047 2月16日 創49ルカ2ヨブ15Ⅰコリ3
創世記49章……ヤコブは、12人の子どもたちそれぞれにふさわしい祝福を与えましたが、暴力沙汰に及んだシメオンとレビの子孫は、地を継ぐことがないという定めを受け取らざるを得ませんでした。実際、のちの時代にシメオンの領地はユダに編入されました。レビもやはり、地を継がずにイスラエルの中に散らされましたが、それは一見すると呪いのようでも、呪いとは彼らの怒りや憤りに対するものであり、レビ族はそのかわり、イスラエルを主の御前に導く献身者としての役割を果たすことになったのでした。
ルカの福音書2章……イエスさまは12歳、ユダヤの社会では立派な成人となられました。イエスさまはご自身のご意志で、というよりも、みこころのゆえに、主の宮にとどまってみことばを学ばれました。マリアはイエスさまがどのようなお方かしっかりわかっていれば、宮にとどまられたイエスさまを責めることは決してしなかったはずです。私たちも、イエスさまのご判断がしばしば、私たちの思いと一致しないで戸惑うことのあるものですが、私たちはむしろ、イエスさまの御思いに自分の思いを合わせる者となりたいものです。
ヨブ記15章……エリファズはヨブのことばに耐えられず、不法な者は神さまが必ず容赦されないと語ります。私たちは苦しむ者の極限の叫びを前にすると、それに耐えられずに、悪い者に対しては神さまのさばきが臨むといとも簡単に語ってはいないでしょうか。私たちのすべきことは、理屈で神さまのみこころをうんぬんすることではありません。
コリント人への第一の手紙3章……クリスチャンが堅い食物、霊的に深い奥義を語れる段階にないと判断される根拠は、お互いの間に派閥をつくり、争いが起こっている、ということです。そういう争いを起こすことは、自分(たち)こそ神の知恵に通じていると思い込むことに端を発するわけですが、私たちはそのように、自分を賢いと思ってうぬぼれるのではなく、自分はまだまだみことばに教えられなければならない愚かな者だと認めて謙遜になることが必要です。
<祈りの課題>教会内に争いや派閥が起きていて苦しむすべての牧会者のために。
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