097 4月7日 レビ10詩11-12箴25Ⅰテサ4
レビ記10章……異なった火をささげたナダブとアビフに対して主のさばきが降った後、罪のきよめのささげものを食べるべきという規定に反していけにえを焼きつくしたアロンには、その行動をするだけの根拠がありました。それは、死んだ子どもたちを愛する愛、そして子どもたちをふさわしく育てられなかったことに対する悔い改めでした。そしてアロンには、そのように悔い改める者を主が愛してくださるという確信がありました。いけにえを食するということは確かに罪のきよめをいただく道でしたが、それを遵守しなくても主はおさばきにならないと信じ、主の愛を確信して、すべてをささげるいけにえをささげたのでした。みことばを守り行うということは、一字一句たがえずということではなく、主のみこころにあらわされた愛を理解したうえで守り行うことです。
詩篇11篇~12篇……主は人を平等に創造されましたが、人間の世界は、苦しみを与える者と苦しみを受ける者に分かれています。人の上に立つ者はそのような苦しみを人に与えてはばかるところを知りません。しかし、そのような苦しみの中に人が置かれつづけるとき、人を創造された主ご自身が立ち上がってくださり、そのくびきと縄目から解放してくださいます。
箴言25章……蜜に例えられる知恵は、むさぼるように取り入れればいいというものではありません。学習という知的作業は、慣れない人にとってはとても疲れることであり、取り入れすぎてその反動で知恵を取り入れること、言い換えれば「勉強すること」を嫌がるようになったならば、知恵をむさぼるように取り入れたことは、結局のところ、何の知恵も得られない、愚かなことでしかありません。
テサロニケ人への手紙第一4章……このみことばは、いわゆる「携挙」の根拠となる箇所ですが、終末を待望する態度はよいとしても、それは現実逃避の口実として用いられてはなりません。「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉と」する、すなわち、普段とまったく変わらない勤勉を実践することこそ、みこころにかなった終末待望の態度です。
<祈りの課題>兄弟姉妹が、自分にできるだけの範囲でいいので、聖書や聖書にまつわる学びに力を用いていきますように。
コメント
コメントを投稿