107 4月17日 レビ21詩26-27伝4Ⅰテモ6
レビ記21章……祭司のような献身者とその家族には、高い性倫理が要求されていたことがこのみことばからわかります。しかしそれは、献身者が主のみこころをあらわす存在であるからで、例えば預言者ホセアのようなケースは、このみことばと矛盾することではなく、このみことばが性倫理の基礎になっているゆえに、主の民に神のメッセージを語るうえで極めてインパクトのあることでした。
詩篇26篇~27篇……私たちは生きているならば、多くの危険なことを体験するものです。そのようなとき、逃げ込む先がある人は幸いです。主は、この世で時に苦しい目に遭う私たちをかくまってくださるお方です。私たちの願うべきことは、主の御前にとどまり、主ご自身に思いを巡らすことです。私たちに聖書のみことばが与えられているのは、主ご自身に思いを巡らすためでもあります。
伝道者の書4章……9節から12節は虚無感漂う伝道者の書の中で、ひときわ異彩を放つ肯定的な描写です。一人より二人、ということを語っていますが、これは単なる仕事上のパートナーという次元ではないことは、11節からわかります。9節から12節に書いてあることは、神さまが人間の世界に定められた「結婚」というものについてです。12節はさらに「三つ撚りの糸」とありますが、さらに1本の糸は、イエスさまを象徴していると言われます。単なる結婚生活ではなく、イエスさまを中心とした生活こそが強いものです。
テモテへの手紙第一6章……「議論やことばの争いをする病気」……相手を緻密な議論(と自分で思い込んでいるもの)でやりこめて、それで悦に入るような人というのは、いつ、どの時代の教会においてもいるものではないでしょうか。現代日本の教会にも確実にいます。しかし、そういう人は建徳的ではなく、むしろトラブルメーカー、本人が意識するにせよしないにせよ、教会の交わりと秩序に挑戦する人です。そういう人は自分のことを敬虔な信徒であると周囲に見せたがるかもしれませんが、結ぶ実がそうではないことを証明しています。ほんとうに敬虔な信徒は、主ご自身で満ち足りているゆえに、議論やことばで争いを仕掛けるような愚かなことはしません。
<祈りの課題>教会に多数存在する神学論争が、教会を分裂させる道具ではなく、徳を建てるためのものとして用いられるように。
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