118 4月28日 民5詩39雅3ヘブ3
民数記5章……ねたみについてのおしえ。主は、特殊な調合によってつくられる「のろいをもたらす水」を、不倫した疑惑のある女性に飲ませるということをお許しになりますが、この「儀式」は、不倫の疑惑があれ、潔白であれ、女性が共同体の中で主の御前に引き出されることであり、共同体の中に働かれる主のお取り扱いを受けることになります。こんにちにおいてはもちろん、主の共同体においてこのようなことは行いませんが、私たちが罪を犯しているにせよ犯していないにせよ、主の共同体の中でたえず私たち自身が問われているということに変わりはありません。
詩篇39篇……悪しき者は神さまを認めないゆえに愚か者でもありますが、その者の責めることば、あざけることばを受けても、私たちは何か言い返すことで、自分たちも彼らと同じレベルの愚か者となってはいけません。それゆえに主は私たちに、悪しき愚か者の前で沈黙することを求められますが、それはとてもつらいことです。私たちは口を開くことなしには、私たちを生かし、どんな人のことも生かしてくださる主を証しすることはできないからです。しかし主はやはり私たちがつらくても、沈黙することをお求めになります。それでも主は、ことばにならない私たちの心の叫びを聞いてくださり、その叫びにふさわしく応えてくださいます。
雅歌3章……恋い慕う人を捜し求め、ついにはしっかり捕まえて奥の間に連れていく乙女の姿は、イエスさまを捜し求め、奥まった部屋(マタイ6:6)でのイエスさまとの交わりを願う、私たちにとってのモデルです。私たちはこれほどまでにイエスさまを求め、慕っているでしょうか。
ヘブル人への手紙3章……モーセに率いられた荒野の民のかたくなさは、律法書(特に出エジプト記、民数記)を読めばわかります。しかし、彼らがかたくなだったのは、人間だからしかたないことだったのではありません。むしろ彼らの姿は、私たち救いを全うすべき者たちにとって反面教師です。私たちは彼らの姿を見てわがふりを直し、かたくなさから解放されるように祈る必要があります。
<祈りの課題>この世のだれよりもイエスさまを慕い求める信仰が、私たちを含めたすべてのクリスチャンの間に育ちますように。
コメント
コメントを投稿