167 6月16日 申21詩108-109イザ48黙18
申命記21章……イスラエルの共同体において、死に値する罪に対して下す処罰は基本的に「石打ち」です。木に掛けて死ぬまで放置する処刑方法は、もっとも呪われるべき者に対してなすべきことです。しかしユダヤ(イスラエル)の宗教共同体は、一切罪のないイエスさまのことを木に掛け、呪いを受けるべき存在として扱いました。それはどれほどの罪だったことでしょうか。
詩篇108篇~109篇……罪人たちは善良なキリスト者の歩みを呪います。しかし、その呪いは決して有効とはなりません。なぜならば、主ご自身がその呪いに変えてキリスト者を祝福してくださるからです。そのように迫害を加える者たちはやがて恥を見、その者たちの迫害の手から貧しい者たちは主の御手によって救い出されます。私たちはそれゆえ、この地上で苦しい思いをさせられているからと、希望を捨ててはなりません。
イザヤ書48章……主の民はその救われた身分にふさわしくなく、頑なでした。本来はそれだけでも救われるにふさわしくない充分な理由になるものでしたが、主はイスラエルの民を救ってくださいました。それは、救い主である主ご自身のご栄光のためであって、彼らが善良だからではありませんでした。私たちが自分の善良さではなく、いつどんなときも主に拠り頼む必要があるのが、このことからも明らかです。
ヨハネの黙示録18章……この世にあらゆる富と繁栄を供給する大バビロン、反キリストは、終わりの日には大いなるさばきを受けます。私たちはそのとき、その滅亡を見て嘆く者となるでしょうか、それとも、喜ぶものとなるでしょうか? 大バビロンはイエスさまを十字架につけた張本人であり、その生み出した産業や文化によってどれほど多くの人がキリストから離れる選択をしてきたかを考えるならば、私たちは、大バビロンの滅亡を歓迎すべきではないでしょうか。
<祈りの課題>私たちがもし、この世に属する悪い文化に染まることを捨てきれていないならば、主の恵みによってそこから離れることができますように。
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