175 6月24日 申29詩119:49-72イザ56マタ4
申命記29章……主のみこころの示されているみことばは、私たち神の民が守り行うためのものです。このみことば、のろいの誓いの言葉を聞いても、自分の心のままに歩むならば、主はそのような者を決してお赦しになりません。どんな小さな戒めでも、それを破るように教える者には、天の御国はふさわしくありません。
詩篇119篇49節~72節……主の御前に高ぶる者は、主のしもべを嘲ってはばかるところを知りません。そのような者に対して怒りを覚えるのは、正当なことです。なぜならば彼らは、主の御目には悪しき者であり、主の御教えを捨てている者だからです。主は、そのような者たちの攻撃から、私たち主の子どもたちのことを守ってくださいます。
イザヤ書56章……異邦人として生まれ育つことも、宦官のような人生を送らされることも、宿命のようなものとして受け止めると、もはやどこにも救いはありません。しかし主は、そのような者を救ってくださるお方であり、そのような者も安息日を守れる、主の喜ぶことを行えると、約束してくださいました。私たちもそのようにして、主の喜びとしていただいた存在です。
マタイの福音書4章……イエスさまが全能なる神さまなら、いまさら世界のすべての栄華など必要なかったのではないかと思うでしょうか。しかし、世界のすべての栄華がサタンの支配下にあった、ということに注目しましょう。その栄華の背景に、環境汚染もあったでしょう。いえ、それ以上に、人々からの搾取、虐待、犯罪、性的逸脱……あらゆるよくないものが、その栄華に垣間見えるしかなかったのではないでしょうか。しかし、そのようなものを解決するために、悪魔にひれ伏すことは、イエスさまには一切できませんでした。イエスさまはサタンにひれ伏したのではなく、十字架におかかりになることによって、サタンに勝利されたのでした。
<祈りの課題>救われないことを宿命のように受け止めている人たちも、救いを受け取ることができるように。
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