045 2月14日 創47ルカ1:1-38ヨブ13Ⅰコリ1
創世記47章……ヤコブは、自分の生きた130年の年月は、それでもわずかであり、多くのわざわいがあった(不幸せだった)と告白しています。そのようなヤコブでしたが、最高権力者であるファラオを祝福しています。私たち神の子どもたちは、実際の自分の生活を見るととてもみすぼらしいものであるかもしれませんが、そのような私たちでも、高い地位にある人たちをも祝福する権限が与えられているのです。謙遜になろうとも、卑屈になってはなりません。
ルカの福音書1章1節~38節……ザカリヤの身に起こったことは、一見すると不信仰に対する神のさばきのように見えます。しかし、奇跡が起こるというみことばを信じないということに関しては、私たちも五十歩百歩ではないでしょうか。それどころか、唯物論が絶対的なこの世においては、ザカリヤ以上に不信仰なのが私たちでしょう。そういう者はまず、神と人の前に口をつぐむことが求められます。ザカリヤに起こされたことはさばきではなく、自分のことばではなくてみこころにより深く耳を傾けるための、神さまのお取り扱いといえるでしょう。
ヨブ記13章……神さまが全能者、絶対者であることを根拠に、人を罪に定めるような試みをしばしば私たちはしていないでしょうか。それは苦しむ者からすれば、「無用の医者(以前の訳では「能なしの医者」のたわごとにすぎません。私たちはむしろ沈黙してでも、そのように苦しむ人のかたわらに寄り添うことが知恵あることです(5節)。
コリント人への手紙第一1章……宣教のことばは人間由来の緻密な論理からすると、非常に単純で、見ようによっては愚かに見えます。しかし、そのみこころにつまずかず、子どものように素直な心で神の国、福音、宣教、十字架のことばを受け入れる人が救われます。ゆえに、「神の愚かさは人よりも賢い」というレトリックが成り立つのです。
<祈りの課題>全国で展開する子ども宣教、教会学校の働きのために。
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