169 6月18日 申23詩112-113イザ50黙20
申命記23章……ここでは、主が定められたさまざまな倫理的な規定が述べられていますが、それは主が聖であるゆえにあなたがた主の民も聖であれ、という原則が前提となっています。決してそれは、あたかもパリサイ人のごとく、罪の中に生まれた人を差別して、自分たちはきよいと悦に入るためではありません。そればかりか、あらゆる律法の規定をイエスさまが十字架の上で成就された今となっては、肉体的な欠陥や、出生や、民族といった、宿命ともいうべき人の条件はすべてクリアされており、だれに対しても救いの門は開かれています。この箇所だけを取り上げて、聖書は差別を容認していると誤解してはなりません。
詩篇112篇~113篇……この詩篇が書かれた当時、子どものいない女性は極めて肩身の狭い思いをさせられていました。現代においてはそれほどではありませんが、それでも、子どもを持ちたくても持てない(持てなかった)女性の思いは察するに余りあります。しかし、教会という主の民の共同体に属するかぎり、その共同体の子どもたちは、自分の子どもとみなしてもいいのです。なぜなら、肉の家族以上のきずなで結ばれた、霊的な家族だからです。
イザヤ書50章……4節では、主がイザヤに「弟子の舌」(韓国語の聖書では「学者の舌」)をお与えになったことが語られています。弟子の舌をもって人を励ますというわけです。まことに主の弟子とは、人を励ます人です。その励ますという行動の実を私たちが結ぶために、朝ごとに弟子として師である主から聴くようにしてくださいます。主の弟子が朝ごとにディボーションをする必要があることが、このみことばからも立証されます。
ヨハネの黙示録20章……第一の復活にあずかるキリスト者は、キリストとともに王となるゆえに幸いです。キリストにつかない罪人は永遠にさばかれ、火の池に投げ込まれて昼も夜も苦しみを受けます。私たちはそのさばきを恐れるにふさわしい言動をつねにしていますでしょうか。
<祈りの課題>私たちの毎日のディボーション生活が祝福されますように。
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