048 2月17日 創50ルカ3ヨブ16-17Ⅰコリ4
創世記50章……ヨセフの仕返しを恐れた兄たちは、父ヤコブが言っていたと言って、ヨセフに赦しを請いました。ヤコブがほんとうにそう言っていたかどうか、ヨセフが兄たちのことばをヤコブのことばとして受け取ったかどうかまでは、聖書は明記していません。しかし、このように、父ヤコブの名をもって赦しを求める姿、そして罪を赦す姿は、罪を赦してくださる御父のゆえに赦し合うわれら兄弟姉妹の姿につながります。
ルカの福音書3章……バプテスマのヨハネは、人々に教えを宣べることで啓蒙しました。しかしこの啓蒙は、そのことばの実体であるイエスさまへと導く道となりました。バプテスマのヨハネは時の権力者の不法を告発して捕らわれの身となり、ついにはいのちを失いましたが、イエスさまに人々を導くとは、そのように、ことばだけではなく行いで示す生き方をすることです。
ヨブ記16章~17章……ついにヨブの祈りは神さまの全能の御手に挑戦する激しいことばとなりました。私たちはこのような祈りに眉をひそめたくならないでしょうか。しかし、このことばが堂々とみことばとして聖書に記録されていることの意味を、私たちは真剣に考える必要があります。神さまはこのような激しいことばで祈ることも受け入れられます。いえ、むしろ歓迎されます。
コリント人への手紙第一4章……愛のない教会にもし主が来られたならば、愛がないゆえのそれ相応のきびしいお取り扱いを受けることになるでしょう。反対に、教会に愛が満ちあふれていたならば、主はその愛を豊かに分かち合うべく訪ねてきてくださるでしょう。コリント教会は目に見える人であるパウロの訪問を恐れながら待つのではなく、愛と優しい心を分かち合うべく愛に満ちあふれるべきであったように、ましてや、目に見えないイエスさまを受け入れる私たちは、イエスさまは来るまいと安逸に過ごすのではなく、イエスさまがいついらして愛を分かち合ってもいいように、普段から愛に満ちた共同体として備える必要があります。
<祈りの課題>東京や大阪といった大都市のホームレス宣教の働きのために。
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