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060 3月1日 出12:29-51ルカ15ヨブ30Ⅰコリ16

出エジプト記12章29節~51節……主は出エジプトを果たしたイスラエルのために寝ずの番をされたとあります。主はご自身の民に危害が加わらないように、夜の闇の中、長い時間をかけて、民を守ってくださいました。イスラエルが過越の祭りにおいて主のために寝ずの番をするのが常となったように、私たちもまた、24時間のみ守りの中支えられているものであることを覚えたいと思います。 ルカの福音書15章……イエスさまは不満を持つ宗教指導者たちに対し、3つのお話をされました。いずれもいちばん語っておられることは、神さまのみこころです。失われていた者が戻るということはどれほど神さまにとってうれしいことか! 私たちが自分や教会の成長、伝道ということを考えるにあたって、真っ先に念頭に置くべきは、失われた者を捜しておられる神さまのみこころです。 ヨブ記30章……目下の者たちから嘲りを受ける身となったこと、御父がお見捨てになったこと……ヨブのこの姿は、イエスさまの十字架を望見しているかのようです。しかし、ちがうところがあると知れば、ヨブは罪人であること、被造物であることを心から自覚する必要のある存在であったということです。ヨブが「今、私のたましいは自分に注がれている」と告白するとおり、自分の悲惨さ、それに対する神さまの非情さばかりを述べていますが、神さまのいつくしみ、あわれみ、愛に目を留めてその素晴らしさを告白するには、なおもうしばらくのお取り扱いを必要としていました。 コリント人への第一の手紙16章……この箇所を読むと、パウロがコリント教会に対し、格別な配慮をしていることが読み取れます。ここでパウロは、傲慢な聖徒のもとに鞭を持って行きましょうか、という激しいことばを用いず、コリントの聖徒たちを心から愛する思いで訪問しましょうと言っています。私たちは時に兄弟姉妹を愛するゆえに厳しいことばをかけますが、最後は受け入れる愛、仕える愛に至ってしかるべきです。 <祈りの課題>インターネットで宣教をする働き人たちのために。

059 2月28日 出11-12:28ルカ14ヨブ29Ⅰコリ15

出エジプト記11章~12章28節……エジプトに下されたわざわいをイスラエルが免れるように主が教えられた道は、血を家々の門の鴨居に塗ることでした。血をご覧になる主はそれゆえに、長子を打つさばきを過ぎ越させてくださる。これは、イエスさまがご自身の民のために十字架にかかってくださり、さばきを免れさせてくださったということの予表でした。 ルカの福音書14章……イエスさまにお従いしたいと願う人は多くいます。しかし、そのための条件である、全財産を差し出しなさいというみこころに従順に従えるかどうか、そのことをきちんと問うて、お従いしているでしょうか。あたかも、塔を建てたり、わずかな兵士で大軍を迎え撃ったりするうえで、緻密な計画を立てるようにです。ただ、人間的な発想で計画を立てるならば、だれもイエスさまの御跡をお従いすることはできません。お従いすることはどこまでも、主の恵みの領域です。そのお従いする恵みがあるとき、人はイエスさまにお従いする力が与えられます。 ヨブ記29章……ヨブは、友たちが語ることとは異なり、自分がどれほど人々によくしてやったかということを語ります。これは行いを誇り、行いを根拠に自分に救いを担保しようという態度なのですが、ヨブがこれだけのいつくしみを人々に施したということは事実であり、それを否定することはできません。口だけの人ではなく、行いがその人生に伴っていました。そのことはだれも批評できないはずです。 コリント人への手紙第一15章……51節のみことばに注目しましょう。結果としてパウロもコリント教会の聖徒たちもみな「眠った(死んだ)」わけですが、それが「私たちはみな眠るわけではありません」と書いてあるのは、第一に、この書簡の受信者であるコリント教会が世の終わりを意識していつも励むべきであったから、第二に、私たちを含む、のちの世を生きるクリスチャンも、世の終わりを意識していつも励むべきであるからです。コリント書だけではありません。聖書はすべて、古い時代に書かれたものであるのと同時に、まだ見ぬ未来へと私たちを促すみことばです。 <祈りの課題>クリスチャンの葬祭業の働きのために。お骨のパウダー化の働きを展開する「石の東陽インマヌエル」のお働きのために。

058 2月27日 出10ルカ13ヨブ28Ⅰコリ14

出エジプト記10章……ファラオの家臣たちにも創造主への恐れがわき上がっていました。彼らは、イスラエル人(ヘブル人)が行って主に仕えるのがみこころであり、それを妨げつづけることはエジプトを滅ぼすことである、どうか翻意していただきたい、と、ファラオに迫りました。ファラオは、自分が神にも等しい存在だとうぬぼれていたようですが、ファラオの家臣たちにとっては、もはや恐れるべきはファラオではなく、創造主なる神さまでした。 ルカの福音書13章……狭い門というものは、人気があって大勢が詰めかけるから結果的に狭くなる門ではありません。人目につかない、人気がない、そんな門で、しかも見つけたら見つけたで、身をかがめてくぐらなければならないものです。イエスさまはご自身を、羊の門であるとおっしゃいましたが、ほかの神々や生き方ではない、イエスさまを通ってこそ、人はまことの救いに至ることができます。 ヨブ記28章……ヨブは苦難の中にあっても、最も貴いものが神の知恵であることを知っていました。貴金属は地の深み、溶岩が逆巻くような中から掘り出しますが、それにもまして人目につかないところに神の知恵はあります。その道は神さまが知っておられるゆえ、人がその知恵にたどり着くには、神さまの導きをいただく以外にありません。 コリント人への手紙第一14章……異言で祈ることは結構であるとパウロは語りますが、祈る姿が人々の目に霊的に映るわりにはことばが不明瞭であるゆえに、教会内に混乱が巻き起こるようではいけません。私たちは「霊的」な姿を人々に見せることで特定の人が褒められる教会形成を目指すのではなく、語ることばで人々の徳が高まり、キリストの愛で愛することを実践し合う教会形成をすべきです。くれぐれも異言というものが、そのような教会形成の妨げとならないように、秩序正しく用いたいものです。 <祈りの課題>私たちそれぞれの住む町で宣教の働きが前進するように。

057 2月26日 出9ルカ12ヨブ27Ⅰコリ13

出エジプト記9章……度重なる災害が主から下されたものということを認めたファラオの家臣の中には、警告のことばを信じて、しかるべき措置を取った者もいました。このことからわかるのは、主がエジプトを完膚なきまでにさばかれるにあたって、主のみこころに従順に従う者を選んでおられた、ということです。私たちもこの世の終わりに際し、世を挙げて堕落していく中、なお残されて主にお従いする者であるという自覚を持ちたいものです。 ルカの福音書12章……私たちに聖書のみことばが与えられているということは、そのみことばがイエスさまの再臨がもたらす世界の終末を語っている以上、その終末に備える責任が私たちにあるということです。私たちはこの終末に向けて日々の働きをなすのであり、そのことも考えないでこの世の快楽に浸ることをやめないならば、そのような者の終わりはどうなることでしょうか。互いに励まし合い、終末に備える私たちとなりましょう。 ヨブ記27章……ヨブは、自分が潔白であり、神を敬わないばかりに滅びる者でも、悲惨な末路を迎える悪しき者でもないことを主張します。そのような告白をするヨブにとって、神さまとは、自分の権利を取り去られた方、たましいを苦しめた方であり、そのお方にかけて自分が不正ではない、誠実であると誓いました。ここに来てヨブはいよいよ赤裸々になり、自身が潔白と信じている自分の人格が、まことにきよい神さまの御手によって取り扱われる備えができはじめていました。 コリント人への第一の手紙13章……あらゆる賜物にまして愛は優先します。なぜなら、神は愛であり、愛するということは神にならうことだからです。4節から、この「愛」ということばに、自分の名前を当てはめて読んでみましょう。最初は照れくさくてやりにくいかもしれません。自分が損な愛から遠いことがよくわかるからです。しかし、あきらめずに13章の最後までやりつづけてみてください。そして、言いようもない思いになったならば、もういちど、こんどは1節のはじめから13節まで、同じようにしてみてください。私たちがどんなに愛されているか、私たちが愛する者となるために神さまがどれほど期待し、成長する力を与えてくださろうとしているか、わかるようになるはずです。 <祈りの課題>金曜日は日曜日に備えて説教作成や祈りに集中する牧師先生が多くいらっしゃいます。先生方の備えが守られ...

056 2月25日 出8ルカ11ヨブ25-26Ⅰコリ12

出エジプト記8章……ファラオは何に対して心を頑なにしたのか、それは、イスラエルが所定の場所でいけにえをささげることに対してでした。ファラオはイスラエルに対し、礼拝することは許しても、あくまでそれはファラオの認める流儀で、ということでした。しかしモーセはそれを拒否しました。ファラオの認める流儀の礼拝を受け入れることは、神さまよりもファラオを上に置き、ファラオの言うことに優先して従うことになるわけで、イスラエルとしてはそれは絶対にできないことでした。 ルカの福音書11章……イエスさまがこれほど口を極めてパリサイ人、律法の専門家たちをののしられた、この箇所はだれよりも私たちと、深い関係のあるものです。私たちがもし、自分にはみことばを読み解く力が与えられていると自負しているならば、私たち自身がパリサイ人になるのです。私たちはパリサイ人に関するイエスさまのみことばをお読みするとき、自分がパリサイ人でなかったことに安堵するのではなく、自分こそがこのイエスさまの批判された行いをしているかもしれないと、自らを省みる者になりたいものです。 ヨブ記25章、26章……ビルダデは神を知っているかのように、神の前で人間はうじ虫であると言い放ちます。しかし、そのようなことばは相手をさばくだけで、ヨブの苦悩の深さに比べれば浅薄な人間理解でしかありません。私たちは苦悩の深みに陥ると、神さまとそのみわざを見失うことも有り得ます。しかし、そういう人を不信仰だからと責める権限は人にありません。 コリント人への手紙第一12章……私たちは、御霊の働きが教会に現れることを期待し、祈る必要があります。私たち個人に御霊の現れがあり、さまざまな賜物が与えられるとき、その賜物が生かされる場は個人的な生活環境ではなく、教会という主の共同体であるべきです。 <祈りの課題>全国の教会で行われる祈祷会において、みこころにかなう祈りがささげられるように。祈りをとおして日本のクリスチャンたちが力を得られるように。

055 2月24日 出7ルカ10ヨブ24Ⅰコリ11

出エジプト記7章……エジプトは呪法師によるまじないが支配する霊的社会であり、それだけ、秘術が執り行われることの多いものでした。彼らは秘術を使えたゆえに一目置かれ、それ相応の立場が保障されていたわけです。しかし、彼らの力の行使の象徴であった杖は、アロンの杖が変じた蛇に呑み込まれました。世のどんなおどろおどろしい霊的な力も、主の御力の前には敗北するしかなかった瞬間でした。 ルカの福音書10章……私たちは主のために働けたこと、それなりの業績を残せたことを喜ぶ傾向があります。しかし、それはたしかに喜んではいいことにはちがいありませんが、ほんとうに喜ぶべきことは、天に自分の名が記されていることです。それは自分の努力と関係なく、主が主権をもって救いに定めてくださったということであり、真っ先に喜ぶべきことです。 ヨブ記24章……ヨブは、悪者の生態をつぶさに描写し、そのような者も神の主権のもとに生きていることを語ります。彼らが生きることを主がお許しになることは、義を追い求める人にとっては耐えがたく、つらいことです。しかし、ヨブにとってそうだったように、それでも義人の拠り頼むべきお方は、主です。 コリント人への手紙第一11章……教会での食事は、家庭での食事とは根本的に性質を異にします。それは、教会での食事はどこまでも、「自分の養いのために食べるのではなく、他者の養いのために食べる」ということです。パウロはこの文脈で主の晩さん(聖餐)について触れていますが、主の晩さんが自分の宗教的満足のためのものと思ったら大間違いです。主の晩さんは教会が「ともに」養われることが大前提であり、お互いに意識を向けることが必要になります。 <祈りの課題>日本宣教にはまだ多くの働き人を必要としています。ひとりでも多く起こされますように。

054 2月23日 出6ルカ9ヨブ23Ⅰコリ10

出エジプト記6章……主がイスラエルの民を軍団ごとに導きだすようにと命じられる、この箇所に、イスラエル(ヤコブ)の上の3人の兄弟の子どもたちのことが書かれています。長男のルベン、次男のシメオンと登場しますが、それに続く三男のレビに関して、きわめて詳細に記述がなされています。そしてこのレビの一族にモーセとアロンが含まれていることが書かれています。また、この系図には、アロンとモーセの母親としてヨケベデの名前が出てきます。ヨケベデは、幼時のモーセをエジプト王女に代わって育て、イスラエル人としての教育を施した女性として、特筆に値します。 ルカの福音書9章……イエスさまについていく人生は魅力的であり、その生き方にあこがれて、多くの人が献身者となることを夢見ます。しかし、多くの場合、私たちはこの世に大いに未練を感じており、充分に献身することを回避する余地を残そうと、さまざまな言い訳をします。しかし、イエスさまが私たちに望んでおられるのは、完全な献身、即時の献身です。 ヨブ記23章……ヨブは、自分が神を見失っている現実にうちひしがれながらも、なお神が主権者としてみこころを成し遂げられることを認めています。私たちもそのように、神が全能であることを知るゆえにかえって苦しむ、ということがあるのではないでしょうか。このようなとき私たちが、神さまは真実なお方であり、私たちの思いを越えてなお変わらずに私たちを受け入れてくださっていると信じられるならば幸いです。 コリント人への第一の手紙10章……旧約聖書は実に多くの殺人、戦争、姦淫、偶像礼拝その他、目も当てられない不法を、これでもかと記録しています。それは、私たちを戒めるためです。私たちは世の終わりに生きているので、いつイエスさまにお会いできてもいいように備えながら生活する必要があります。私たちは旧約、そして新約から、反面教師、また模範を見て、自分たちがよりふさわしいキリスト者になるように努力するのです。 <祈りの課題>クリスチャンたちが趣味生活をするにあたり、この世に流されず、ふさわしい方法で休息を得るものとなるように。

053 2月22日 出5ルカ8ヨブ22Ⅰコリ9

出エジプト記5章……神の民はこの世で不条理な扱いを受けます。なぜならそれは、神の民だからです。神が鍛えてくださるゆえであり、サタンが攻撃するゆえです。しかし、神の民はそれで終わりません。神に拠り頼む信仰が育てられます。そのような民に、神は御腕を伸ばし、御業を行なってくださいます。 ルカの福音書8章……イエスさまはマリアや弟たちと対比して、わたしの母、わたしの兄弟とは、神のことばを聞いて行う人たちのことだとお語りになりました。私たちは御国において、イエスさまと家族にしていただくという栄誉を得る者ですが、その栄誉は、神のことばを聞くこと、そして、その聞いたみことばを行うことによって、イエスさまに与えていただけるものです。 ヨブ記22章……エリファズはいよいよ、ヨブのことを極限のさばきにふさわしい悪人だと決めつけて議論を進めます。そのような者も神と和解するならば幸いが来ると語ります。まことにそのとおりで、究極のさばきにふさわしい者もイエスさまの十字架によって神との和解をいただくならば、永遠のいのちの幸いをいただきます。しかし、そのような道理が見えたところで、実際に苦しむ者のことを理解していると言えるのでしょうか。 コリント人への手紙第一9章……パウロの語る、福音を伝える者の報いに注目しましょう。福音を無報酬で提供し、その結果得られる自分の権利を用いないことが報いであるというのです。まさしく、人間的な基準、この世の基準とは超絶しています。これを報酬と心から受け取るには、この世のものに一切の価値を見出さず、どんなときにもただイエスさまだけで満足することができていなければなりません。私たちが目指すべきは、この、イエスさまだけで満足し、その満足からあらゆるものが実を結ぶ境地です。 <祈りの課題>全国の無牧・兼牧の教会のために。

052 2月21日 出4ルカ7ヨブ21Ⅰコリ8

出エジプト記4章……主は、ファラオの心がかたくなならば、その長子を殺すと警告されました。このことばを聴いただけでもファラオは恐れなければなりませんでしたが、恐るべき自然災害がいくつも起こってもなお、ファラオは心をかたくなにして、聞き入れませんでした。それは主の摂理のうちに許されたことでしたが、世の人たちもまた、ほんとうの終末がやってくるまで心をかたくなにし、どんな警告のしるしを見ても信じません。私たちは、このような人たちを対象にみことばを語るのです。 ルカの福音書7章……イエスさまは、息子を亡くして悲嘆に暮れている女性に「泣かなくてもよい」と言ってくださいました。よみがえりであり、いのちであるイエスさまは、永遠のいのちの希望を私たちに見せてくださり、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。私たちも時に悲しむものですが、主にある別れは、天国における再会を保証します。 ヨブ記21章……ヨブは、悪者が快楽のうちに生きながらえることを語っています。友たちの語る、悪者の終末は悲惨であるというお説教とは大違いの現実があります。私たちはつい、因果応報という薄っぺらい概念でみこころを推し量り、そのように人に語ったりするものですが、それは、正しくてもなお苦しむ者の側に立つことではありません。 コリント人への手紙第一8章……私たちは何を飲んでも食べてもいいのですが、人によっては、その行為は宗教的な汚れ(あるいは、身の破滅)を招くと考えます。そういう人たちに対し、いや、何を食べても飲んでもいいと語っても始まりません。むしろ私たちのすることは、彼らと同じ視線に立つことです。アルコールに飲まれてしまう人が多いならば、私たちはアルコールを口にできることを権利として主張するのではなく、彼らに仕える精神で、アルコールを口にしないことです。 <祈りの課題>花粉症に悩む方々、兄弟姉妹のために。この弱さのうちに主を仰ぎ見る信仰が育てられるように。

051 2月20日 出3ルカ6ヨブ20Ⅰコリ7

出エジプト記3章……主はご自身の御名が、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、それが永遠の御名であるとおっしゃいました。主は、アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれ、その子孫である神の民にいるべき場所、御国を備えてくださいました。時至ってその場所は与えられようとしていました。現在私たちは、イエスさまによってすでに御国の中に入れられています。 ルカの福音書6章……イエスさまは家を建てる者のたとえをお話しになりました。岩の上に家を建てるには、土を深く掘り、さらに堅い岩に土台をつくるわけで、たいへんな労力を必要とします。みことばを聴いて行うとは、そのような大変な労力を必要とするものですが、困難が押し寄せてもびくともしなくなります。一方、砂の上に家を建てるがごとき安逸な信仰生活はどうなるでしょうか。楽ですが、いざというときに立ちおおせることはできません。 ヨブ記20章……ツォファルは、悪しき者の最後はきわめて悲惨であることを説きます。このことばの中で、その者が弱い者を踏みにじり、人の家を奪い取ったと語りますが、これは暗にヨブを指し、ヨブこそがその神のさばきを現実に受けている悪しき者だと言わんばかりです。私たちは苦境の中で嘆く兄弟姉妹に寄り添う人でしょうか、さばく人でしょうか。 コリント人への第一の手紙7章……未信者の配偶者と生活するクリスチャンは、そのことをとても気にする方も多いでしょう。14節のみことばを心に留めたいと思います。どうか既婚のクリスチャンの方は、自分が家庭に祝福ときよめをもたらす源であることを自覚し、また、確信を持っていただきたいものです。 <祈りの課題>クリスチャン対象の結婚相談所のために。

050 2月19日 出2ルカ5ヨブ19Ⅰコリ6

出エジプト記2章……本来、捨てられるべき子どもだったモーセは、エジプト王女の計らいにより、というより、主のお導きにより、実母に育てられることになりました。しかし、彼の立場は王子であったので、実母は時が来ると、モーセを王女のもとに手離しました。まことに、子どもというものは、親の所有物ではなく、主からお預かりしている存在であることを、私たちは肝に銘じ、時が来れば送り出すべきところに送り出す決断を、主にある親はする必要があります。 ルカの福音書5章……イエスさまが肉体をとってそばにおられた以上、それは喜びの時であったゆえ、弟子たちはイエスさまとともに飲んだり食べたりすることを楽しみました。しかし、今イエスさまは肉体をとってともにおられないゆえに、飲んだり食べたりということが肉を生かすことである以上、それはイエスさまに近づくことに妨げとなることが往々にしてあります。使徒の働きには複数回、教会が断食に取り組んだ事実が記録されていますが、それは、食を断つことで、目に見えないイエスさまに近づき、お交わりを持つということです。私たちにとって断食が必要な理由が、ここにあります。 ヨブ記19章……この告白に示されたヨブの姿は、神の怒りを受けた姿そのものですが、これは本来の私たち罪人の姿であり、そして、十字架の上で人に注がれるべき神の怒りを受け止めて打たれた、イエスさまのお姿を示します。私たちはヨブのこの真実の告白をお読みするとき、私たちの真実の姿を見出し、さらに、私たちを贖い出してくださったイエスさまに改めて出会うものです。 コリント人への第一の手紙6章……姦淫、情欲に関する罪は、ほかの罪とちがって特別です。なぜならば、この罪だけは、からだに対して犯す罪だからです。偶像礼拝、オカルト(おまじない、占い)のような罪が倫理的なものというよりも、神さまとそのみからだである教会「に対する」罪であるように、配偶者以外の存在に情欲を覚え、姦淫の罪を犯すことは、主の宮なるからだに対して罪を犯すことと心得るべきです。私たちのうちから徹底してこの罪を除き去らなければなりません。 <祈りの課題>日本と世界の人々、特に教会の若者たちが、主にあって正しい性意識を持って歩んでいけるように。

049 2月18日 出1ルカ4ヨブ18Ⅰコリ5

出エジプト記1章……へブル人の助産婦シフラとプアはうそをついたように見えますが、神さまは彼女たちを祝福してくださったとあります。いのちを救うためならば、神さまはそれを偽証とはみなされなかったのでした。「偽証してはならない」という戒めも含む律法の精神は、神を愛し、隣人を愛せよという2つの戒めに要約されるべきで、それに基礎を置かないで文字どおり守ろうとするなら「律法主義」という、イエスさまに糾弾される考えになってしまいます。 ルカの福音書4章……イエスさまの教えを聴いた群衆は、そのみことばが自分たちのうちにとどまっているならば、もう充分に教えられているわけで、イエスさまを次の町に送り出すべきでした。教えを自分のうちにとどめておいて満足していてはならないのです。私たちのすることは、みことばから深く学ぶこともさることながら、まだみことばの伝えられていない人々に向けて、みことばが宣べ伝えられるようにすることです。 ヨブ記18章……ビルダデは、悪しき者の終わりは極めて悲惨になることを延々と説き、ヨブの考えを正しにきます。しかし、実際のところ、神の目から見れば義人はひとりもいないというのがほんとうのところで、そういう意味ではみな悪しき者です。悪しき者たちはやがて悲惨に滅びると人はたやすく言いたがりますが、滅びないで永らえる者が多いという現実を前にしては、どんな説得のことばもむなしいものです。 コリント人への手紙第一5章……私たちは、この世の人たちが聖書に反していることについて目を留めてあれこれ言いがちですが、ほんとうに私たちが考えるべきことは、私たち教会の「中に」そのようなみことばに反する人がいる、ということです。こういう人に対して「さばくべきではない」ということばを用いてその罪を放っておくならば、教会のきよさは踏みにじられることになります。私たちは、みことばに反する者が教会内に現れることのないように、互いに関心を持ち、祈り合う必要があります。 <祈りの課題>いのちのことば社(クリスチャン新聞、CS成長センターほか)の文書宣教の働きのために。

048 2月17日 創50ルカ3ヨブ16-17Ⅰコリ4

創世記50章……ヨセフの仕返しを恐れた兄たちは、父ヤコブが言っていたと言って、ヨセフに赦しを請いました。ヤコブがほんとうにそう言っていたかどうか、ヨセフが兄たちのことばをヤコブのことばとして受け取ったかどうかまでは、聖書は明記していません。しかし、このように、父ヤコブの名をもって赦しを求める姿、そして罪を赦す姿は、罪を赦してくださる御父のゆえに赦し合うわれら兄弟姉妹の姿につながります。 ルカの福音書3章……バプテスマのヨハネは、人々に教えを宣べることで啓蒙しました。しかしこの啓蒙は、そのことばの実体であるイエスさまへと導く道となりました。バプテスマのヨハネは時の権力者の不法を告発して捕らわれの身となり、ついにはいのちを失いましたが、イエスさまに人々を導くとは、そのように、ことばだけではなく行いで示す生き方をすることです。 ヨブ記16章~17章……ついにヨブの祈りは神さまの全能の御手に挑戦する激しいことばとなりました。私たちはこのような祈りに眉をひそめたくならないでしょうか。しかし、このことばが堂々とみことばとして聖書に記録されていることの意味を、私たちは真剣に考える必要があります。神さまはこのような激しいことばで祈ることも受け入れられます。いえ、むしろ歓迎されます。 コリント人への手紙第一4章……愛のない教会にもし主が来られたならば、愛がないゆえのそれ相応のきびしいお取り扱いを受けることになるでしょう。反対に、教会に愛が満ちあふれていたならば、主はその愛を豊かに分かち合うべく訪ねてきてくださるでしょう。コリント教会は目に見える人であるパウロの訪問を恐れながら待つのではなく、愛と優しい心を分かち合うべく愛に満ちあふれるべきであったように、ましてや、目に見えないイエスさまを受け入れる私たちは、イエスさまは来るまいと安逸に過ごすのではなく、イエスさまがいついらして愛を分かち合ってもいいように、普段から愛に満ちた共同体として備える必要があります。 <祈りの課題>東京や大阪といった大都市のホームレス宣教の働きのために。

047 2月16日 創49ルカ2ヨブ15Ⅰコリ3

創世記49章……ヤコブは、12人の子どもたちそれぞれにふさわしい祝福を与えましたが、暴力沙汰に及んだシメオンとレビの子孫は、地を継ぐことがないという定めを受け取らざるを得ませんでした。実際、のちの時代にシメオンの領地はユダに編入されました。レビもやはり、地を継がずにイスラエルの中に散らされましたが、それは一見すると呪いのようでも、呪いとは彼らの怒りや憤りに対するものであり、レビ族はそのかわり、イスラエルを主の御前に導く献身者としての役割を果たすことになったのでした。 ルカの福音書2章……イエスさまは12歳、ユダヤの社会では立派な成人となられました。イエスさまはご自身のご意志で、というよりも、みこころのゆえに、主の宮にとどまってみことばを学ばれました。マリアはイエスさまがどのようなお方かしっかりわかっていれば、宮にとどまられたイエスさまを責めることは決してしなかったはずです。私たちも、イエスさまのご判断がしばしば、私たちの思いと一致しないで戸惑うことのあるものですが、私たちはむしろ、イエスさまの御思いに自分の思いを合わせる者となりたいものです。 ヨブ記15章……エリファズはヨブのことばに耐えられず、不法な者は神さまが必ず容赦されないと語ります。私たちは苦しむ者の極限の叫びを前にすると、それに耐えられずに、悪い者に対しては神さまのさばきが臨むといとも簡単に語ってはいないでしょうか。私たちのすべきことは、理屈で神さまのみこころをうんぬんすることではありません。 コリント人への第一の手紙3章……クリスチャンが堅い食物、霊的に深い奥義を語れる段階にないと判断される根拠は、お互いの間に派閥をつくり、争いが起こっている、ということです。そういう争いを起こすことは、自分(たち)こそ神の知恵に通じていると思い込むことに端を発するわけですが、私たちはそのように、自分を賢いと思ってうぬぼれるのではなく、自分はまだまだみことばに教えられなければならない愚かな者だと認めて謙遜になることが必要です。 <祈りの課題>教会内に争いや派閥が起きていて苦しむすべての牧会者のために。

046 2月15日 創48ルカ1:39-80ヨブ14Ⅰコリ2

創世記48章……次男のエフライムが長男のマナセに優先した扱いを受けたことは、イシュマエルよりイサク、エサウよりヤコブ、十人の兄よりヨセフが優先されたことを受け継いでいるといえます。神の選びというものは、目に見える兄弟順のような、社会的な決まりとしてどうしようもないような運命を超えて働くものです。私たちも、世的な運命に目を留めることに終わらず、主のご計画を思い、主の御業を待ち望みましょう。 ルカの福音書1章39節~80節……主のみこころにお従いして、子どもにヨハネと名づけなさいと伝えたザカリヤは、話せるようになりました。話せるようになったザカリヤがしたことは、ヨハネが、長じて「罪の赦しによる救いについて神の民に知識を与える」人となるという預言を宣べたことです。主に沈黙を与えられた私たちが真っ先に口を開いて優先的に語るべきことは、主のみこころです。 ヨブ記14章……神さまは、花のようにわずかの間咲き誇ってもついにはしおれるような、むなしい人生を送るしかないような者のこともおさばきになることがとてもつらいと、ヨブは告白しています。私たち人間は、どのような者もさばかれます。それは富んでいる者だけではなく、貧しい者も同様です。だからこそ貧しい私たち、むなしい私たちは、神さまのあわれみにすがる必要があるのです。 コリント人への手紙第一2章……私たちが宣教することばはイエスさまの十字架という極めて単純な事実、真理ですが、この福音を宣べ伝えるのは人間的な知恵によらず、御霊によります。ゆえに私たちは宣教者として神さまに用いられるためには、何よりも御霊の満たし、祈りが必要になります。私たちクリスチャンの生活に熱心な祈りが必須であるゆえんです。 <祈りの課題>韓国で日本宣教の準備を祈りつつ進めている献身者たちのために。今はコロナ下という、極めて悪い時ですが、そのような中でも揺るぐことなく主の御手を待ち望む者となり、私たち日本の兄弟姉妹も、いつの日か喜びをもってそのように祈り備えた献身者たちを迎え入れることができますように。

045 2月14日 創47ルカ1:1-38ヨブ13Ⅰコリ1

創世記47章……ヤコブは、自分の生きた130年の年月は、それでもわずかであり、多くのわざわいがあった(不幸せだった)と告白しています。そのようなヤコブでしたが、最高権力者であるファラオを祝福しています。私たち神の子どもたちは、実際の自分の生活を見るととてもみすぼらしいものであるかもしれませんが、そのような私たちでも、高い地位にある人たちをも祝福する権限が与えられているのです。謙遜になろうとも、卑屈になってはなりません。 ルカの福音書1章1節~38節……ザカリヤの身に起こったことは、一見すると不信仰に対する神のさばきのように見えます。しかし、奇跡が起こるというみことばを信じないということに関しては、私たちも五十歩百歩ではないでしょうか。それどころか、唯物論が絶対的なこの世においては、ザカリヤ以上に不信仰なのが私たちでしょう。そういう者はまず、神と人の前に口をつぐむことが求められます。ザカリヤに起こされたことはさばきではなく、自分のことばではなくてみこころにより深く耳を傾けるための、神さまのお取り扱いといえるでしょう。 ヨブ記13章……神さまが全能者、絶対者であることを根拠に、人を罪に定めるような試みをしばしば私たちはしていないでしょうか。それは苦しむ者からすれば、「無用の医者(以前の訳では「能なしの医者」のたわごとにすぎません。私たちはむしろ沈黙してでも、そのように苦しむ人のかたわらに寄り添うことが知恵あることです(5節)。 コリント人への手紙第一1章……宣教のことばは人間由来の緻密な論理からすると、非常に単純で、見ようによっては愚かに見えます。しかし、そのみこころにつまずかず、子どものように素直な心で神の国、福音、宣教、十字架のことばを受け入れる人が救われます。ゆえに、「神の愚かさは人よりも賢い」というレトリックが成り立つのです。 <祈りの課題>全国で展開する子ども宣教、教会学校の働きのために。

044 2月13日 創46マコ16ヨブ12ロマ16

創世記46章……ヤコブの一族の職業、羊飼いは、エジプト人に忌み嫌われるものでした。しかしヨセフは、ファラオの前でも妥協したり卑屈になったりすることなく、自分たちが羊飼いであるからそれにふさわしい土地が欲しいと、堂々とファラオに言うべきであるとヤコブを促しました。私たちもクリスチャンの身分であることが、世からどう見られようとも、ひるむことなく私たちのアイデンティティを明らかにし、この世に対して私たちに許された権利を卑屈にならずに主張すべきです。信教の自由などはその最たるものでしょう。 マルコの福音書16章……復活というものは、十字架以上に信じられないものです。しかし、このような不信仰な者たちにイエスさまは現れてくださり、みことばどおりに語られた復活を信じるように導いてくださいます。この恵みを私たちは今日もいただいて、復活のイエスさまとの交わりを持たせていただくのみです。 ヨブ記12章……正直者が馬鹿を見て、神さまに反逆する者が栄えているということは、よくあることです。私たちはこれを人間的な因果応報の論理で理解しようとすると、混乱します。神さまのみこころがわからなくなります。私たちはしばしば、このような人間的な発想で神さまのみこころを推し量り、偉大な神さまを小さくとらえてしまう誤りを犯しますが、このようなときこそ、私たちは絶対的な愛なるお方、私たちの味方である神さまの愛に気づかせていただく恵みをいただいてまいりたいものです。 ローマ人への手紙16章……この箇所をお読みすると、パウロがどれほど多くの人に慕われていたか、また、そのような聖徒たちの祈りに支えられていたかを知ることができます。私たちはもしかすると、信仰において孤独な戦いを強いられているかもしれません。しかし、世界中の信徒たちは、この日本の信徒たちのために祈っていて、その信徒には私たちひとりひとりが含まれていることを忘れないでいたいものです。 <祈りの課題>世界宣教のために祈る私たちとなりますように。所属教会がサポートしている宣教師のために。

043 2月12日 創45マコ15ヨブ11ロマ15

創世記45章……ヤコブの子どもたち、ヨセフの兄弟の生殺与奪はヨセフの手に握られていましたが、ヨセフは仕返しをしませんでした。それは、自分がこうしてエジプトに来て、総理にまでなったのは、イスラエルのためであったことを、ヨセフは知っていたからでした。そしてこのようにして、ヨセフは主のこのご計画を兄弟たちと共有し、兄弟たちを慰めることができたのでした。私たちにも主の大いなるご計画、救いを実現するご計画が注がれていることを、心に留めてまいりたいものです。 マルコの福音書15章……群衆は、イエスさまが十字架から降りたら信じてやると罵って、イエスさまを嘲笑いました。彼らは、イエスさまが十字架から降りないことを分かっていて、このような嘲りのことばをかけたのでした。しかしイエスさまは、十字架で完全に贖いを成し、十字架から降ろされ、墓に葬られました。贖いをなされたイエスさまが十字架から降ろされた以上、私たち人間に迫られていることは、イエスさまを信じること、これだけです。 ヨブ記11章……ツォファルは、ヨブの「手に不法があるならそれを遠ざけ……天幕に不正を住まわせないなら」、「望みがあるので……安らぎ、守られて安らかに休む」と高説を垂れていますが、問題だったのは、ヨブは潔白だったにもかかわらず、今こうして苦しみの中に置かれている、ということです。人はときに、相手の苦しみの現実に寄り添うよりも、相手の苦しみの理由をさも知っているかのように振る舞い、お説教をして相手をさらに苦しめる者ですが、私たちこそ、このような上から目線の知ったかぶりから救われる必要があります。 ローマ人への手紙15章……宣教とは、ほかの人が宣教したその手柄を横取りするかのように、すでに宣教されている人に再宣教しないことが原則です。パウロはこの原則をしっかり守って宣教し、諸地方に教会を立てました。私たちも、他教会からの水平移動で教会に人が増し加わることを手放しで喜んでいてはなりません。私たちがほんとうにすべきことは、まだ福音が伝えられていない人々に優先的に福音を宣べ伝えることです。 <祈りの課題>自然環境の厳しい地方で宣教・教会形成をする兄弟姉妹のために。

042 2月11日 創44マコ14ヨブ10ロマ14

創世記44章……ユダのしたことはとりなしでした。ヤコブが死ぬことのないように、また、ヨセフの怒りをなだめるために、自分の身を差し出しました。これはまさに、私たちが死ぬことのないように、神の怒りの前にご自身をいけにえとして差し出された、イエスさまのお姿そのものです。 マルコの福音書14章……イエスさまについていこうとした青年の話が登場するのは、マルコの福音書だけで、この青年はマルコ自身ではないかと言われています。また、ペテロも土壇場になってイエスさまを否定しました。彼らが逃げたその弱さは、イエスさまの復活を見るまではどんな人にもついて回るものです。復活なき犠牲的精神は尊いものでもなんでもなく、また、あり得ないものです。 ヨブ記10章……ヨブは、神さまの自分に対するお取り扱いに、激しく抗議しています。この祈りは私たちにとって模範となることです。私たちは苦しみの中に置かれてもなお、取り澄ましたような祈りをすることで終わらせてはいないでしょうか。赤裸々な祈りをささげてもよいのです。神さまはその真実の祈りをさげすんだり、さばいたりなさることはありません。 ローマ人への手紙14章……主にある兄弟姉妹はなぜ尊いのでしょうか。それは、神の御子キリストが代わりに死んでくださったからです。それほど尊い存在をつまずかせ、救いから遠ざけることは、私たちにとっていちばんしてはならないことです。食べるということはしばしば宗教的な色彩を帯びますが、食べるにせよ、食べないにせよ、私たちはつねにほかの兄弟姉妹のことを考え、配慮した行動をしていくべきです。 <祈りの課題>日本異端相談所と異端・カルト110番の働きのため。

041 2月10日 創43マコ13ヨブ9ロマ13

創世記43章……つい見逃してしまいますが、ヨセフが一行を迎えてともに食事を取った時間には、通訳がついていました。彼らが何を話し合っていたのか、ヨセフに筒抜けだった一方で、ヨセフの話すことばは通訳を介さないと彼らには伝わらなかったのでした。このような、神のような存在のヨセフの怒りをなだめるために、ユダはベニヤミンの保証人となりましたが、このユダの子孫として、十字架によって神の怒りをなだめられたイエスさまがお生まれになったのでした。 マルコの福音書13章……世の終わりに何が起こるかは、このようにイエスさまがあらかじめお語りになったとおりです。私たちのすることは、いたずらに恐れたり、終末のタイムテーブルは具体的にどうなるだろうかと今起きている事象になぞらえてあれこれ推測したりすることではありません。目を覚ましていることです。これらのことは必ず起こる。教会の2000年の歴史は、終末意識を身に帯びて目を覚ましている信徒たちによって紡がれてきたものであり、私たちも目を覚まして、終末に備えたいものです。 ヨブ記9章……ヨブは、自分が潔白であることを主張する一方で、神さまが絶対者であることに圧倒され、恐れおののいています。このような恐れの中にあり、主のお取り扱いの御手のうちにある者を、だれが罪人扱いできたり、上から目線で叱ったりなどできるでしょうか。私たちももし、イエスさまの十字架の血潮によって義人とされているならば、このような苦難を主がお許しになり、全能者の御手をいやでも感じるということは起こるのではないでしょうか。 ローマ人への手紙13章……私たちは、世の秩序の中で信仰を持つことが許されています。この時代のローマは皇帝礼拝という問題がありましたが、しかしそのような権威に対して革命を起こすのではなく、従順な市民として証しを立てることをパウロは命じています。私たちも、インターネットで陰謀論を流布する者たちの言説にかぶれ、この世の権威を極端に軽視したりして、みこころを損なうようなことがあってはなりません。 <祈りの課題>聖書翻訳の事業のために。

040 2月9日 創42マコ12ヨブ8ロマ12

創世記42章……ヨセフは、兄たち全員を監禁することから、飢えている家族に穀物を持たせるように方針を変えたとき、「私も神を恐れる者だから」と告白しています。この神はもちろん、イスラエルの神なる創造主ですが、兄たちは、ヨセフの恐れている神がそうとは知りませんでした。しかし恐怖に取りつかれていた兄たちは、このような中にも主の御手が働いていたことを認めたことでしょう。この一連のできごとはまさしく、主がお導きになったことでした(28節)。 マルコの福音書12章……みことばの教えは、主を愛すること、そして隣人を愛すること、この2つに集約できます。それ以外のものを愛することは、私たちにとってふさわしい教えではありません。ただ、主を愛し、隣人を愛するというこの戒めを具体的にどう守るかを、私たちはよく知る必要があります。旧新約聖書は、その戒めを守る行う上での必要十分な書です。 ヨブ記8章……ビルダデは、人は神を熱心に求め、誠実ならば、神に受け入れられると主張します。この議論の問題は、神との関係の祝福いかんを人の側においている、ということです。私たちがしばしば、敬虔な歩みをしていても大きな災いにあうということは充分にありえることで、それを、努力が足りなかったとか、誠実ではなかったと言ってみたりするのは、的はずれというものです。 ローマ人への手紙12章……この12章は、心の一新によって神さまに自分を変えていただいた者が従うべき徳目です。読んでみると、なるほど、そのとおりだ、と思うことでしょう。あとはこれを守り行うばかりですが、これは個人的な努力でできることではありません。教会の兄弟姉妹とともに取り組むべきことです。 <祈りの課題>終末意識が盛り上がっているコロナ下において、クリスチャンたちが健全な終末論に立った聖書解釈をしていくように。

039 2月8日 創41マコ11ヨブ7ロマ11

創世記41章……ヨセフが息子たちに名づけた、マナセ、エフライムという名前の意味を考えると、神さまはどのようなお方であるかがわかります。神さまはしばしの苦しみの後で祝福に導かれ、苦しみを忘れさせてくださり、多くの実りを得る祝福を覚えさせてくださるお方です。私たちはこの地上では苦しみの連続かもしれませんが、終わりの日、天の御国に入れられる日に、その苦しみはすべて報われます。 マルコの福音書11章……子ろばが最初に背中にお乗せしたのは、イエスさまでした。勇壮な白馬ではなく子ろばに乗られたことは、イエスさまがそれだけ謙遜なお方であることをお示しになったということですが、私たちの子ろばのように、大した存在ではないにもかかわらず、イエスさまをお乗せすることで、主のご栄光を現す素晴らしい存在としていただけます。 ヨブ記7章……神さまが人を心に留められることは、本来ならば驚きとともに喜んで受け入れるべきことです(詩篇8:4)。しかし、このような主の愛は、いまや避けたくなるような重たいものにしかなっていません。そのような主への態度を人はさばくでしょうが、このようなヨブのうめきを細大漏らさずみことばに書き留められた神さまは、このようにご自身の愛さえも受け取れないほどに傷ついている者に対し、どこまでも優しいお方です。 ローマ人への手紙11章……みことばの教えはイスラエルに伝えられた教えがルーツになっています。今イスラエルの民の中で、イエスさまにつながっている人はわずかに見えるかもしれませんが、私たちはイエスさまにつながっていて救われているからと、誇るべきではありません。私たちが今こうして救われているのは、神さまの恵みであって、私たち自身を誇るべきではありません。 <祈りの課題>韓国から日本に宣教師を派遣して支援する組織「アガペー宣教会」のために(「アガペーチャペル」ではありません)。

038 2月7日 創40マコ10ヨブ6ロマ10

創世記40章……かつて夢を見て未来を予見したヨセフは、ここで夢の解き明かしをしました。これは、未来の自分の道を開くきっかけをつくるものでした。しかしヨセフは、この夢の解き明かしからなお長い間、監獄生活を余儀なくされました。しかし、もし献酌官長がすぐにヨセフのことを思い出し、釈放されていたら、果たしてヨセフは総理にまでなっていたかわかりません。ヨセフがそうだったように、私たちもまた道が開かれるまでには、時というものがあります。今は苦しくても、この主の時を信じつつ忍耐する者となりたいものです。 マルコの福音書10章……イエスさまは「偉い」お方ですが、世の者たちが思う「偉い」とは対極にある「偉い」お方です。私たちは「偉い」ということを、しもじもに対して横柄に振舞うような人と考えるでしょう。しかしイエスさまは、仕えるお方です。実に十字架の死をもって私たちの罪を洗い流してくださったほどに、私たちに人間に仕えてくださったお方です。そのイエスさまの愛の奉仕を知る私たちもまた、仕える者として召されています。 ヨブ記6章……主から責められているようにすら感じている絶望の中にある人に必要なもの、それは、信仰の友の慰めです。このようなとき、友たる者は上から目線で責めるようなことをしては絶対にいけません。折にかなった慰めのことばを語るのは簡単なことではありませんが、少なくとも友情を見せるくらいのやさしさは必要です。 ローマ人への手紙10章……信仰は主のみことばを聴くことから始まります。そのみことばを聴くことは、みことばが宣べ伝えられないかぎり不可能なことです。主はそのようにして、宣べ伝える人たちのわざを通して人々を救われますが、その救いのわざに用いられようという働き人を、今日も主は求めていらっしゃり、また、起こしてくださいます。 <祈りの課題>菅野直基先生(出前牧師カンちゃん)が展開していらっしゃる、路傍伝道ネットワークの働きの祝福のために。

037 2月6日 創39マコ9ヨブ5ロマ9

創世記39章……ポティファルの家が栄えたのは、主がそのしもべヨセフを特別に祝福しておられたゆえでした。しかし当のヨセフは、ポティファルの妻のゆえに投獄されることになるなど、多くの苦しみを体験することになりました。主が私たちを通して、私たちの置かれた環境を祝福されるといっても、私たちに苦しみが臨むことはあり得ます。しかしそれは、主が見放しておられるからではありません。しばしの苦しみを通して、私たちがより一層、その置かれた環境に祝福をもたらす者となるために、主が私たちをきよめてくださるためです。恐れずに、主に信頼してまいりたいものです。 マルコの福音書9章……子どもは幼稚とみなされ、とかく大人たちから疎外されてしまう、弱い立場にある存在です。しかし、イエスさまはこのような子どもに、つねに目を留めてくださっています。もし私たちに、子どもを受け入れ、尊重する謙遜さが備わっているならば、そのような者こそ、イエスさまに近い存在と認めていただけます。 ヨブ記5章……エリファズは、神が叱責する者は幸いであると主張します。まことにごもっともなことですが、このことばは、実際に神のお取り扱いの中で苦しむ者に対し、何の慰めにもなっていません。自分がその苦しみの中にない者は、神の叱責とはどのようなものであるか、具体的に何もわかっていないのです。 ローマ人への手紙9章……本来私たちはみな、神の怒りの器、怒りを受けるにふさわしい存在でした。しかし神さまは、そのような者を特別に憐れんでくださり、救いに召してくださいました。ほめたたえられるべきはどこまでも、このように憐れみをもって私たちを召してくださった神さまです。 <祈りの課題>モンゴルのマンホールチルドレンの支援の働きを展開する「モンゴルキッズの家」のために。

036 2月5日 創38マコ8ヨブ4ロマ8

創世記38章……ユダが跡継ぎの子どもをもうけた方法は、かなり問題のあるやり方でした。罪ある子どもと次々と主が死なせられたことで極端に恐れて、末の息子シェラを嫁のタマルに与えなかったこと、自分はといえばその正体がタマルだったといえ、姦淫の罪を犯して妊娠させたこと、タマルが妊娠していることが分かったとき、自分のしたことを差し置いてタマルを焼き殺すように命じたこと、すべて問題でした。しかし、このようにして子どもがこの世界に生まれ、その末としてダビデが生まれ、そしてイエスさまがお生まれになったことは、主の摂理でした。 マルコの福音書8章……ペテロがイエスさまのことをキリストであると告白したことは、素晴らしいことでした。しかしペテロは、イエス・キリストが宗教指導者たちから捨てられ、十字架にかかられるお方であることを理解せず、イエスさまのおことばを拒絶しました。イエスさまはそんな、ペテロを含めた弟子たちに、自分の十字架を負ってわたしについてきなさい、とおっしゃいました。私たちがキリストのものとなるということは、この世で安逸を得ることではなく、時に大いなる苦難を得ることでもあります。しかしそれでも、十字架を負う道は、かえって永遠のいのちに生かされる道です。 ヨブ記4章……ヨブの友エリファズは、人が滅びるのはその人が潔白ではないからだと主張し、ヨブがこうなっているのはあなたが悪いからだと暗に責めます。私たちは、人に起こっているひどいできごとを見て、あたかもそれが、その人に問題があるゆえに神さまの罰を受けていると、一方的にみなす弱さを抱えています。しかし、神さまが人のそのような取り扱いをなされるからと、それだけを見てそういう目に遭っている人を判断することはできません。 ローマ人への手紙8章……私たちは自分のことを罪深い、神さまに愛される資格がない、と思ってばかりいないでしょうか。このローマ人への手紙8章のみことばを何度でも繰り返し読みましょう。神さまが味方であること、神さまは私たちを罪に定めて滅ぼされることはけっしてないことを、私たちはしっかり受け止め、神さまに感謝しつつ今日も生きてまいりましょう。 <祈りの課題>爆発伝道(EE)の働きのために。日本代表の山中知義先生のミニストリーの祝福のために。

035 2月4日 創37マコ7ヨブ3ロマ7

創世記37章……父ヤコブの偏愛を受けていたヨセフは、最初、のちの日のような人格者ではありませんでした。ビルはの子やジルパの子である自分の腹違いの兄の悪い噂を父親に告げていたということは、愛妻の愛(まな)息子が女奴隷の息子たちの悪口を言うということであり、ただでさえ絶対的に高い地位にあった者が、その立場を悪用していたということです。そのようなヨセフが無邪気にも夢の話を聞かせて回るのは、いかにそれが主のみこころを開く道であったとはいえ、彼の砕かれるべき人格の未熟さが現れたことでもありました。 マルコの福音書7章……人から出るものが人を汚します。それは、人は本来、罪の中に生きていて、心が罪にけがれているからです。主の子どもらしくよいことばや態度、行いが出てくるには、それだけ、主のみことばと祈りによって心がきよめられている必要があります。 ヨブ記3章……ようやく口を開いたヨブから出てきたことばは、神をのろうことばではありませんでしたが、自分の生まれた日をのろうことばでした。自分がこの世に存在することそのものを否定したくてたまらなかったわけです。私たちも、いかに神さまから喜びがたえず与えられているといっても、喜びを与えてくださる神さまが見えなくなって、自分の存在そのものをのろいたくなるときがあります。神さまはヨブをそのことばによってさばかず、ありのまま受け入れて生かしてくださったように、私たちのこともさばかないでありのまま受け入れてくださり、生かしてくださいます。 ローマ人への手紙7章……私たちは心では神の律法を喜んでいますが、実際には自分の憎んでいるはずの罪を犯してしまう者です。それは実に悲しくみじめなことですが、この死のからだから救い出してくださるのは、死をもって罪と死に打ち勝ってくださったイエスさまだけで、私たちはイエスさまを信じる信仰により、罪に打ち勝つ者とさせていただけます。 <祈りの課題>現在、コロナ下で苦戦を強いられている、KGKやCCCをはじめとした学生宣教の働きのために。

034 2月3日 創35-36マコ6ヨブ2ロマ6

創世記35章、36章……神さまはヤコブに、新たな地に住むように指示を与えられるにあたって、祭壇を築くように命じられました。すなわち、礼拝を通してご自身と深い関係を持つ場として、その新たな地を定められたわけです。私たちにとりましても、今いるこの地は仮の地、私たちはこの世では寄留者です。しかし、その地に住むように導かれたのは神さまであり、その地にて神さまを礼拝し、神さまと交わりを持つ責任が、私たちにはあります。 マルコの福音書6章……イエスさまは、ご自身についてきた群衆の食事に至るまで責任を取ってくださったお方です。弟子たちは夜になってから彼らを解散させ、村里に食べ物を買いに行かせればよいと考えましたが、男だけで5000人もいる群衆が村里に食べ物を買いに行くとは、いかにも非現実的でした。イエスさまは、ご自身のみことばを求める人に対し、奇跡的な形を用いてでも、肉の糧に至るまで与えてくださいます。 ヨブ記2章……ヨブの友たちは、ヨブのあまりの姿に悲しみを表し、それから7日間も話しかけることをしませんでした。ほんとうに悲しむ人には通り一遍の慰めのことばさえいりません。必要なのは、たとえ無言でいても、ともにいてあげることではないでしょうか。 ローマ人への手紙6章……私たちの罪のからだはキリストともに死に、今生きている私たちのいのちはキリストとともに生きているいのちです。私たちは、罪に従って生きる必要はなく、また、義の生き方、きよい生き方を、必ずできるようになるのです。希望を持って生きていきたいものです。 <祈りの課題>弟子訓練の働きに献身するすべての教会と教職者のために。一部の教職者の心得違いの結果、弟子訓練は教会にカルト化をもたらす悪魔の所業という間違った評価が広まり、この評価を諸教会による聖書的な弟子訓練の実践で覆すのは容易なことではありませんが、諸教会と先生方があきらめずに取り組む力を、主がたえず注ぎつづけてくださいますように。

033 2月2日 創34マコ5ヨブ1ロマ5

創世記34章……神の民の娘に手を出したのみならず、わずかな財産さえもすべて奪おうとしたヒビ人は、制裁される必要がありました。しかし、そのためにシメオンとレビの取った行動は、神さまがご自身の民のしるしとして与えられた方法である「割礼」を用いたという点で、きわめて悪辣なものでした。このためにこの兄弟は、ルベンの受け継げなかった長子の権利を、やはり受け継ぐことができなかったのでした。 マルコの福音書5章……人を愛するということは、ときに、自分の多大な財産を犠牲にすることも含みます。このゲラサ人の地の養豚をしていた人も、2000頭もの豚を失いましたが、そうまでしてでも、この男の人から悪霊が出ていき、真人間になることを喜ぶべきでした。ところが彼らはイエスさまを、この地から追い出しました。彼らには愛がなかったゆえに、愛なるイエスさまが理解できなかったのでした。 ヨブ記1章……サタンは意味なく存在しているのではありません。主のみこころにかなう者を試みる権限が、神さまから与えられています。しかしそれでも、それは神さまの定められた制限の中で許されているだけのことで、主はサタンに、人のいのちにまで触れることをお許しになりません。ひどい状況が襲いかかるようなとき、それでも私たちは神さまを信頼して進んでいける者とならせていただきたいものです。 ローマ人への手紙5章……アダムが不従順であったように、私たち人間はみな、神さまに不従順でした。それゆえに、さばきを受けるべき存在でした。しかし、イエスさまの十字架に至るまでの従順は、私たちすべてを義としてくださり、永遠のいのち、まことのいのちを与えてくださいました。 <祈りの課題>今サタンの試みにあって苦しんでいるすべての人のために。試練とともに脱出の道を備えてくださる主の恵みが現れるように。