投稿

6月, 2021の投稿を表示しています

178 6月27日 申32詩119:121-144イザ59マタ7

申命記32章……主のみこころは、罪を犯したイスラエルに対するさばきでした。しかしそれを主が思いとどまられたのは、敵のののしりのため、主の敵によってご自身のご栄光がいたく汚されないようにするためでした。罪深い私たちがその罪にしたがってさばかれることがないのは、私たちが素晴らしいからと思ってはなりません。すべては主のご栄光があらわされるゆえで、私たちはすべてのご栄光を主にお帰しする必要があります。 詩篇119篇121節~144節……不法とは、神さまのみこころ(法)に反することです。しかし、この不法というものは莫大な力を持ち、世を支配します。世間は同調圧力その他で、人を不法へといざないます。この不法から守られるには、人間の努力では限界があります。神さまの恵み、守ってくださる御手を必要とします。私たちはそれゆえ、もし神さまのみこころどおりに生きたいと願うならば、不法から守ってくださいと神さまに祈る必要があります。 イザヤ書59章……主は、公正の行われない暗闇の世界において、とりなす者がいないことに「唖然とされ」、ご自身の御腕で民を救われました。私たちはこの主のみこころを、どのように受け取りますでしょうか? 私たちはこの世界を見て、ただ嘆き悲しんだり、あるいは何とも感じなかったりするのみでしょうか? 私たちはいまこのときこそ、とりなしの祈りに献身する必要があります。 マタイの福音書7章……偽預言者は口では(あるいは文書では)立派なことを語るので、人々は騙されます。中にはその偽預言者のことばにいやしのようなものを感じる人も出てくるでしょう。しかし、実際に結んでいる実が暴力的だったり、いやらしかったり、不自由と搾取に満ちたものだったりするならば、その指導者は偽預言者、火と硫黄の池がふさわしい者です。私たちがもしその偽預言者を見分けられず、彼らもキリストのからだのひと枝だからと恭順を示すことをやめないならば、私たちもその偽預言者をつけあがらせた責めを負うことにならないでしょうか。この点で私たちは厳しくなるべきです。それは、主のご栄光のためです。 <祈りの課題>日本と世界の教会の中に隠れている偽預言者たちが明らかにされ、虐げられている信徒たちが解放され、いやされますように。

177 6月26日 申31詩119:97-120イザ58マタ6

申命記31章……イスラエルの民がカナンに入るという主のみこころは、「主ご自身が先立って進んで行かれる」ことによって実現します。すなわち、民の力によるのではなく、主ご自身の御力が先にあって実現するものです。私たちの歩みもそうです。私たちも主のみこころを成すとき、それは自分の力によってすることで成功させるのではなく、主が先立ってみこころを成してくださるゆえにそれが成功するという信仰を保ってまいりたいものです。 詩篇119篇97節~120節……主のみおしえを愛するということは、主のみおしえが自分の思いとなることによって結実します。私たちの思うことがみな、罪深いこと、肉に属することではなく、主のみおしえとなるのです。そうなると私たちは賢くなり、危うい道に足を踏み入れることはなくなります。私たちはどれほど、主のみおしえに教えられることを喜びとしているでしょうか? イザヤ書58章……たとえ宗教行為(このみことばの場合は断食)をしていたところで、みこころにもとることをしているならば、かえってその宗教行為は忌まわしいものです。主は、弱者や困っている人を顧みるという実践を行う、そのために、食を断ってきつい思いをするような犠牲を払うことこそ、ご自身が好まれ、受け入れられる「断食」であるとおっしゃいました。私たちの信仰生活はもしかして、その生活そのものが目的になり、隣人を愛する実践のまるで伴わないものになっていないでしょうか? マタイの福音書6章……お祈りが長くなる理由が、神さまに真剣に向き合うためならばもちろん素晴らしいことですが、それが人に見せるため、長いお祈り、「ホーリーワード」を繰り返す「敬虔な」お祈りをして、いかにもこの祈り手は素晴らしいクリスチャンだ、という印象を与えようとするためならば、それは忌まわしいものです。お祈りは長ければいいというものではありません。私たちのお祈りの語彙を考えましょう。余計なことば、よくよく突き詰めれば言わなくてもいいことばで飾って、そのようなお祈りにうぬぼれたりしてはいないでしょうか? <祈りの課題>私たちの祈りのことばが、みこころにかなうものとして整えられますように。

176 6月25日 申30詩119:73-96イザ57マタ5

申命記30章……もし、主のご命令に背いてそれ相応の懲らしめを受けたとしても、民が悔い改めて主に立ち帰るならば、主は必ず民を回復させてくださいます。この主の掟なるみことばは、私たちのすぐ近くにあり、必ず守り行えるものであると主は約束してくださっています。そのみことばを守り行ういのちの道を選ぶことを、主は私たちに求めていらっしゃいます。 詩篇119篇73節~96節……92節。主のみ教えとは罪人にとっては、滅びに至らせる苦しみのことばです。しかし私たち主の民は、主のみことばのみ教えを喜びとする特権をいただきました。私たちは滅びないのです。それどころか、このみことばによって生き、みことばを永遠に喜ぶものとしていただいているのです。 イザヤ書57章……主が住まわれる住まいは、砕かれた人、へりくだった人がともに住むことの許された住まいです。主がともに住んでくださる、なんという祝福、なんという恵みでしょう。私たちがもし、聖なる主とともに住まうことを心から願っているならば、砕かれること、へりくだることを恐れてはいけません。それは自分の弱さ、罪、恥ずかしいものに向き合う、きついプロセスではありますが、それを経ることで私たちのうちから罪の夾雑物は取り除かれ、主とともに住まうにふさわしい者としていただけます。 マタイの福音書5章……私たちが世の光であるということは、聖霊なる神さま、イエスさまを証しする霊の炎が燃やされて、その光が闇の世に照らされる、ということです。そのともしびを升の下に置いたら、見えないだけではありません。ともしびの火は消えてしまうのです。ともしびを隠すような生き方をする者には、御霊の油注ぎはありません。私たちがもし、主に用いられたいと願うならば、人々の前で御霊の炎を燃やせるように、大胆さが与えられるように祈る必要があります。 <祈りの課題>私たちが罪や弱さを明らかにされようとも、そこから逃げないで向かい合い、主のお取り扱いの中できよめられ、強くされていきますように。

175 6月24日 申29詩119:49-72イザ56マタ4

申命記29章……主のみこころの示されているみことばは、私たち神の民が守り行うためのものです。このみことば、のろいの誓いの言葉を聞いても、自分の心のままに歩むならば、主はそのような者を決してお赦しになりません。どんな小さな戒めでも、それを破るように教える者には、天の御国はふさわしくありません。 詩篇119篇49節~72節……主の御前に高ぶる者は、主のしもべを嘲ってはばかるところを知りません。そのような者に対して怒りを覚えるのは、正当なことです。なぜならば彼らは、主の御目には悪しき者であり、主の御教えを捨てている者だからです。主は、そのような者たちの攻撃から、私たち主の子どもたちのことを守ってくださいます。 イザヤ書56章……異邦人として生まれ育つことも、宦官のような人生を送らされることも、宿命のようなものとして受け止めると、もはやどこにも救いはありません。しかし主は、そのような者を救ってくださるお方であり、そのような者も安息日を守れる、主の喜ぶことを行えると、約束してくださいました。私たちもそのようにして、主の喜びとしていただいた存在です。 マタイの福音書4章……イエスさまが全能なる神さまなら、いまさら世界のすべての栄華など必要なかったのではないかと思うでしょうか。しかし、世界のすべての栄華がサタンの支配下にあった、ということに注目しましょう。その栄華の背景に、環境汚染もあったでしょう。いえ、それ以上に、人々からの搾取、虐待、犯罪、性的逸脱……あらゆるよくないものが、その栄華に垣間見えるしかなかったのではないでしょうか。しかし、そのようなものを解決するために、悪魔にひれ伏すことは、イエスさまには一切できませんでした。イエスさまはサタンにひれ伏したのではなく、十字架におかかりになることによって、サタンに勝利されたのでした。 <祈りの課題>救われないことを宿命のように受け止めている人たちも、救いを受け取ることができるように。

174 6月23日 申28:20-68詩119:25-48イザ55マタ3

申命記28章20節~68節……イスラエル、主の民が主に聴き従わなかった場合、どのような呪いが民に臨むかが具体的に、これでもか、これでもかと書かれています。これほどのことは一つとして起こってほしくないことですが、注目すべきは63節、「かつて、主があなたがたを幸せにし、あなたがたを増やすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれる」というみことばです。たとえ、主がお選びになり、愛しておられる民であったとしても、不従順で反逆するならば、主の正義が成し遂げられるために、さばきを下されることを「喜ばれる」という、このみことばに、私たち主の民は粛然とさせられます。従順の生き方を目指していくゆえんです。 詩篇119篇25節~48節……主の仰せは喜んで受け入れ、お従いすべきものです。詩人は主の仰せを「愛している」とさえ告白します。主のみことばに従順になるためには、何よりも、主の仰せを「愛する」ことが必要となります。私たちは機械的に主のみことばに従順になることはできません。必要なのは、神さまとそのみことばに対する「愛」という動機です。 イザヤ書55章……主の祝福は、金を払わないででも自分を養うために必要な穀物が手に入れられるように、神さまがただで私たちに下さるものです。ただし、ひとつだけ条件があります。それは、私たちが神さまのみことばに耳を傾け、そのみことばに従順にお従いすることです。みことばに聴くならば、人は生きます。 マタイの福音書3章……パリサイ人やサドカイ人もバプテスマを受けにヨハネのもとにやってきましたが、ヨハネは彼らに対し、悔い改めにふさわしい実を結べと一喝しました。彼ら宗教指導者たちは単に自分たちの宗教的地位に箔をつけるためくらいにしかバプテスマを考えていなかったのでしょう。しかし、私たちはそれではいけません。バプテスマを受けているならば、それにふさわしい悔い改めの生活をし、その悔い改めにふさわしい実を生活の中に結んでしかるべきです。 <祈りの課題>私たちが今日示されるみことばを、具体的に生活に適用して守り行う従順の生活を、私たちの周りの兄弟姉妹がしていくことができますように(10人の兄弟姉妹の名前を挙げて祈りましょう!)。

173 6月22日 申27-28:19詩119:1-24イザ54マタ2

申命記27章~28章19節……主の祝福が神の民に臨むかどうかの原則は、きわめて単純なものです。主の御声、すなわちみことばに聴き従うならば祝福されます。それも、生活のあらゆる分野において祝福されます。反対に、みことばに聴き従わないならばのろいを受けます。もし、私たちが神さまに祝福されたいと願うならば、みことばを聴いてそのみことばにお従いすることです。 詩篇119篇1節~24節……若者たちには多くの誘惑があります。主の願っていらっしゃるきよい道を保つことは難しいことです。しかし、9節から11節のみことばにあるとおり、心を尽くして主を求め、主のみことばを心に蓄えるならば、主は若者たちのことを、誘惑、罪の歩みから守ってくださいます。私たちは心から主を求め、みことばを心に蓄えているでしょうか。 イザヤ書54章……神の民イスラエルは、生涯の連れ合いにもなぞらえられる神さまを捨てるという選択をし、その結果、大いなる罰を受けました。しかし、神さまはいつまでも怒らず、御民を回復させ、受け入れてくださると約束してくださいました。私たちも罪を犯すことはあります。しかし、神さまを恐れるあまり、御顔を避けて自分勝手な行動に没頭するのは最もしてはならないことです。豊かに赦してくださる神さまのもとに立ち帰るべきです。 マタイの福音書2章……東方の博士たちがささげた宝物、黄金と乳香と没薬は、黄金のような栄光に輝く王、乳香のごとく祈りの香りを神の前にささげる祭司、没薬が死者に塗られるように、語るみことばとそのみことばを守り行う実践のゆえにいのちをささげる預言者を、それぞれ象徴しています。このように、礼拝の本質、イエスさまがどのようなお方かを理解していた礼拝者は、ユダヤの宗教社会からは現れず、彼らユダヤ人がさげすんでいた異邦の民、異教の民から現れたのでした。私たち日本人も異邦、異教ですが、そのことに劣等感を覚える必要はありません。私たちも、東方の博士たちにようにならせていただけるのです。 <祈りの課題>聖書の世界から見れば異教社会のような日本から、東方の博士たちのような真実な礼拝者が起こされていくように。

172 6月21日 申26詩117-118イザ53マタ1

申命記26章……十分の一のささげ物は、レビ人(主への献身者)、寄留者、孤児、寡婦のためのものであるとあります。これは今日における「十一献金」の根拠と運用の基準となるのではないでしょうか。みな、労働ができないという点で共通しています。労働をしない人を共同体は養う責任があり、その責任を共同体が果たすとき、共同体は祝福されます。 詩篇117篇~118篇……私たちはときに、主の厳しい懲らしめにあうことがあります。しかし、それは私たちを殺してしまうためではありません。かえって、私たちが生きるためです。私たちは懲らしめをとおして、肉の性質が取り除かれ、主のきよさにあずかるようになります。懲らしめは私たちにとって感謝なことです。 イザヤ書53章……イエスさまの十字架の予告です。4節にありますとおり、イエスさまが十字架につけられるためにゴルゴタの丘を上って行かれたとき、沿道の者たちはどれほど、イエスさまが神さまに見捨てられ、呪われた者となったかのように言ったことでしょうか。しかしイエスさまは、そのような私たちの罪のために十字架で砕かれ、刺し通されたのでした。 マタイの福音書1章……イエスさまのお誕生の背景には、不寛容な人間社会の偏見というものがありました。ここではマリアとヨセフの夫婦は、世間的には婚前交渉のすえの妊娠としか見てもらえなかったような弱者としての生き方を、あえて選び取りました。しかし、彼らが潔白だったことは、自分たちがいちばん知っている以上に、神さまがご存知でしたし、その事実は2000年にわたって聖書が証言するとおりです。厳しい従順は、肉体をとられた神であられるイエスさまのご存在を、この地上に送り出す原動力となったのでした。 <祈りの課題>養子縁組の働きのために。

171 6月20日 申25詩116イザ52黙22

申命記25章……脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない、ということは、脱穀している間に牛がその穀物を口にしないようにしてはならない、ということです。しかし、このように牛という家畜に対してやさしい律法が定められたのは、神さまが牛のことを気にかけられているからではなく、その律法の背後にある、働き人に対する主のみこころを示していらっしゃるからです。働きに専心させて、その働きの中から得られるわずかな役得さえ制限するような労働を強いることは、私たち主の民の間ではふさわしくないことです。 詩篇116篇……「私は主を愛している」と告白できる人はなんと幸いなことでしょうか。それは、主が自分のことを愛し、守ってくださっているということがわかることと同じくらい幸いなことです。まことに、主と私たちのお互いの間に愛の交わりがあること、これこそが「キリスト教」と呼ぶべきものです。 イザヤ書52章……私たちはただでサタンに売られた存在です。サタンは私たちを自分のものとするにあたり、何も私たちにくれないまま、自分のものにしてしまいました。しかし神さまは、私たちが身代金を払うこともなくて、すなわちただでご自身のものになるように、私たちのことを神さまのものにしてくださいました。しかし、神さまが払ってくださった身代金は、イエスさまの十字架の血潮です。何よりも貴い存在です。 ヨハネの黙示録22章……聖書に何かつけ加える者には、聖書に展開するあらゆるわざわいが下されます。聖書から何か引く者は、聖書に約束されているいのちの木と聖なる都にあずかることはできません。この警告はなんと無視され、純粋な聖書信仰がないがしろにされてきたことでしょうか。しかし、私たちは神さまを恐れるならば、18節、19節のこのみことばゆえに神さまを恐れて聖書信仰に専心し、聖書に書かれているとおり、イエスさまが再び来られることを心から待ち望みたいものです。 <祈りの課題>主イエスよ、来てください! と祈りましょう。

170 6月19日 申24詩114-115イザ51黙21

申命記24章……神さまはご自身の民に、寄留者や孤児、寡婦のような、社会的にとても弱い立場にある人たちを充分にケアするようにと命じられました。それは、彼らイスラエルもかつてエジプトにいたときには弱者の立場にあったからだということです。私たちは富む者となったとき、なんと、弱い立場にある人たちのことを忘れてしまうような自己中心の者たちでしょうか。私たちはそのような自分たちであることを認め、少しでも弱者に対して手を開く者でありたいものです。 詩篇114篇~115篇……偶像とは木や石に刻んだものはもとより、「人の側だけで」神扱いする存在がことごとくそれにあたります。天地万物を創造された創造主は、そのような「偶像」(人間のつくり出した神的イメージ)とは一切関係なく、また、それらの神的イメージは決して、人間にいのちも、神との交わりも与えません。 イザヤ書51章……神さまはご自身の民を慰めてくださるお方であり、私たち神の民はその慰めをいただくかぎり、何ものをも恐れる必要はありません。もし、私たちが神さま以外の何ものかに対して強い恐れをいだいているならば、それは私たちが、神さまとの交わりに欠けているという証拠です。何ものをも恐れないために、神さまとの交わりに専念する者となりましょう。 ヨハネの黙示録21章……私たち人間は、だれもが天国に入れると思ってはなりません。よく、亡くなった人のことを指して、「天国の○○さんが……」というような言い回しを人はするものですが、子羊の血を携えている人、すなわち、イエスさまの十字架を信じ受け入れている人でなければ、天国には入れません。ここを私たちは間違ってはなりません。 <祈りの課題>私たちの日々の神さまとの交わりが祝福されますように。

169 6月18日 申23詩112-113イザ50黙20

申命記23章……ここでは、主が定められたさまざまな倫理的な規定が述べられていますが、それは主が聖であるゆえにあなたがた主の民も聖であれ、という原則が前提となっています。決してそれは、あたかもパリサイ人のごとく、罪の中に生まれた人を差別して、自分たちはきよいと悦に入るためではありません。そればかりか、あらゆる律法の規定をイエスさまが十字架の上で成就された今となっては、肉体的な欠陥や、出生や、民族といった、宿命ともいうべき人の条件はすべてクリアされており、だれに対しても救いの門は開かれています。この箇所だけを取り上げて、聖書は差別を容認していると誤解してはなりません。 詩篇112篇~113篇……この詩篇が書かれた当時、子どものいない女性は極めて肩身の狭い思いをさせられていました。現代においてはそれほどではありませんが、それでも、子どもを持ちたくても持てない(持てなかった)女性の思いは察するに余りあります。しかし、教会という主の民の共同体に属するかぎり、その共同体の子どもたちは、自分の子どもとみなしてもいいのです。なぜなら、肉の家族以上のきずなで結ばれた、霊的な家族だからです。 イザヤ書50章……4節では、主がイザヤに「弟子の舌」(韓国語の聖書では「学者の舌」)をお与えになったことが語られています。弟子の舌をもって人を励ますというわけです。まことに主の弟子とは、人を励ます人です。その励ますという行動の実を私たちが結ぶために、朝ごとに弟子として師である主から聴くようにしてくださいます。主の弟子が朝ごとにディボーションをする必要があることが、このみことばからも立証されます。 ヨハネの黙示録20章……第一の復活にあずかるキリスト者は、キリストとともに王となるゆえに幸いです。キリストにつかない罪人は永遠にさばかれ、火の池に投げ込まれて昼も夜も苦しみを受けます。私たちはそのさばきを恐れるにふさわしい言動をつねにしていますでしょうか。 <祈りの課題>私たちの毎日のディボーション生活が祝福されますように。

168 6月17日 申22詩110-111イザ49黙19

申命記22章……多くの「すべからず」の規定の中に、「女は男の衣装を身に着けてはならない、男は女の衣服を着てはならない」とあることは、注目に値します。聖書にこのように書かれていることは、ジェンダーレスということを考えるうえでひとつの基準を提供してはいないでしょうか。女装家というジャンルがひとつの地位を得ているこんにちにおいて、私たち聖書の民はどのような基準をもってこの世界を見る必要があるでしょうか。 詩篇110篇~111篇……主を恐れることは知恵の初めですが、それがほんとうにその人の知恵となり、その人が賢明さを得るには、その知恵を「行う」ことが必要になります。もし人に、聖なる主の御名を心から恐れる思いがあるならば、主の知恵なるみことばを守り行いたいという思いが生まれてきます。 イザヤ書49章……ひとたび私たちのことを救ってくださった主は、私たちのことを決してお忘れになることはありません。それは、子どもを身ごもり、産んで育てる母親が、その子どもを忘れることがないこと以上に真実なことです。私たちは何かあったとき、いともたやすく、主がわたしのことをお忘れになった、とか、私はもう神さまに見放された、などと思ったり、口にしたりしてはいないでしょうか。そのようなとき、この15節、16節のみことばを思い出しましょう。 ヨハネの黙示録19章……ヨハネはみことばを伝えてくれた御使いを礼拝しようとしましたが、御使いにそれを戒められました。このことから、この御使いはイエスさまではなく、正真正銘の「御使い」であることがわかるわけですが、人はなんと、みことばなる主ご自身よりも、みことばを伝える主のしもべを聖なる存在として扱い、崇敬の対象にすることで、自分が敬虔な礼拝者であると思いたがることでしょうか。私たちがほんとうに、主にあっては兄弟姉妹に上下はないと思っているならば、「有名な」牧師やクリスチャンをまるで聖人のように扱うのはやめるべきです。 <祈りの課題>信仰心を失いつつある兄弟姉妹が、それでも愛してくださる主の愛に心を留め、信仰が復興しますように。

167 6月16日 申21詩108-109イザ48黙18

申命記21章……イスラエルの共同体において、死に値する罪に対して下す処罰は基本的に「石打ち」です。木に掛けて死ぬまで放置する処刑方法は、もっとも呪われるべき者に対してなすべきことです。しかしユダヤ(イスラエル)の宗教共同体は、一切罪のないイエスさまのことを木に掛け、呪いを受けるべき存在として扱いました。それはどれほどの罪だったことでしょうか。 詩篇108篇~109篇……罪人たちは善良なキリスト者の歩みを呪います。しかし、その呪いは決して有効とはなりません。なぜならば、主ご自身がその呪いに変えてキリスト者を祝福してくださるからです。そのように迫害を加える者たちはやがて恥を見、その者たちの迫害の手から貧しい者たちは主の御手によって救い出されます。私たちはそれゆえ、この地上で苦しい思いをさせられているからと、希望を捨ててはなりません。 イザヤ書48章……主の民はその救われた身分にふさわしくなく、頑なでした。本来はそれだけでも救われるにふさわしくない充分な理由になるものでしたが、主はイスラエルの民を救ってくださいました。それは、救い主である主ご自身のご栄光のためであって、彼らが善良だからではありませんでした。私たちが自分の善良さではなく、いつどんなときも主に拠り頼む必要があるのが、このことからも明らかです。 ヨハネの黙示録18章……この世にあらゆる富と繁栄を供給する大バビロン、反キリストは、終わりの日には大いなるさばきを受けます。私たちはそのとき、その滅亡を見て嘆く者となるでしょうか、それとも、喜ぶものとなるでしょうか? 大バビロンはイエスさまを十字架につけた張本人であり、その生み出した産業や文化によってどれほど多くの人がキリストから離れる選択をしてきたかを考えるならば、私たちは、大バビロンの滅亡を歓迎すべきではないでしょうか。 <祈りの課題>私たちがもし、この世に属する悪い文化に染まることを捨てきれていないならば、主の恵みによってそこから離れることができますように。

166 6月15日 申20詩107イザ47黙17

申命記20章……主の戦いに臨む者は、あくまでも戦いそのものを優先させるべきではないというのが、主のみこころです。主にささげる権利や、主にあって結婚する権利が、にわかに起こる戦争のために犠牲になってはならないわけです。私たち主の民も臨戦態勢にありますが、そのような中で、自分の守るべきものがある人は、それを教会生活のために犠牲にするようなことがあってはなりません。 詩篇107篇……人は愚かなので、わかっていても罪を犯すことを選んでしまいます。それゆえに、そのような愚か者には主の御手が臨みます。しかし、その苦しみの中で主に叫び求めることのできる人は幸いです。主はその叫びを聞いてくださり、御手を伸ばしてその人を苦しみから救い出してくださいます。 イザヤ書47章……主はご自身の民を懲らしめ、きよめられるために、あえてご自身に敵対する者たちの手を動かされることがありますが、最終的に主は、そのような者たちのことをその傲慢さゆえにおさばきになります。彼ら主に敵対する者どもは、この世の栄華を誇っても、いつまでも永らえることはありません。 ヨハネの黙示録17章……この世の勢力は破壊と破滅へと世界を導きます。彼らは世界平和を口では唱えますが、最終的に彼らのもたらすものはどれほど悪魔的なものでしょうか。しかし私たちが覚えておくべきことは、それらの世界的な反キリストの勢力を通してさえも、主はご自身のみことばを成就されるということです。 <祈りの課題>教会生活の中で、主にあって許されていることが犠牲にされることのないように。特に、奉仕に集中させられるあまり、結婚が後回しになってしまう兄弟姉妹がこれ以上生まれることがないように。

165 6月14日 申19詩106イザ46黙16

申命記19章……のがれの地が制定された理由は、ただでさえ流された血に無意味な復讐を加えてはならないためです。不可抗力によって死ぬことと故意によって殺されることとは、しっかり区別しなければなりません。だれでも、人によって血を流されることは耐え難いものですが、主はそのような過失をしてしまった人のこともケアするようにというみこころを、イスラエルの信仰共同体に対して示していらっしゃいます。故意でなくて人を傷つけてしまった人を過度に責めることは、主の願っておられることではありません。 詩篇106篇……主の民は主に救っていただいた存在であるにもかかわらず、何度となく主に逆らい、主ではないものを神としました。主はそのたびに、民に懲らしめの御手を伸ばされましたが、民がその苦しみのゆえに主に叫ぶと、主は彼らの苦しみに目を留めてくださいました。私たちも主に対する忘恩の行いにとどまるなら、懲らしめの御手は臨み、私たちもまた苦しみます。しかし、私たちはそのとき、主に叫ぶという道が残されているゆえに、幸いです。 イザヤ書46章……偶像の神々は、せいぜい家畜の背中に運ばれて動くぐらいのもので、間違っても私たちのことを背負ってくれたりはしません。私たちのことを背負ってくださり、いのちの道へと導いてくださるのは、私たちを創造し、救ってくださり、今もなおともに歩んでくださる、まことの主なる神さまだけです。 ヨハネの黙示録16章……7つの鉢のさばきです。出エジプトに際して、主がエジプトを打たれた十の災害に似ています。しかし、そのときにもファラオの心がかたくなになったように、地に住む者たちはこのわざわいを下される創造主に立ち帰り、その御名をほめたたえるどころか、かえって御名を冒瀆します。罪人がそのように歩むしかなく、ついには滅びるとはなんとも哀れな話ですが、そのような中から一人でも救われるように、私たちは祈ってみことばを伝える必要があります。 <祈りの課題>私たちの周りの、キリストに敵対する歩みをしている人たちが一刻も早く悔い改め、神さまの民となりますように。

164 6月13日 申18詩105イザ45黙15

申命記18章……いかにも説得力ありげ、霊的に「見える」指導者が、主のみこころはこうであるとばかりに自信たっぷりに告げ、万一その告げたとおりにならなくてもそのことばの責任を取らないケースが跡を絶ちません。しかし、そのような指導者はいかにキリスト教会において定評を得てきた指導者であったとしても、もはやそのことばに耳を傾けてはなりません。彼らを恐れることは、主の油注がれた人を恐れる、ゆえに主を恐れることだなどと、私たちはもはや考える必要はありません。彼らを恐れてはならないことは、主のみこころです。 詩篇105篇……主はアブラハムと契約を結ばれ、その契約のゆえに御民を覚えてくださいました。彼らは国々を受け継ぐように主は定めてくださいました。しかしそれは、彼らが好き勝手に生きるためではありません。御民にふさわしく、主のおきてを守り、そのみおしえを保つことで、その与えられたどこの地においても主のご栄光を顕すためです。私たちもこのようにこの地に住んでいるのは、安逸をむさぼるためではなく、主に従順になる歩みをもって主のご栄光を顕すためです。 イザヤ書45章……私たちの信じお従いする主はすべてを創造された創造主でいらっしゃいます。それゆえに、この地上ですべて神(神々)と呼ばれているものは神ではなく、したがって礼拝の対象としてはなりません。ここに、私たちが地の果てまでも主のみことばを宣べ伝える根拠と責任があります。私たちが主の民であることを誇りとするならば、人々に主を宣べ伝えてこそその生き方には意味があるのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録15章……主はあがめられるべきお方です。なぜなら、この地を究極的にさばかれる、唯一のさばき主でいらっしゃるからです。世界に住む私たち、主にある教会姉妹は、それゆえに主を礼拝し、主に敵対し、主のしもべに迫害を加える勢力に対して、主のさばきがすみやかに降ることを祈り、主に賛美の歌をおささげするのです。 <祈りの課題>私たちの住む町、私たちの一族、私たちの友人関係から、偶像礼拝から主へと立ち帰る人がひとりでも起こされますように。

163 6月12日 申17詩104イザ44黙14 

申命記17章……主ははじめてイスラエルに王が鼎立されるよりもはるか以前に、イスラエルに王が立てられる場合について語っていらっしゃいます。ただしイスラエルの王は、異邦の王のように、兵力や後宮や財力を誇りとする存在ではなく、主のみことばに教えられることがそのアイデンティティであるべきです。そのような王は神さまによって立てられます。世の者たちがつきたがる王座とは根本から異なるものであり、主の共同体においてリーダーになるということは、そのようにこの世の権力を誇りとするのではなく、みことばに生涯教えられる存在となることを心得る必要があります。 詩篇104篇……農業をはじめとした私たち人間が生産するものの背景、また森羅万象には、創造主なる全能の神さまが介在していらっしゃいます。この事実に気づかされるとき、私たちの心は謙遜にならないでしょうか。私たち人間は自分で生産しているつもりになったり、この世界のあらゆることを見極めているつもりになったりしていますが、すべては創造主なる神さまの御手のもとにあると認めるのと認めないのとでは、あまりにもちがいます。私たちは万事に神さまのご存在を認め、神さまにお従いする、主の民としてふさわしい者として成長しますようにお祈りします。 イザヤ書44章……創造主と被造物はあまりにも異なります。被造物は創造主がおられてはじめて存在するものであり、創造主は被造物がなくても存在されます。しかし、人間は実に愚かなことに、火で燃やして生活の足しにする材木を用いて偶像をつくり、拝みます。創造主なる神さまを捨て、自分よりも劣る被造物を拝むのです。私たち主の民はそれではいけません。いつも、どんなときも、創造主なる神さまの御前に礼拝をおささげし、偶像を遠ざける者となりたいものです。 ヨハネの黙示録14章……地から集められた礼拝者、14万4000人は、主の御前で新しい歌を歌いました。それはまるで大水のとどろき、激しい雷鳴のようでしたが、しかしそれは竪琴に合わせて歌われる美しい歌でもありました。その歌はこの、地上から贖われた14万4000人のほかは学ぶことができなかった、とあります。現代でも同じことが起きていないでしょうか。私たちの歌う賛美に、世の人たちは魅力を感じず、見向きもしません。しかし私たちはその歌を御霊に満たされ、喜びいっぱいに歌います。選ばれた人だけがこの天上の賛...

162 6月11日 申16詩103イザ43黙13

申命記16章……主に礼拝をおささげする祭壇のそばにアシェラ像を立てることにそれなりの根拠があるとすれば、その入っていった土地カナンの風習を理解しようとすることでしょう。しかし、それは人間的な動機にすぎず、そのようなヒューマニズムに名を借りた偶像礼拝を主は忌み嫌われます。主に対する私たちの礼拝は、どこまでの純粋なものでなければなりません。 詩篇103篇……主は正義のお方であられるゆえに、私たちは本来、自分の犯した罪にしたがってさばかれるべき存在でした。しかし、主はあわれみ深いお方であられるゆえに、私たちを犯した罪に従っておさばきになることはありません。これが主の恵みであり、その恵みを施してくださることこそ、主が私たちに「良くしてくださったこと」で、忘れてはならないことです。 イザヤ書43章……イスラエルの民は主に贖われた民であるにもかかわらず、長い時間にわたって、主と交わした約束を守らず、主に背くことばかりでした。しかし主は、この主の民の罪を思い出さない、赦してくださることを宣言されました。それは、「わたし自身のため」、すなわち、この民をご自身の民とすることがみこころであったご自身のご栄光のためでした。主の民はそのような、主のご栄光にかかわる恵みをいただいています。 ヨハネの黙示録13章……この世的な権威に満ちたものは、人々の礼拝を誘発するような「霊的な」魅力を備えているものですが、そのようなものはいかに力があるように見えようとも、拝むべき対象ではありません。それを拝む人は主に選ばれていない人であり、むしろ主に敵対する勢力を形づくります。私たちがそのような勢力から救われていることは感謝なことですが、終わりの日が来る前に、一人でもそのような反キリストの勢力から人々が救われるように、人を愛する心を求め、伝道に励んでまいりたいものです。 <祈りの課題>私たちの罪を赦してくださる主の恵みに、今日も心を留めるものとなりますように。

161 6月10日 申15詩102イザ42黙12

申命記15章……この箇所をお読みすると、弱い立場にある人に対して好き勝手なことをするのが当然と見なされるような人間の社会で、主はどれほど、奴隷や貧しい同胞のような弱い立場の人に目を留められ、そのような彼らが充分に養われるように、自由を享受できるように、イスラエルの民を動かしていらっしゃるかを見ることができます。まことの主の民の旗印は、リッチになることのような現世利益的なものではなく、弱い立場にある人を助けることで主のみこころを成し遂げることにあります。 詩篇102篇……苦しむ者は渾身の力を込めて主に叫びますが、その人は絶望してはいません。なぜならば、主がそのような者の祈りをないがしろにされることはないことを知って祈っているからです。私たちも時に大いなる苦しみを体験することがありますが、私たちのすることは絶望ではなく、主にお祈りすることです。 イザヤ書42章……イエスさまが来られるという預言ですが、この中で「あなたを民の契約として」というみことばに注目します。神さまとの契約というものは、私たちが自分の意志で「契約書」の類をすべて読んで理解したうえで、神さまと締結したものではありません。イエスさまが結んでくださったのです。私たちがイエスさまを信じ受け入れるならば、私たちはイエスさまという契約のゆえに、神さまと契約を結んだ存在とみなしていただけるのです。 ヨハネの黙示録12章……主にある兄弟姉妹の勝利が宣言されています。勝利した理由は、子羊の血(信仰)と、自分たちの証ししたことば(従順)のゆえであると語ります。私たちは信仰のゆえに救われ、その救いのすばらしさを日々体験して、人々にその生き方をもって具体的に宣べ伝えます。そのような者が終わりの日に大いなる報いをいただきます。 <祈りの課題>私たちが今日、苦しみから解放されて主のみこころを行えるように、祈りに集中することができますように。

160 6月9日 申13-14詩99-101イザ41黙11

申命記13章~14章……私たち主の民の中には惑わす者が出て、偶像の神々を拝むのが主のみこころだ、などと言うものが出ることが語られています。しかしそのようなことを言う者は、献身者であれ、兄弟であれ、容赦してはならないと語ります。主の民イスラエルの間では、そのようなことを言う者はだれであれ、死刑に処せられるという規定ですが、そのように言って主の民を惑わすならば、そのような者は主のからだなる教会、天の御国にふさわしくありません。 詩篇99篇~101篇……私たちひとりひとりは、王である主イエスさまに治めていただいている神の国の民です。私たちが罪を犯しているならば、そのような私たちがキリストとともに十字架につけられるように、日々、朝ごとに祈る必要があります。そのようにして罪とのつながりを断ち切って毎日を生きる、祝福された生き方を目指してまいりましょう。 イザヤ書41章……苦しむ人や貧しい人が飢え渇く、なんと悲惨なことでしょう。しかしそのような人々のことを、主がその豊かさをもって養ってくださいます。そのことによって、その豊かさの創造者が主であることがあまねく知れ渡ります。私たちはそのような悲惨な境遇に置かれた人々に対して無関心であってはなりません。彼らが養われるために私たちが何をすることで主に用いていただけるか、つねに悩みつつ祈り求める必要があります。 ヨハネの黙示録11章……主がもたらしてくださる終わりの日は、主が王となられる喜びの日であるとともに、主を恐れずに死に定められている者たちがさばかれる、御怒りの日です。私たちはこの終わりの日に向けて、今日どのような備えを主の前に果たすことを祈るべきでしょうか。 <祈りの課題>日々の、主の前に徹底して生きる生き方の積み重ねで、終わりの日に、さばき主なるイエスさまの前に恥ずかしくなく立つ者となりますように。

159 6月8日 申12詩97-98イザ40黙10

申命記12章……異邦に入って主の領地を占拠する際、異邦の民の宗教的な習わしをまねてはならないと主はイスラエルの民に戒められました。これは、ひとときはリバイバルを求めて燃えていた私たち日本のクリスチャンが、時を経てこの世的に慣れてしまっていることに対する警告のみことばとして受け止めるべきことではないでしょうか。イスラエルの民がカナンの習わしをまねて堕落したことは、私たちにとって他人事ではありません。私たちはいまこそ、主の願っていらっしゃる生き方を求めてまいりたいものです。 詩篇97篇~98篇……主こそがまことの神さまであるゆえに、偶像に仕えひれ伏す者は恥を見ます。私たちは偶像の神々に仕えるがごとき選択をしてはなりません。この日本では、偶像を選ばせようとする社会の同調圧力がそこかしこに存在しますが、そのようなときこそ、主にお従いする選択をもって、人々から何と思われようとも恐れずに証しを立てる者となりますように祈ってまいりましょう。 イザヤ書40章……主ご自身が羊飼いとなって、神の民を牧してくださるという約束です。このみことばのうちに、イエスさまの到来が予告されています。それを知ろうともしない者は、偶像をつくり、それに仕えることをやめようとしませんが、そのような者の終わりはむなしく、また破滅です。 ヨハネの黙示録10章……みことばは蜜よりも甘いものですが、実際にそれを消化するとなると、それはきわめて苦痛に満ちたものです。この世をおさばきになる主のさばきの激しさ、それ以上に、この世界をさばかなければならない主の苦悩を思うならば、私たちもまた苦しむものです。主の苦悩がわがものとなるならば、私たちも、終わりの日に向けた情熱をもって、主の救いを全地に宣べ伝える者となれるのではないでしょうか。 <祈りの課題>家庭や地域社会で偶像礼拝の文化と戦っている兄弟姉妹のために。

158 6月7日 申11詩95-96イザ39黙9

申命記11章……砂漠のエジプトと異なり、潤沢なカナンにおいては、作物を手に入れるのもはるかに楽であり、それは主の大いなる恵みによることです。しかし、それが主の恵みであることを忘れ、安逸をむさぼってほかの神々に心が奪われるならば、主はイスラエルの民に与えられるその自然の恵みを閉ざされると語られました。私たちが今体験しているあらゆるよいことは、主の恵みであるゆえに、つねに主との交わりを保ち、主に感謝をささげつづける必要があります。 詩篇95篇~96篇……主は地上の民族としてのイスラエルだけの神さまではありません。世界のすべての民の中から召された者はみな、主をほめたたえるべく御前に導かれます。私たち日本の兄弟姉妹も、そのようにともに主の御前に導き出された民であることを、主に感謝しましょう。 イザヤ書39章……ヒゼキヤが誇りとしたものは神さまではなく、王室が蓄えてきた財宝でした。そのコレクションをバビロンに対して誇ったことは、のちの日のユダの破滅につながりました。このことをヒゼキヤに告げたイザヤの気持ちはどうだったでしょうか。しかしイザヤは、言うべきことを言わなければなりませんでした。私たちの生きているこの世界も、神さまよりも富を誇りとする者たちが、その誇りにふさわしい最期を迎えようとしています。そのような者たちに対して私たちは、その破滅的な最期、しかしそこから救い出してくださる神さまの恵みを語らなければなりません。 ヨハネの黙示録9章……滅びに定められている者は、いかなる苦難にあったとしても、自分たちの行なっている偶像礼拝、殺人、魔術、淫らな行いを悔い改めないと、みことばは語ります。これだけ苦しんでもなお主に立ち帰ることをしないとは、なんと不幸なことでしょうか。私たちは、この終末のさばきが降る前に主を信じ受け入れることができた恵みに感謝すべきですし、終わりの日が来る前に一人でも多く、私たちの周りの愛する人々がイエスさまを信じて救われるように、祈り、みことばを伝える者となりたいものです。 <祈りの課題>私たちが少しでも機会を生かし、イエスさまを宣べ伝える者となりますように。

157 6月6日 申10詩94イザ38黙8

申命記10章……主は寄留者を愛するように命じられました。その根拠は、主の民イスラエルもエジプトの地で寄留者だったということです。日本もそうですが、とかく単一民族ということで物事を考えがちな地域においては、外国人は肩身の狭い思いをさせられます。しかし、クリスチャンにかぎっては、そのような苦しい立場にある外国人を、主への従順の発露として積極的に受け入れるべきです。 詩篇94篇……みことばを教えられることは平安につながります。みことばにおいて啓示された主が、どんなに私たちを愛し、復讐の日にこの世をおさばきになる一方で私たちのことを守ってくださるかが、みことばに詳しく書かれていて、そのみことばからしっかり教えられることで、私たちは約束に対する確信を持つことができるからです。積極的にみことばに教えられてまいりたいものです。 イザヤ書38章……ヒゼキヤは自分が死病に打たれたことを知ったとき、どんなに絶望的になったことでしょうか。しかしヒゼキヤは、改めて主の御前に出ていき、主のあわれみをいただいて、回復させられました。まことに、病気というものはできれば避けたいものである一方で、人をまことの謙遜に導く恩寵の手段ともいえるものです。病める人がその弱さのゆえに、主との深い交わりに導かれ、慰めと癒しをいただくように祈りましょう。 ヨハネの黙示録8章……7つの封印が解かれると、聖徒の祈りの香は地にぶちまけられます。それは主の報復の時で、神さまを心に留めない人々がより頼んでいた物質的なものがことごとく破滅に導かれるときです。人々はこの記録を読むとき、神さまを認めてこなかったわが身にはこのような恐ろしいことが起こるのかと、慄然としないでしょうか? 一人でも多くの人がこの終末の様相から守られ、主に立ち帰って永遠のいのちを得られますように、祈ってまいりましょう。 <祈りの課題>私たちの周囲にいる病気の兄弟姉妹のために。

156 6月5日 申9詩92-93イザ37黙7

申命記9章……モーセの四十日四十夜の断食祈祷は、霊性向上などの自分のためではなく、イスラエルのために神さまと交わり、また、イスラエルの罪を告白して神さまと交わるためであったということでした。断食というものはどこまでも、自分の属する霊的な共同体のためにすべきものであり、それは肉体が限界にさらされるという、いのちのかかっているものです。私たちはなかなかそこまでになれないかもしれませんが、モーセの精神をもってとりなす者とならせていただきたいと思いませんでしょうか? 詩篇92篇~93篇……朝という時間、また、夜という時間は、神さまを賛美することがふさわしい時間です。それも、思い出したらたまに、ではなく、毎日です。一日の初めと一日の終わりに、その一日を与えてくださった神さまをほめたたえることは、なんと麗しいことでしょうか。 イザヤ書37章……神の民に対して侮辱のかぎりを尽くしたセンナケリブ王のアッシリアに、主は特別な御業をもってさばきを下されました。主はこのようなことのおできになるお方です。主が敗北されるということは絶対にありません。この世の勢力は傲慢にもわが世の春を謳歌しますが、そのいのちも主の御手のうちにあることを覚え、主を恐れる必要があります。 ヨハネの黙示録7章……すべての国民、部族、民族、言語から、だれにも数えられないほどの大勢の群衆が主の御前に立つ……ヨハネにこの幻が与えられたとき、教会は歩み出したばかりで、しかも風前の灯火という状態にありましたが、その後2000年にわたって世界中にキリスト教会は拡大し、この幻のとおりになったことは私たちの知るところです。このように、このときにはまだ実現していなかったみことばが実現したように、今の段階ではまだ実現していないみことばも、必ず実現します。 <祈りの課題>主のみことばは必ず実現するという信仰が、私たち兄弟姉妹の間で増し加わり、私たちがますます熱心に聖書を読むようになりますように。

155 6月4日 申8詩91イザ36黙6

申命記8章……5節のみことばに注目すると、「訓練」ということばが出てきます。人がその子どもを教育することは、「訓練」ということばに置き換えることができます。教えたとおりのことを実際に実践できるように導くこと、それは「訓練」です。同じように、主は私たちを訓練してくださり、みことばを具体的に守り行うことができるようにしてくださいます。 詩篇91篇……主は試練にあう者が実を避けるべきお方です。主は私たちを守るために、御使いたちを遣わしてくださいます。しかしサタンは、主がそのように人を守ってくださる愛のお方であることを知ったうえで、その主の御業を実践させるべく、主を試みさせようとイエスさまをそそのかそうとしました。しかし、主は、主を試みる者の味方になられるのではなく、まさにサタンに攻撃されそうになっている者を、その攻撃から守ってくださろうと働かれるのであって、そこを間違えてはなりません。 イザヤ書36章……ヒゼキヤの時代、アッシリアの侮辱を伴った攻撃にユダは晒されました。それは、ヒゼキヤ王の力が足りないことをあざけった以上に、ユダの民の主であるまことの神さまに対して侮辱を加えたことでした。これは神をも恐れぬ、大変な思い上がりです。神の民はときに、このように、主とお従いする神さまに対する侮辱を加えられるものですが、そのような侮辱を加える者はちりや灰にすぎません。怒りや絶望感にとらわれることはあるでしょうが、彼らを恐れてはなりません。 ヨハネの黙示録6章……キリストにつかない者たちは、身分の高い者も低い者も身を隠し、主の怒りからかくまってほしいと叫びます。彼らはその大災害が主からのものであることを知っているわけです。しかし、そうと知っているならば、彼らはイエスさまから離れてはならなかったはずです。逃げるならば、イエスさまの中に逃げ込むのです。 <祈りの課題>主の御名を侮る者たちに取り囲まれるとき、主が私たちをその厳しい状況から救い出してくださるように。

154 6月3日 申7詩90イザ35黙5

申命記7章……異邦の民に象徴されるサタンの軍勢との戦いにおいては、すこしずつ勝利を得るように主は取り計らわれます。圧倒的な勝利、敵陣の完全な敗走を体験すると主の民は傲慢になって、地の獣に象徴される悪の軍勢にやられ、壊滅します。この地上において霊的な戦いが継続することは、それゆえに主の恵みのお取り計らいであるということができます。 詩篇90篇……主は永遠なるお方です。私たち人間は、自分たちの時代はいつまでも続くかのように錯覚するものですが、ほんとうにいつまでも続く永遠のうちに住まわれるお方は、神さまだけです。ゆえに私たちは、自分がむなしい存在であることを認め、神さまに立ち帰る必要があります。 イザヤ書35章……神の復讐の時は、私たちにとって喜びの日です。私たちの敵、すなわち、主の敵がさばかれる日だからです。私たちは地上においては、主の敵ゆえに極めて苦しい思いをさせられているものですが、その苦しみ、主のために背負う苦しみは、必ず報われます。 ヨハネの黙示録5章……みことばはいまもない秘められているように見え、それゆえに人は絶望に陥ったような気持ちになるものです。しかし、私たちは悲しむことはありません。なぜならば、その秘められたみことばは、十字架にかかられよみがえられたお方、イエスさまによって啓かれるものであり、イエスさまとの絶えざる交わりによって、私たちはみことばの深い意味を知ることができるからです。 <祈りの課題>地上で苦しい思いをしている兄弟姉妹が、終わりの日のさばきに心を留め、慰めをいただくことができますように。

153 6月2日 申6詩89イザ34黙4

申命記6章……主の命令を守り行えということは、その民が幸せになるためというのが、主のみこころです。もしその掟と定めから外れ、好き勝手に振舞うようになってしまうならば、人々はどれほど祝福から遠いところに行ってしまうことでしょうか。主の掟に従って生きることが求められる理由は、自分たちが労したわけではないのに受け継いでいるこの世の豊かさの中で生きることが許されているからで、主を恐れ、主の恵みに感謝するならば、率先して従順の生き方をしていくようになるはずです。 詩篇89篇……主の民でありながらもその掟に従わないならば、主は罰を与えられます。しかしそれは、完全に御前からその民を捨て去られるためではありません。主はなおも恵みを与え続けてくださる、真実なお方です。ただし私たちの取るべき態度は、だから主を侮ることではなく、主の恵みに恐れつつ感謝して、自発的に従順にお従いすることです。 イザヤ書34章……ここに描かれているのは終末のさばきの様相です。主は、ご自身の民を苦しめ、迫害した者たちに対し、破滅的な最期をもたらせられます。私たちはこれをお読みして、それほどまでに主が私たちのことを愛しておられることを思い、恐れずにはいられないのではないでしょうか? また、私たちの隣人が、ひとりでもこの破壊的な終末の有様から救われるように、彼らの救いを祈り、行動に移さなければと思いませんでしょうか? ヨハネの黙示録4章……野獣最強の獅子は権威の象徴、家畜最強の牛は力の象徴、人間の顔は知恵の象徴、猛禽類最強の鷲は行動力の象徴……これらすべてのものをささげ、主を礼拝する姿に、私たちは何を思いますでしょうか? 私たちはすべてをささげてい礼拝すると口では言っていながらも、果たしてその告白にふさわしい礼拝をささげているか、つねに自分自身に問うてみたいと思います。 <祈りの課題>終末を実感するこのとき、私たちの周りの人が一人でも破滅から救われますように、名前を挙げて祈りましょう。