168 6月17日 申22詩110-111イザ49黙19

申命記22章……多くの「すべからず」の規定の中に、「女は男の衣装を身に着けてはならない、男は女の衣服を着てはならない」とあることは、注目に値します。聖書にこのように書かれていることは、ジェンダーレスということを考えるうえでひとつの基準を提供してはいないでしょうか。女装家というジャンルがひとつの地位を得ているこんにちにおいて、私たち聖書の民はどのような基準をもってこの世界を見る必要があるでしょうか。

詩篇110篇~111篇……主を恐れることは知恵の初めですが、それがほんとうにその人の知恵となり、その人が賢明さを得るには、その知恵を「行う」ことが必要になります。もし人に、聖なる主の御名を心から恐れる思いがあるならば、主の知恵なるみことばを守り行いたいという思いが生まれてきます。

イザヤ書49章……ひとたび私たちのことを救ってくださった主は、私たちのことを決してお忘れになることはありません。それは、子どもを身ごもり、産んで育てる母親が、その子どもを忘れることがないこと以上に真実なことです。私たちは何かあったとき、いともたやすく、主がわたしのことをお忘れになった、とか、私はもう神さまに見放された、などと思ったり、口にしたりしてはいないでしょうか。そのようなとき、この15節、16節のみことばを思い出しましょう。

ヨハネの黙示録19章……ヨハネはみことばを伝えてくれた御使いを礼拝しようとしましたが、御使いにそれを戒められました。このことから、この御使いはイエスさまではなく、正真正銘の「御使い」であることがわかるわけですが、人はなんと、みことばなる主ご自身よりも、みことばを伝える主のしもべを聖なる存在として扱い、崇敬の対象にすることで、自分が敬虔な礼拝者であると思いたがることでしょうか。私たちがほんとうに、主にあっては兄弟姉妹に上下はないと思っているならば、「有名な」牧師やクリスチャンをまるで聖人のように扱うのはやめるべきです。

<祈りの課題>信仰心を失いつつある兄弟姉妹が、それでも愛してくださる主の愛に心を留め、信仰が復興しますように。

コメント

このブログの人気の投稿

210 7月29日 士12使16エレ25マコ11

365 12月31日 Ⅱ歴36黙22マラ4ヨハ21

361 12月27日 Ⅱ歴32黙18ゼカ14ヨハ17