171 6月20日 申25詩116イザ52黙22
申命記25章……脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない、ということは、脱穀している間に牛がその穀物を口にしないようにしてはならない、ということです。しかし、このように牛という家畜に対してやさしい律法が定められたのは、神さまが牛のことを気にかけられているからではなく、その律法の背後にある、働き人に対する主のみこころを示していらっしゃるからです。働きに専心させて、その働きの中から得られるわずかな役得さえ制限するような労働を強いることは、私たち主の民の間ではふさわしくないことです。
詩篇116篇……「私は主を愛している」と告白できる人はなんと幸いなことでしょうか。それは、主が自分のことを愛し、守ってくださっているということがわかることと同じくらい幸いなことです。まことに、主と私たちのお互いの間に愛の交わりがあること、これこそが「キリスト教」と呼ぶべきものです。
イザヤ書52章……私たちはただでサタンに売られた存在です。サタンは私たちを自分のものとするにあたり、何も私たちにくれないまま、自分のものにしてしまいました。しかし神さまは、私たちが身代金を払うこともなくて、すなわちただでご自身のものになるように、私たちのことを神さまのものにしてくださいました。しかし、神さまが払ってくださった身代金は、イエスさまの十字架の血潮です。何よりも貴い存在です。
ヨハネの黙示録22章……聖書に何かつけ加える者には、聖書に展開するあらゆるわざわいが下されます。聖書から何か引く者は、聖書に約束されているいのちの木と聖なる都にあずかることはできません。この警告はなんと無視され、純粋な聖書信仰がないがしろにされてきたことでしょうか。しかし、私たちは神さまを恐れるならば、18節、19節のこのみことばゆえに神さまを恐れて聖書信仰に専心し、聖書に書かれているとおり、イエスさまが再び来られることを心から待ち望みたいものです。
<祈りの課題>主イエスよ、来てください! と祈りましょう。
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