を追うようなもの」にしかなりません。 テモテへの手紙第一3章……自分の家庭を治める人が神の教会をお世話できる、と語られています。独身の教職者(候補)が結婚を祈り求めることが奨励されるゆえんです。こんにちにおいては結婚によって新しい家庭を築くことは簡単なことではありませんが、困難なことは教会形成も同じことで、私たちは「家庭は教会、教会は家庭」という原則をしっかりわがものとして、教職者も信徒も、家庭と教会の形成に励んでまいりたいものです。 <祈りの課題>独身の働き人が良い結婚に導かれますすように。教職者も信徒も、自分の群れの中の独身の信徒が結婚できるように関心を持ち、祈っていくことができますように。

103 4月13日 レビ17詩20-21箴31Ⅰテモ2

レビ記17章……家畜を屠っても主にささげることがないならば、その者は民から断ち切られるとみことばは語ります。主にささげるのではないならば、その者は何のために屠ったのか、ということになるでしょう。名誉欲を満足させる単なるパフォーマンスのつもりでしょうか。屠った肉が惜しくなったのでしょうか。私たちも、献金として主の御前にささげることに関しては潔くありたいものです。使徒の働き5章のアナニアとサッピラのことを思い起こしましょう。 詩篇20篇~21篇……ダビデにとってのほんとうの力は、兵力にはありませんでした。主の御名を呼び求めることができたこと、その呼び求めに対して主が応えてくださったこと、これにつきます。私たちは目に見えるもの(お金、持ち物、人間関係、時間……)がないことそのものでやきもきしたりしてはいないでしょうか。主の御名を呼び求めることができる特権を喜んで用いてまいりたいものです。 箴言31章……女性にとって、美しいということ以上に備えるべき徳目は、「主を恐れる」ということです。外面を飾っても主を恐れることがなければ、人はほめるかもしれませんが、神さまにほめられる生き方はしていません。Ⅰペテロ3:1~4をお読みください。主を恐れる女性は、主を恐れる男性の愛を受けることになります。 テモテへの手紙第一2章……このみことばは、男性が怒ったり言い争ったりする傾向を有していることを暗示しており、そのような行動は主のみこころを損なうことを教えています。男性のすることは祈りの手を上げることです。男性は、祈ってこそその本来の価値を発揮するとさえ言えます。祈ることによってはじめて、男性はふさわしいリーダーシップを行使できます。 <祈りの課題>私たちの献金の生活を主が祝福してくださるように。ささげ物がつねに備えられるように。

102 4月12日 レビ16詩19箴30Ⅰテモ1

レビ記16章……宥めについての教えです。神さまはすべての者に怒りを注がれ、さばきを行われるお方ですが、神さまの民だけはその怒りのさばきから免れさせていただきました。しかし、何もしなくていいわけではなく、なおも罪ゆえに注がれる神さまの怒りに対して宥めを行うようにと、神さまご自身がその規定を示してくださいました。私たちもまた、イエスさまの十字架という宥めのささげものゆえに、神さまの怒りを免れ、御前に進み出ることが許されています。 詩篇19篇……13節のみことばからわかることは、傲慢であることは神さまに大いに背くことです。自分は神さまに背いてない、敬虔な信徒であると思っていようとも、もしその人が傲慢であるならば、それは神さまに背いていることです。ゆえに、私たちは謙遜になることをつねに身に着け、平安のうちに神さまとの交わりを保ってまいりたいものです。 箴言30章……人は富みすぎても貧しすぎてもいけません。人は富みすぎると主を忘れ、貧しすぎると口に糊するために盗みを行い、主の御名がけがされます。私たちにとって大事なのは、主に対し、主の栄光を現すのに必要十分の富を求め、その中で満足することです。生活の第一の目的は、主の栄光を現すことであって、富むことそのものにあるのではありません。 <祈りの課題>私たちがみな、謙遜という徳目を身に着け、主にある謙遜さが現れた言動をつねにしていくように。

101 4月11日 レビ15詩18箴29Ⅱテサ3

レビ記15章……下半身にまつわるけがれに関して、律法は1章分の分量を割いて詳細に規定をしています。それは31節にあるとおり、神さまがきよいお方で、それだけ、その民もきよくあるべきだからです。私たちが身をきよく保つことは、きよい神の栄光をあらわす者として必須のことです。 詩篇18篇……神さまは、ご自身の愛する子どもである私たちを救い出してくださいます。その救いのみわざを行われるにあたって、私たちを苦しめる存在、傷つける存在に対し、天地を揺るがすような凄まじい怒りをもって臨まれます。私たちも神さまに愛されていなかったならば、この御怒りを受けるべき存在でした。神さまの恵みに感謝しましょう。 箴言29章……人の感情はときに、制しがたくなるときがあります。しかしそれでも、主に結びついて知恵を得ている人ならば、その激しい感情を制し、ことばで罪を犯すことはありません。激しいことば、汚い言葉を吐くようなことは、いかにその人が学歴があり、主のしもべとしての「実績」があったとしても、その言動は主に結びついていない愚かな証拠となります。感情とことばを制していただく謙遜さを、たえず身に着けさせていただきましょう。 テサロニケ人への手紙第二3章……たまに教会の中には、仕事もしないで人に関わろうとするおせっかいな怠け者がいるものです。そのような怠惰でおせっかいな人の話を無条件に聞いてあげることは、愛ではなくて甘やかしです。その人を兄弟姉妹としてほんとうに愛そうと思うならば、その人が恥じ入る、すなわち、自分の言動は間違っていることを真剣に認めることができるように、嫌われる覚悟で接する必要があります。そのような厳しいかたちで愛を実践することは勇気が必要ですが、教会に聖さを保つために立ち上がってまいりたいものです。 <祈りの課題>無職で通している兄弟姉妹が、社会に伍するうえでの職を得られるように。

100 4月10日 レビ14詩17箴28Ⅱテサ2

レビ記14章……ツァラアトからのきよめにはある程度複雑な手続きを経る必要がありますが、その手続きには祭司がかかわります。祭司は、共同体にきよめが回復されるために主にお仕えすることも、その働きに含まれます。イエスさまがおきよめになった人に対し、きよめられた証明を祭司にしてもらうように促されたのは、共同体の中にけがれゆえに孤独だった人が迎えられるという主のみこころが達成されるためです。 詩篇17篇……主は、虐げられた者の真剣な祈りを聞いてくださるお方です。しかし同時に、主はそのように祈る者の動機や語ることばを問われます。私たちは主と人の御前に潔白であってこそ、虐げられた身の上を申し述べる資格があります。 箴言28章……9節。みことばに教えられようともしないのに、祈ることだけはする、すなわち、神頼みはしようとする人がいますが、その祈りは主のみことばの裏づけを決定的に欠いた、自己中心の願いでしかありません。私たちの祈りは、主のみことばに根差した、神の国とその義を第一に求めたものとなっているか、しっかり問う必要があります。 テサロニケ人への手紙第二2章……主の日が到来する終わりの日の第一の特徴は、背教が起こることです。私たちの生きる世界はもともと堕落していますが、キリスト教会の中にも大々的に背教が起こるようになります。それはいつでも起こりえることで、私たちは目を覚ましていなければなりません。そして私たちは、そのような背教から守ってくださるほどに主が私たちを愛し、救ってくださるという確信に立って歩む必要があります。主の愛に心から感謝しましょう。 <祈りの課題>自分の属している教会・教団が、背教から守られますように。

099 4月9日 レビ13詩15-16箴27Ⅱテサ1

レビ記13章……ツァラアトに関する規定です。この箇所を読むと、共同体にツァラアトが拡大しないために主がどれほど細やかに知恵を授けてくださったかがわかります。しかし、このツァラアトにとりつかれて「けがれる」ということは、共同体を伝染から守ることが第一の目的ゆえにそう制定したわけであり、決して罹患した人を(とくに宗教的に)差別するためではありません。それでも人は後代になって、この罹患を宗教的汚れにすり替えました。イエスさまはそこから、ツァラアトをもろともいやしてくださることによって救い出してくださいました。 詩篇15篇~16篇……割り当ての地が主から与えられたことに喜ぶ告白(16:6)は、こんにちも有効です。旧約のイスラエルの民のレビ族は、主ご自身がその相続地でした。私たちはこの世の不動産を持たなくても、主ご自身を受け継ぐ信仰を与えられています。これこそ喜ぶべきこと、感謝すべきことです。 箴言27章……22節。人の愚かさというものは、そう簡単に人から抜けることはありません。愚かな人がいるとして、その愚かさゆえに周囲の人がやきもきして、なんとかその愚かさから離れるように手を貸しても、本人がおのれの愚かさを自覚してそこから離れるべく主に知恵を求めないかぎり、どうしようもありません。私たちは、まず自分自身が、それから、共同体全体が賢くなるように、自分と共同体に知恵を求めて祈る必要があります。 テサロニケ人への手紙第二1章……教会がどのように成長することが感謝すべきことでしょうか。信徒たちの信仰が成長し、また、信徒たち互いの間の愛が増し加わることです。教会とは、個人が問題解決のために神さまの前に進み出る場所以上に、信仰を高め合い、愛し合う共同体、キリストのからだであることを、信徒たちは自覚する必要があります。 <祈りの課題>私たちクリスチャンが、教会のほかの兄弟姉妹に関心を持って愛する、その愛が増し加わりますように。

098 4月8日 レビ11-12詩13-14箴26Ⅰテサ5

レビ記11章~12章……ここでは特に、動物に対する取扱いや出産に関する規定が述べられていて、どのような場合にけがれていると見なされるか、その汚れからきよくされるにはどうすればいいかが書かれています。これは、荒野生活においては特に気をつけなければならない衛生に関する規定ですが、この規定を守り行うことは共同体を病気から守ること以上に、主が聖であるので人も聖でなければならないという原則に基づくことです(11:44~45)。 詩篇13篇~14篇……このみことばは、すべての者が神さまから離れていったと語ります。また、そのように神から離れた者、すなわち、「神はいない」という者は、愚か者であるとも言い、そのような者が苦しむ者を虐げるとも語ります。まことに、創造主なる神さまを認めないことは愚かなことであり、また、人に悪を行う原因でもあります。そのような愚かで悪い者が神さまを知り、神さまを信じることができたのは、神さまの恵みです。 箴言26章……この章は愚か者のことをこき下ろしていますが、それ以上に、自分のことを知恵があると思うような怠け者が、愚か者よりもさらに望みがないと語ります。人は、自分には充分な知恵があり、これ以上何も学ばなくてよいと思ったならばおしまいです。へりくだって、知恵を得るためによく学ぶ者となりたいものです。 テサロニケ人への手紙第一5章……終わりの日は、人々が安逸の中にいるときに突然やってきます。しかし、私たちはその破滅を免れています。なぜならば、光のうちにいるからです。ただし私たちは、光のうちにいるらしい生き方をしている必要があります。つねに目を覚まし、信仰を持ち、愛を実践し、救いを待ち望む態度で日々過ごしてまいりたいものです。 <祈りの課題>私たちを救ってくださる神さまに今日も感謝をささげましょう。

097 4月7日 レビ10詩11-12箴25Ⅰテサ4

レビ記10章……異なった火をささげたナダブとアビフに対して主のさばきが降った後、罪のきよめのささげものを食べるべきという規定に反していけにえを焼きつくしたアロンには、その行動をするだけの根拠がありました。それは、死んだ子どもたちを愛する愛、そして子どもたちをふさわしく育てられなかったことに対する悔い改めでした。そしてアロンには、そのように悔い改める者を主が愛してくださるという確信がありました。いけにえを食するということは確かに罪のきよめをいただく道でしたが、それを遵守しなくても主はおさばきにならないと信じ、主の愛を確信して、すべてをささげるいけにえをささげたのでした。みことばを守り行うということは、一字一句たがえずということではなく、主のみこころにあらわされた愛を理解したうえで守り行うことです。 詩篇11篇~12篇……主は人を平等に創造されましたが、人間の世界は、苦しみを与える者と苦しみを受ける者に分かれています。人の上に立つ者はそのような苦しみを人に与えてはばかるところを知りません。しかし、そのような苦しみの中に人が置かれつづけるとき、人を創造された主ご自身が立ち上がってくださり、そのくびきと縄目から解放してくださいます。 箴言25章……蜜に例えられる知恵は、むさぼるように取り入れればいいというものではありません。学習という知的作業は、慣れない人にとってはとても疲れることであり、取り入れすぎてその反動で知恵を取り入れること、言い換えれば「勉強すること」を嫌がるようになったならば、知恵をむさぼるように取り入れたことは、結局のところ、何の知恵も得られない、愚かなことでしかありません。 テサロニケ人への手紙第一4章……このみことばは、いわゆる「携挙」の根拠となる箇所ですが、終末を待望する態度はよいとしても、それは現実逃避の口実として用いられてはなりません。「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉と」する、すなわち、普段とまったく変わらない勤勉を実践することこそ、みこころにかなった終末待望の態度です。 <祈りの課題>兄弟姉妹が、自分にできるだけの範囲でいいので、聖書や聖書にまつわる学びに力を用いていきますように。

096 4月6日 レビ9詩10箴24Ⅰテサ3

レビ記9章……アロンが自分とその家族、イスラエルのために罪のきよめのささげものをささげるとき、主の栄光が現れました。私たちもまた、イエスさまの十字架という罪のきよめのささげものをもって主の御前に近づくとき、主の栄光が現れます。私たちは自分のため、家族のため、自分の教会のため、イエスさまの御名によってとりなしの祈りをささげけまいりたいものです。 詩篇10篇……悲惨な境遇にある人を虐げる者は、神をも恐れぬ人です。そもそもその者は、神を認めません。しかし確かなことは、神さまはおられ、悲惨な境遇に置かれた人を神さまは救ってくださるということ、そのように苦しめる者に対して神さまが確実にさばきを行われるということです。 箴言24章……悪しき者に苦しみを与えられるのは神さまです。その苦しみを見ることで溜飲を下げるようでは、私たちはまだまだ、神さまのご栄光よりも自分の肉の思いが先になっていることになります。そのような人に神さまがそれ以上御業を行なっても、その人は感謝することがなく、結局、その人に向けられた神さまのみこころは無駄にされたことになります。私たちはそのようであってはなりません。 テサロニケ人への手紙第一3章……主の働き人は涙とともに種を蒔くがごとき厳しい働きを強いられます。しかし神さまは、そんな働き人に、教会の成熟という働きの実を約束してくださいます。それがあるゆえに、働き人は疲れ切ることなく働きを続けていくことができます。 <祈りの課題>オーバーワークになっている主の働き人が、働きの実を見ることでいやされ、なお用いられますように。

095 4月5日 レビ8詩9箴23Ⅰテサ2

レビ記8章……私たちクリスチャンは、主の前に出ていって民のためにとりなしをする(王である)祭司の役割を果たしますが、その役割を果たす大前提として、アロンたちが自分自身のために宥めを行う必要があったように、自分自身が罪からきよめられている必要があります。私たちは人のことを祈る以前に、イエスさまを通した主との交わりを大切にしたいものです。 詩篇9章……この世に存在するあらゆる栄華、権力は、永らえることはありません。主は、この世の春を謳歌するようなあらゆる存在を戒められ、ただひとり永遠に存在される主権者として、そのご栄光を世々かぎりなく豊かに現してくださいます。私たちはこのお方を礼拝し、お従いするのです。 箴言23章……ある人は、福音派の信徒たちがお酒を飲まないことをさばいたり、馬鹿にしたりするようですが、信徒たちはちゃんと聖書的な根拠をもってその選択をしています。29節以下は、その選択の最たる根拠として挙げられるでしょう。人は、自分が思っているほど、酒のような常習的な刺激に強くできているわけではありません。そういうものを避けるべき最大の理由は、それによって神さまとの交わりが断たれるということです。 テサロニケ人への手紙第一2章……パウロはテサロニケ教会の信徒たちに、あなたたちの同胞に苦しめられているのは、ユダヤ人の教会が同胞に迫害されているのと同じだ、と語って慰めます。私たち日本のクリスチャンは日本においてマイノリティで、それゆえに同胞である日本人から苦しめられることがありますが、それは初代教会にならう栄光の歩みであることを覚えてまいりましょう。 <祈りの課題>飲酒のようなアディクションをやめられないで苦しむ信仰の兄姉がいやされますように。

094 4月4日 レビ7詩7-8箴22Ⅰテサ1

レビ記7章……代償のささげ物についての規定は、罪のきよめのささげ物についての規定とひとつでした。それは、この両者が深い関係を持っているからです。罪がきよめられるには、いのちが犠牲になるという代償が必要でした。このささげ物は、のちの日のイエスさまの十字架の予表でした。 詩篇7篇・8篇……ダビデは、敵の手から自分が救い出されることを願う一方で、自分に不正があれば敵の手に陥らせていただきたい、私をさばいてください、と祈っています。ダビデは、自己中心の思いで敵からの救いを祈っているわけではありません。主の正義が成るようにそう祈るのであり、その正義がなされる対象に、自分も含めるのはフェアな態度です。 箴言22章……このみことばは怠け者のことを、獅子が外にいて殺されるから出ていかない人に例えています。聖書のことばは、吠えたける獅子がうごめくがごとく、サタンがうごめく世界において私たちに勝利を与える力となりますが、神さまよりも人やサタンを恐れ、行動しようとしないならば、それは主との交わりを怠けている、すなわち、みことばに深く聴いて守り行うことを怠けていることになります。 テサロニケ人への手紙第一1章……模範的な信仰の態度は、偶像から離れ、生けるまことの神に仕えることへと実を結びます。信仰とは観念的なものではなく、実践的なものです。そしてその実践的な信仰の態度は、御子の再臨を待ち望む態度に現れます。また、御子の再臨を待ち望むゆえに、いつでも恥ずかしくなく主の御前に立てるように、愛という形で信仰を実践するのです。 <祈りの課題>私たちにとっての再臨待望の生活が、刹那的、現実逃避的なものになるのではなく、地に足のついた、具体的に隣人に愛を行う、実践的なものとなりますように。

093 4月3日 レビ6詩5-6箴21コロ4

レビ記6章……同胞のものを脅し取ったり、盗んだりすることは、神の民という信仰共同体における個人所有の自由を脅かすことであり、それ以上に、律法に違反するゆえに神に罪を犯すことです。しかし、主はその罪を悟らせてくださり、悔い改めに導いてくださいます。主は悔い改める者を必ず赦してくださり、こうして、神の民の共同体は回復されます。 詩篇5篇~6篇……人に不法を行う者、人をことばで傷つける者がなぜさばかれるべきかというと、その者は神に対して罪を犯しているからです。ですから、私怨晴らしの次元で、人に対するさばきが行われるようにと祈るべきではありません。神の正義が成らないことにこそ私たちは怒りを覚えるべきであり、自分のことを傷つける者がさばかれることを祈ることは果たしてみこころにかなっているか、私たちは立ち止まって考える必要がありましょう。 箴言21章……悪しき者のいけにえは忌み嫌われる。悪い人間はしばしば、その悪い言動の免罪符のように、宗教的であろうとします。カルト集団のリーダーなどその最たるものでしょう。そのものは宗教的だとか、敬虔だとか、神がかっているとか、尊敬を集めます。しかし人の目はごまかせても、主の御目にはその者の宗教行為など忌み嫌うべきものです。 コロサイ人への手紙4章……初代教会においては手紙が回覧されていて、ともに使徒の同じ教えを受け、ともに神の民としてキリストの養いをいただき、また、逸脱から守られていました。現代においても同じことで、教団・教派を超えて私たちに聖書があることは大きな恵みです。私たちに意見の相違があるとき、聖書だけを間に置いて話し合ってみることです。そうすれば、私たちの議論は一致に導かれます。 <祈りの課題>世界中の主のからだなる教会が一致し、純粋さが守られますように。

092 4月2日 レビ5詩3-4箴20コロ3

レビ記5章……悪事を見聞きしたことを証言しなければならない、というのは、心の中の良心の声です。それは私たちにとっては、さばき主なる神さまの御声としての聖霊さまの御声です。この御声を無視して、穏便に済ませようとすることが、しばしば私たちの人生に起こってきます。しかし、人間的に穏便に済ませることは、人から愛されようとも、正義の主なる神さまのみこころを損なうことです。しかし神さまは、その罪も悔い改めに導いてくださり、赦してくださいます。 詩篇3篇~4篇……ダビデは、全イスラエルがアブサロムにつき、きわめて劣勢だったという現実の中にありました。しかしダビデには、万軍の主がともにおられるという揺るぎない信仰がありました。主がともにおられるということは、どんなに現実的に自分が不利な立場に置かれていようとも、何にも勝る平安と確信を人に与えてくれます。 箴言20章……主は正義のお方ですが、主につく私たちは、正義の味方を気取って勧善懲悪のような行動を取るべきではありません。イエスさまもそのような、ローマの圧政から救い出す「メシア」ではありませんでした。それゆえに十字架にかけることが正当化されましたが、イエスさまは、ご自身を十字架にかけた者たちに復讐されることはありませんでした。 コロサイ人への手紙3章……すべての言動は御父と御子の御前で行うことです。したがって、御父と御子の御前でふさわしくないことは行えないでしかるべきです。どんなことばも、行いもです。もし私たちが、御父と御子にはとても見せられない言動をまだどこかでしているならば、早くそこから救われる必要があります。 <祈りの課題>だれかに対して怒り、赦せない思いを抱えている人が、その思いから解放され、自由になりますように。