056 2月25日 出8ルカ11ヨブ25-26Ⅰコリ12
出エジプト記8章……ファラオは何に対して心を頑なにしたのか、それは、イスラエルが所定の場所でいけにえをささげることに対してでした。ファラオはイスラエルに対し、礼拝することは許しても、あくまでそれはファラオの認める流儀で、ということでした。しかしモーセはそれを拒否しました。ファラオの認める流儀の礼拝を受け入れることは、神さまよりもファラオを上に置き、ファラオの言うことに優先して従うことになるわけで、イスラエルとしてはそれは絶対にできないことでした。
ルカの福音書11章……イエスさまがこれほど口を極めてパリサイ人、律法の専門家たちをののしられた、この箇所はだれよりも私たちと、深い関係のあるものです。私たちがもし、自分にはみことばを読み解く力が与えられていると自負しているならば、私たち自身がパリサイ人になるのです。私たちはパリサイ人に関するイエスさまのみことばをお読みするとき、自分がパリサイ人でなかったことに安堵するのではなく、自分こそがこのイエスさまの批判された行いをしているかもしれないと、自らを省みる者になりたいものです。
ヨブ記25章、26章……ビルダデは神を知っているかのように、神の前で人間はうじ虫であると言い放ちます。しかし、そのようなことばは相手をさばくだけで、ヨブの苦悩の深さに比べれば浅薄な人間理解でしかありません。私たちは苦悩の深みに陥ると、神さまとそのみわざを見失うことも有り得ます。しかし、そういう人を不信仰だからと責める権限は人にありません。
コリント人への手紙第一12章……私たちは、御霊の働きが教会に現れることを期待し、祈る必要があります。私たち個人に御霊の現れがあり、さまざまな賜物が与えられるとき、その賜物が生かされる場は個人的な生活環境ではなく、教会という主の共同体であるべきです。
<祈りの課題>全国の教会で行われる祈祷会において、みこころにかなう祈りがささげられるように。祈りをとおして日本のクリスチャンたちが力を得られるように。
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