172 6月21日 申26詩117-118イザ53マタ1
申命記26章……十分の一のささげ物は、レビ人(主への献身者)、寄留者、孤児、寡婦のためのものであるとあります。これは今日における「十一献金」の根拠と運用の基準となるのではないでしょうか。みな、労働ができないという点で共通しています。労働をしない人を共同体は養う責任があり、その責任を共同体が果たすとき、共同体は祝福されます。
詩篇117篇~118篇……私たちはときに、主の厳しい懲らしめにあうことがあります。しかし、それは私たちを殺してしまうためではありません。かえって、私たちが生きるためです。私たちは懲らしめをとおして、肉の性質が取り除かれ、主のきよさにあずかるようになります。懲らしめは私たちにとって感謝なことです。
イザヤ書53章……イエスさまの十字架の予告です。4節にありますとおり、イエスさまが十字架につけられるためにゴルゴタの丘を上って行かれたとき、沿道の者たちはどれほど、イエスさまが神さまに見捨てられ、呪われた者となったかのように言ったことでしょうか。しかしイエスさまは、そのような私たちの罪のために十字架で砕かれ、刺し通されたのでした。
マタイの福音書1章……イエスさまのお誕生の背景には、不寛容な人間社会の偏見というものがありました。ここではマリアとヨセフの夫婦は、世間的には婚前交渉のすえの妊娠としか見てもらえなかったような弱者としての生き方を、あえて選び取りました。しかし、彼らが潔白だったことは、自分たちがいちばん知っている以上に、神さまがご存知でしたし、その事実は2000年にわたって聖書が証言するとおりです。厳しい従順は、肉体をとられた神であられるイエスさまのご存在を、この地上に送り出す原動力となったのでした。
<祈りの課題>養子縁組の働きのために。
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