176 6月25日 申30詩119:73-96イザ57マタ5
申命記30章……もし、主のご命令に背いてそれ相応の懲らしめを受けたとしても、民が悔い改めて主に立ち帰るならば、主は必ず民を回復させてくださいます。この主の掟なるみことばは、私たちのすぐ近くにあり、必ず守り行えるものであると主は約束してくださっています。そのみことばを守り行ういのちの道を選ぶことを、主は私たちに求めていらっしゃいます。
詩篇119篇73節~96節……92節。主のみ教えとは罪人にとっては、滅びに至らせる苦しみのことばです。しかし私たち主の民は、主のみことばのみ教えを喜びとする特権をいただきました。私たちは滅びないのです。それどころか、このみことばによって生き、みことばを永遠に喜ぶものとしていただいているのです。
イザヤ書57章……主が住まわれる住まいは、砕かれた人、へりくだった人がともに住むことの許された住まいです。主がともに住んでくださる、なんという祝福、なんという恵みでしょう。私たちがもし、聖なる主とともに住まうことを心から願っているならば、砕かれること、へりくだることを恐れてはいけません。それは自分の弱さ、罪、恥ずかしいものに向き合う、きついプロセスではありますが、それを経ることで私たちのうちから罪の夾雑物は取り除かれ、主とともに住まうにふさわしい者としていただけます。
マタイの福音書5章……私たちが世の光であるということは、聖霊なる神さま、イエスさまを証しする霊の炎が燃やされて、その光が闇の世に照らされる、ということです。そのともしびを升の下に置いたら、見えないだけではありません。ともしびの火は消えてしまうのです。ともしびを隠すような生き方をする者には、御霊の油注ぎはありません。私たちがもし、主に用いられたいと願うならば、人々の前で御霊の炎を燃やせるように、大胆さが与えられるように祈る必要があります。
<祈りの課題>私たちが罪や弱さを明らかにされようとも、そこから逃げないで向かい合い、主のお取り扱いの中できよめられ、強くされていきますように。
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