177 6月26日 申31詩119:97-120イザ58マタ6
申命記31章……イスラエルの民がカナンに入るという主のみこころは、「主ご自身が先立って進んで行かれる」ことによって実現します。すなわち、民の力によるのではなく、主ご自身の御力が先にあって実現するものです。私たちの歩みもそうです。私たちも主のみこころを成すとき、それは自分の力によってすることで成功させるのではなく、主が先立ってみこころを成してくださるゆえにそれが成功するという信仰を保ってまいりたいものです。
詩篇119篇97節~120節……主のみおしえを愛するということは、主のみおしえが自分の思いとなることによって結実します。私たちの思うことがみな、罪深いこと、肉に属することではなく、主のみおしえとなるのです。そうなると私たちは賢くなり、危うい道に足を踏み入れることはなくなります。私たちはどれほど、主のみおしえに教えられることを喜びとしているでしょうか?
イザヤ書58章……たとえ宗教行為(このみことばの場合は断食)をしていたところで、みこころにもとることをしているならば、かえってその宗教行為は忌まわしいものです。主は、弱者や困っている人を顧みるという実践を行う、そのために、食を断ってきつい思いをするような犠牲を払うことこそ、ご自身が好まれ、受け入れられる「断食」であるとおっしゃいました。私たちの信仰生活はもしかして、その生活そのものが目的になり、隣人を愛する実践のまるで伴わないものになっていないでしょうか?
マタイの福音書6章……お祈りが長くなる理由が、神さまに真剣に向き合うためならばもちろん素晴らしいことですが、それが人に見せるため、長いお祈り、「ホーリーワード」を繰り返す「敬虔な」お祈りをして、いかにもこの祈り手は素晴らしいクリスチャンだ、という印象を与えようとするためならば、それは忌まわしいものです。お祈りは長ければいいというものではありません。私たちのお祈りの語彙を考えましょう。余計なことば、よくよく突き詰めれば言わなくてもいいことばで飾って、そのようなお祈りにうぬぼれたりしてはいないでしょうか?
<祈りの課題>私たちの祈りのことばが、みこころにかなうものとして整えられますように。
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