178 6月27日 申32詩119:121-144イザ59マタ7
申命記32章……主のみこころは、罪を犯したイスラエルに対するさばきでした。しかしそれを主が思いとどまられたのは、敵のののしりのため、主の敵によってご自身のご栄光がいたく汚されないようにするためでした。罪深い私たちがその罪にしたがってさばかれることがないのは、私たちが素晴らしいからと思ってはなりません。すべては主のご栄光があらわされるゆえで、私たちはすべてのご栄光を主にお帰しする必要があります。 詩篇119篇121節~144節……不法とは、神さまのみこころ(法)に反することです。しかし、この不法というものは莫大な力を持ち、世を支配します。世間は同調圧力その他で、人を不法へといざないます。この不法から守られるには、人間の努力では限界があります。神さまの恵み、守ってくださる御手を必要とします。私たちはそれゆえ、もし神さまのみこころどおりに生きたいと願うならば、不法から守ってくださいと神さまに祈る必要があります。 イザヤ書59章……主は、公正の行われない暗闇の世界において、とりなす者がいないことに「唖然とされ」、ご自身の御腕で民を救われました。私たちはこの主のみこころを、どのように受け取りますでしょうか? 私たちはこの世界を見て、ただ嘆き悲しんだり、あるいは何とも感じなかったりするのみでしょうか? 私たちはいまこのときこそ、とりなしの祈りに献身する必要があります。 マタイの福音書7章……偽預言者は口では(あるいは文書では)立派なことを語るので、人々は騙されます。中にはその偽預言者のことばにいやしのようなものを感じる人も出てくるでしょう。しかし、実際に結んでいる実が暴力的だったり、いやらしかったり、不自由と搾取に満ちたものだったりするならば、その指導者は偽預言者、火と硫黄の池がふさわしい者です。私たちがもしその偽預言者を見分けられず、彼らもキリストのからだのひと枝だからと恭順を示すことをやめないならば、私たちもその偽預言者をつけあがらせた責めを負うことにならないでしょうか。この点で私たちは厳しくなるべきです。それは、主のご栄光のためです。 <祈りの課題>日本と世界の教会の中に隠れている偽預言者たちが明らかにされ、虐げられている信徒たちが解放され、いやされますように。