058 2月27日 出10ルカ13ヨブ28Ⅰコリ14
出エジプト記10章……ファラオの家臣たちにも創造主への恐れがわき上がっていました。彼らは、イスラエル人(ヘブル人)が行って主に仕えるのがみこころであり、それを妨げつづけることはエジプトを滅ぼすことである、どうか翻意していただきたい、と、ファラオに迫りました。ファラオは、自分が神にも等しい存在だとうぬぼれていたようですが、ファラオの家臣たちにとっては、もはや恐れるべきはファラオではなく、創造主なる神さまでした。
ルカの福音書13章……狭い門というものは、人気があって大勢が詰めかけるから結果的に狭くなる門ではありません。人目につかない、人気がない、そんな門で、しかも見つけたら見つけたで、身をかがめてくぐらなければならないものです。イエスさまはご自身を、羊の門であるとおっしゃいましたが、ほかの神々や生き方ではない、イエスさまを通ってこそ、人はまことの救いに至ることができます。
ヨブ記28章……ヨブは苦難の中にあっても、最も貴いものが神の知恵であることを知っていました。貴金属は地の深み、溶岩が逆巻くような中から掘り出しますが、それにもまして人目につかないところに神の知恵はあります。その道は神さまが知っておられるゆえ、人がその知恵にたどり着くには、神さまの導きをいただく以外にありません。
コリント人への手紙第一14章……異言で祈ることは結構であるとパウロは語りますが、祈る姿が人々の目に霊的に映るわりにはことばが不明瞭であるゆえに、教会内に混乱が巻き起こるようではいけません。私たちは「霊的」な姿を人々に見せることで特定の人が褒められる教会形成を目指すのではなく、語ることばで人々の徳が高まり、キリストの愛で愛することを実践し合う教会形成をすべきです。くれぐれも異言というものが、そのような教会形成の妨げとならないように、秩序正しく用いたいものです。
<祈りの課題>私たちそれぞれの住む町で宣教の働きが前進するように。
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