106 4月16日 レビ20詩25伝3Ⅰテモ5
レビ記20章……きよい神さまにお従いする生き方をしないならば、それ相応のけがれた生き方をするしかなくなります。しかし神さまは、そのけがれた生き方という結ぶ実をご覧になり、その人も民もおさばきになります。そのさばきの器として主はイスラエルを用いられましたが、のちの日にはイスラエルもその罪を犯すようになり、主の御怒りに触れるようになりました。私たちは信仰告白すれば何もしなくてもいいのではありません。生涯かけて救いを完成させるために、避けるべき罪を避ける必要があります。
詩篇25篇……私たちは若い頃には分別がなくて、多くの罪を犯したものです。それらの罪がそのまま残され、主のさばきの対象でありつづけたならば、もはやその人は主のための働きをすることなどできません。しかし主はご自身の民を憐れんでくださり、その罪を赦し、もはや思い出すことをしないでくださいます。この大いなるあわれみのゆえに主に感謝しましょう。
伝道者の書3章……人にとって、生きている間の良いこととは、喜び楽しむことだけです(12)。ということで、人は喜び楽しむことを至上の目的として生きるわけですが、私たちクリスチャンが主にあって喜び楽しむことがこの世の快楽主義と異なるのは、それが刹那的なむなしいものではなく、そこで主と喜びを分かち合うことで、主との交わりの生まれるものだからです。喜ぶこと、楽しむことは求めてよろしいものですが、それは「主にあって」というのが必須の条件となります。
テモテへの手紙第一5章……初代教会は教会が拡大するにつれ、教職者を必要としていましたが、だからといって少しでも見込みのありそうな人ならだれでも教職者にしていいわけではありませんでした(22)。こうなると、従来相応の働きをしていた人の働きが守られる必要があるわけですが、その働きの妨げとなることには、「病気」というものも挙げられます。テモテも病気を抱えていたようで、パウロはその病気に適切に対処することを彼に勧めていますが(23)、それは彼の快楽のためではなく、彼の牧する羊の群れが守られるためです。教職者が病気から守られるように祈って助けるのは、信徒として必要なことです。
<祈りの課題>自分の属する教会の牧師が、特に健康面で守られるように。
コメント
コメントを投稿