173 6月22日 申27-28:19詩119:1-24イザ54マタ2
申命記27章~28章19節……主の祝福が神の民に臨むかどうかの原則は、きわめて単純なものです。主の御声、すなわちみことばに聴き従うならば祝福されます。それも、生活のあらゆる分野において祝福されます。反対に、みことばに聴き従わないならばのろいを受けます。もし、私たちが神さまに祝福されたいと願うならば、みことばを聴いてそのみことばにお従いすることです。
詩篇119篇1節~24節……若者たちには多くの誘惑があります。主の願っていらっしゃるきよい道を保つことは難しいことです。しかし、9節から11節のみことばにあるとおり、心を尽くして主を求め、主のみことばを心に蓄えるならば、主は若者たちのことを、誘惑、罪の歩みから守ってくださいます。私たちは心から主を求め、みことばを心に蓄えているでしょうか。
イザヤ書54章……神の民イスラエルは、生涯の連れ合いにもなぞらえられる神さまを捨てるという選択をし、その結果、大いなる罰を受けました。しかし、神さまはいつまでも怒らず、御民を回復させ、受け入れてくださると約束してくださいました。私たちも罪を犯すことはあります。しかし、神さまを恐れるあまり、御顔を避けて自分勝手な行動に没頭するのは最もしてはならないことです。豊かに赦してくださる神さまのもとに立ち帰るべきです。
マタイの福音書2章……東方の博士たちがささげた宝物、黄金と乳香と没薬は、黄金のような栄光に輝く王、乳香のごとく祈りの香りを神の前にささげる祭司、没薬が死者に塗られるように、語るみことばとそのみことばを守り行う実践のゆえにいのちをささげる預言者を、それぞれ象徴しています。このように、礼拝の本質、イエスさまがどのようなお方かを理解していた礼拝者は、ユダヤの宗教社会からは現れず、彼らユダヤ人がさげすんでいた異邦の民、異教の民から現れたのでした。私たち日本人も異邦、異教ですが、そのことに劣等感を覚える必要はありません。私たちも、東方の博士たちにようにならせていただけるのです。
<祈りの課題>聖書の世界から見れば異教社会のような日本から、東方の博士たちのような真実な礼拝者が起こされていくように。
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