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297 10月24日 Ⅱ列5Ⅰテモ2ダニ9詩117-118

列王記第二5章……ナアマンは一度は不機嫌になりました。自分の望んでいた方法でいやしてもらえるわけではなかったからです。しかし、ナアマンの頭の中にあったのは、アラムの神々の宗教的文化であって、決してそれは創造主なる神さまがみわざを行われる方法ではありませんでした。いみじくも従者たちが、もしエリシャがナアマンに難しいことを命じたならきっとしたはずだ、と言ったとおりで、人はいかにも困難な「修行」のごとき宗教行為を好んでも、ただ信じるだけ、従順にお従いするだけの単純な信仰には価値を見いだそうとしないものです。それを突破するのは、謙遜に身を低くして主のみことばに聴き従う姿勢です。 テモテへの手紙第一2章……主の働き人の役割は、キリストがすべての人の贖いの代価としてご自身を与えてくださったことを、すべての人の前に示すこと、これ以外にありません。もちろん、夫婦生活、育児、食べること、趣味、生活の糧を教会外で得る必要のある教職者は仕事、することはいろいろありますが、すべてはその宣教の働きに直結するものであるべきです。宣教の働きに関係のないことであるならば、私たちはそこから足を洗わなければなりません。 ダニエル書9章……ダニエルは民の不従順をわがこととして悔い改めました。ここに私たちは、主にある働き人の模範を見ることができます。私たちの住む世界が、属する民族が反キリスト的だからと、その滅亡を願うようではいけません。かえって、この国と民族を主があわれんでくださり、大いなる悔い改めのみわざを起こしてくださり、大リバイバルを起こしてくださるように祈る必要があります。これまでその祈りをささげてこなかったならば、今日のいまこのときから始めましょう。 詩篇117篇~118篇……主を礼拝すべきは、すべての国々、すべての民族です。私たちの国は例外でもかまわない、ただ自分さえ救われていればいいという考えではいけません。私たちはこの国と民族が主を礼拝するものとなりますように、国中が主をほめたたえるものとなりますように、その日に至るまで祈りつづけ、主を宣べ伝えつづける者となりましょう。 <祈りの課題>この国のリバイバルのために。

296 10月23日 Ⅱ列4Ⅰテモ1ダニ8詩116

列王記第二4章……シュネムの女は、子どもは必ずエリシャの呼び起こす奇蹟によって生き返ることを信じて、子どもが平静であることを装ってエリシャのもとに行きました。エリシャはゲハジに厳重に命じたうえで遣わしたり、それでもだめなら自分が出向いてあらゆる祈りを動員したりして、子どもが生き返るように祈りました。祈りというものは、単に頭の中に漠然とした信仰がありさえすれば聞かれるものではありません。熱心にひれ伏すように主に祈るその実践が必要です。 テモテへの手紙第一1章……聖書の内容は膨大かつ複雑です。これを読むと、いろいろと議論したくなる誘惑にかられます。しかし、生活の変化という実を結ばない議論など、何にもなりません。私たちがみことばをお読みするときに目指すべきことは、議論ではなく、みことばへの従順の結果としての生活の変化です。 ダニエル書8章……世の終わりにおいては、サタンに魅入られた荒らす者によって神の真理が投げ捨てられます。しかし、それが成功したと思えるのも束の間、「二千三百の夕と朝」の末に、聖所の正しさが証明される、すなわち、この世界に臨在される神さまの真理が勝利します。私たちは、自分の生きている世界が真理ならざるものに支配されていることにあきらめと絶望を覚えてはいないでしょうか? 終わりの日のイエスさまの勝利を思い、忍耐しましょう。 詩篇116篇……主は私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方です。このように祈りを聞いていただける私たちは、主を愛しています。主を愛しているなら、その祈りは自己実現、自己中心のものになるはずがありません。主のご栄光が現れること、御国が実現することが、祈りの課題となっていきます。私たちの祈りがそのようにみこころにかなうものとなるように、主が祈りを整え、変えてくださるように、祈ってまいりましょう。 <祈りの課題>みことばをお読みするとき、議論に夢中になるあまり、みことばを守り行わないで済まそうとする誘惑から守られますように。

295 10月22日 Ⅱ列3Ⅱテサ3ダニ7詩114-115

列王記第二3章……エリシャが主の奇蹟を呼び起こしたのは、それを要請した北イスラエルの王のゆえではなく、南ユダのヨシャファテ王のゆえでした。北イスラエルの王ヨラムは、金の子牛礼拝になお執着し、そのような者に対してエリシャは主の奇蹟をもたらす道理はなかったのでした。私たちもまた、罪人という点ではヨラムと五十歩百歩です。このような者でも主の奇蹟を体験できるのは、私たちのために今なおとりなして祈ってくださっている、天におられるイエスさまのゆえです。 テサロニケ人への手紙第二3章……まともな牧会者は、つねに自分に託された聖徒たちのために祈っています。祈って相当に労苦しています。私たち教会は、このように教会のために仕えている牧会者のために祈る必要があります。このように祈りをもって支え合うことで、主が命じておられる「互いに愛し合いなさい」という命令は全うされ、教会は強力に立つことができます。 ダニエル書7章……世の終わりは世界の勢力図が激変し、それに世界中の人々が翻弄されます。しかし、それも束の間のことで、やがてイエスさまが再臨され、すべてをおさばきになります。大言壮語する、悪魔の力を身に着けた権力者はすべてさばかれ、悪の勢力は地獄に落とされ、聖徒たちの入れられた御国が完全に実現します。私たちが日々待ち望むのはその日です。私たちはそれゆえに、どんなに目に魅力的に見えたとしても、悪魔の勢力につくような真似をしてはいけません。 詩篇114篇~115篇……人は世をこぞって偶像を賛美します。しかし、偶像はどんなに人格的に見えても、また、超越的な神的存在に見えても、所詮人の手によってつくられたものにすぎません。私たちクリスチャンは、このようなものに何ら神的恐れを感じる必要はありません。むしろこのような神的存在のもとにある人々が、早く私たちの救い主なるキリストに出会うように、祈る必要があります。 <祈りの課題>世の終わりが近づいていることを意識し、私たちが悪魔的なもの、偶像礼拝的なものを生活の中から追放することができますように。

294 10月21日 Ⅱ列2Ⅱテサ2ダニ6詩112-113

列王記第二2章……主がエリシャに、エリヤの2倍の分の霊の分け前を与えられることをよしとされたのは、エリシャがエリヤのもとを離れず、エリヤの地上の生涯を最後まで見届けたからでした。私たちは聖書のみことばを読むとき、その模範となる人物の生涯を最後まで見届けて、その人物に主が働かれた霊的遺産を受け継ぐことができます。また、昇天というと、のちに世に来られるイエスさまの昇天をほうふつとさせます。私たちはイエスさまにみそば近く寄り添うことで、どれほど多くのことを学び、また、どれほど霊的な力をいただくことでしょうか。主が私たちとともにおられるのは確かなことですが、私たちもまた、主に近づく必要があります。 テサロニケ人への手紙第二2章……私たちはこの世界を生きていると、世の終わりのしるし、特に、反キリストの出現と思しき者を目撃します。しかし、私たちが覚えておくべきことは、その者の活動は充分に行きわたらないように主ご自身がとどめていらっしゃるということ、また、その者が出現しても、主ご自身が滅ぼしてくださる、ということです。私たち主につく者たちは、そのような者の出現におびえてはなりません。主に拠り頼みましょう。 ダニエル書6章……私たちは主を信じ、主にお従いしているというまさにそのことのゆえに、この世界においては迫害を受けます。しかし、主は私たちのことをお守りくださり、ついにはご自身のご栄光を顕してくださいます。私たちはどのような目にあおうとも信仰を曲げてはなりません。そのような中にあっても信仰を守り抜くならば、主ご自身がお守りくださり、その御業をとおして、迫害を加えるような人々にもご自身の栄光を現してくださいます。 詩篇112篇~113篇……113篇9節。子のいない女が子を持って喜ぶ母となる、ということは、赤ちゃんを出産するということにかぎりません。姉妹たちは伝道と養育を実践することによって、霊的な子どもの母親になることができます。そのようにしてイエスさまの父の家、祈りの家なる教会という、聖徒の交わり、地上に実現した天国の中に住まうものとなります。願わくは私たちすべての所属する教会が、そのような弟子訓練を志向する教会となりますように。 <祈りの課題>イエスさまを信じているゆえに、家族や職場、学校で迫害にあっている兄弟姉妹が守られ、ついには主のご栄光がみなの前であらわされますように。

293 10月20日 Ⅱ列1Ⅱテサ1ダニ5詩110-111

列王記第二1章……アハズヤが50人隊の長とその部下50人を何度もエリヤのところに遣わしたのは、エリヤを確実に打ち取るためではなかったでしょうか。神をも恐れぬ行為です。しかし、エリヤが信じお従いする神さまは、そのような脅かしが虚仮脅しでしかないことを証明するため、天から火を下され、合わせて102人を焼き滅ぼされました。それほどまでにエリヤが主の御目に大事な存在であったのと同時に、主は生きておられ、主のみことばはまことで、生きて働いていたからでした。 テサロニケ人への手紙第二1章……私たちクリスチャンはこの地上の生涯において、キリストのゆえに苦しみます。しかしその苦しみは、自分からキリストのあとについて十字架を背負う、いわば自分が納得して選んだ苦しみであり、不条理に苦しまされた苦しみではありません。私たちがこの地上においてキリストのゆえに苦しむならば、主は必ず終わりの日、キリストの再臨の日に、その苦しみに報いてくださり、素晴らしい安息を天国にて与えてくださいます。私たちはその日を目指して進んでいくのみです。 ダニエル書5章……ベルシャツァルは創造主なる神の宮の杯で悪霊の神々にささげる酒宴を催すという、神をも恐れぬ行動に出ました。彼はダニエルを召し、ダニエルの警告を聞いて創造主をほめたたえましたが、時すでに遅し、彼はその夜、自分のいのちをもってその偶像礼拝のさばきを受けました。私たちはいつも、先人の悪い歩みから学び、主にお従いしない者の呪われた生き方から警告を受けています。しかし、それを目にしながらも自分の行いを省みることをしないならば、私たちはいったいどのようになるでしょうか。機会が与えられている間に悔い改める私たちとなりますように。 詩篇110篇~111篇……主の御業というものはすべての人に見られているものですが、それを見ていながらも創造主なる神さまを認め、ほめたたえるかどうかということは、神さまの御業を「尋ね求める」かどうかにかかっています。私たちは毎日、能動的、積極的にみことばを開き、祈って、御声に耳を傾ける必要があります。そのように尋ね求めてこそ、すべてにおいて働かれる主のご存在と御業にますます気づかされ、主をほめたたえることができます。 <祈りの課題>日々のディボーションをとおして、すべてに働かれる主のご存在と御業に気づかせていただく私たちとなることができます...

292 10月19日 Ⅰ列22Ⅰテサ5ダニ4詩108-109

列王記第一22章……アハブ王たちがミカヤを嫌っていたのは、王について悪いことばかりを預言するからだということでしたが、それはすなわち、認めたくない真実を言い当てる預言者であった、ということです。その預言の結果、ミカヤは王や偽預言者から迫害を受けましたが、主にお従いするものの道はこのように厳しいものです。しかし私たちは、厳しいからその道を避けるのではなく、かえって、厳しい目にあいながらも主にお従いすることを選ぶなら、それは幸いなことです。 テサロニケ人への手紙第一5章……いつでも目を覚まして主の再臨に備える者の歩みは、互いに励まし合い、互いを高め合う歩みです。私たち教会の生活は、単なる、目に見えるところだけ「敬虔に」振る舞うような「宗教的な」歩みにとどまっていてはいけません。私たちはよもやま話ではなく、主のご栄光が豊かに現れるような、それこそ「交わり」の名にふさわしい交わりをいつでも保ち、そのことによって主の再臨にいつでも目を覚まして備える必要があります。 ダニエル書4章……反キリスト的なネブカドネツァルは、バビロンの繁栄は自分の手によるものとうぬぼれました。しかし、そのうぬぼれを主は砕かれ、狂気のすえにネブカドネツァルがへりくだると、主はネブカドネツァルに理性を戻してくださいました。それは、主がバビロンにお許しになった、王国の栄光のためです。その回復の御業を体験したネブカドネツァルは、主の御名をほめたたえました。すべてこの世界に存在する栄えとは、主の御名をほめたたえるためのものであってしかるべきです。 詩篇108篇~109篇……呪いというものは自分に返ってくるものです。私たちは時に、憎む者から呪いを受けますが、主はその呪いを祝福に変えてくださいます。私たちはどうでしょうか? 私たちに敵対する者を呪うのではなく、祝福することが主のみこころです(ローマ12:14)。主はそのように、いつでも愛と祝福を実践する私たちのことを顧みてくださいます。 <祈りの課題>聖徒の交わりを保ちつつ、つねに世の終わりに備える私たちとなりますように。

291 10月18日 Ⅰ列21Ⅰテサ4ダニ3詩107

列王記第一21章……アハブ王のしたことは極めて悪辣でした。そんな彼が自分のしでかしたことを心から悔い改めたなら、神さまはその悔い改めを受け入れてくださいました。悔い改めというものは絶対です。日のように赤い罪を雪のように白くするイエスさまの血潮を前にしては、どんな罪も赦されます。私たちはこのように悔い改める人に対して、過度に石を投げてさばくようなことをしてはいけません。 テサロニケ人への手紙第一4章……このみことばは、主の来臨を語っています。しかし、主の来臨を意識することは、自分の生活に身を入れることをやめて、世間と遊離するような生き方に代わってしまうことではありません。むしろ、来臨を意識するからこそ、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことに身を入れるべきです。私たちはいよいよ再臨を意識しますが、そのときこそ、いよいよ落ち着いた生活、地に足がついた生活をし、主を信じることができるように証しに励む必要があります。 ダニエル書3章……シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが王に向かって言ったことば「たとえそうでなくても」、このことばは極めて大事です。私たちは何かの現世的なご利益を期待して信仰生活をするのではありません。たとえいのちが果てても、すべては主のご栄光が現れるため……御業が起こされていないように見えても、私たちは主のご栄光が現れる生き方に献身していますでしょうか。 詩篇107篇……主は貧しい者に目を留めていらっしゃいます。しかし、主を認めない富んでいる者は、主の御手によって低くされます。極めて簡単なことです。富んでいる者は自分の富や権勢を誇って主を認めないこと甚だしいものですが、それは極めて愚かなことです。どんな人も、自分が主の御前で貧しいことを認めてへりくだるなら、それは知恵のあることです。 <祈りの課題>私たちの生活にたとえ主の奇跡が現れなくても、変わらずに主にお従いする私たちとなることができますように。

290 10月17日 Ⅰ列20Ⅰテサ3ダニ2詩106

列王記第一20章……主が民の王に聖絶ということを命じられるのは、主の民にとって少しでも妨げになるものがあったならば、民は主の御前に出られなくなり、したがって民は主とお交わりすることも、いわんや主のご栄光を顕すこともできなくなるからです。私たちの中に主との交わりを断つ要素が少しでもあるならば、惜しみなく取り除けるように、主の恵みとあわれみを心から求める必要があります。 テサロニケ人への手紙第一3章……パウロは、テサロニケ教会を動揺から救うために、自分が心血注いで訓練した働き人であるテモテを遣わしました。働き人というものはだれでもなれるものではなく、主と教会を心から愛する者が、その主と教会に対する愛を身に着けるべく養い育てた者こそがなるべきものです。私たちの群れからもそのような働き人が輩出されるように、心から祈る必要があります。 ダニエル書2章……ダニエルは、王の見た夢の内容とその意味を正確に解き明かすにあたって、自分のいのちを守ろうと拙速に行動することはせず、しばらくの時を与えてくれるように王に要求しました。この「時」が、ダニエルだけではなく、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、そしてバビロンのすべての賢者を救うこととなったのでした。私たちはいざというときに、主の時に従って歩む選択をする必要があります。そのとき、私たちは自分で行動しようとする人生の主導権を手離し、主に働いていただくことにより、みわざを体験します。 詩篇106篇……人は愚かであり、何度となく罪を犯します。その犯した罪のゆえに、人生に大きな損害を被り、悲しみと苦しみの中で叫びます。しかし主は、その叫びをみこころに留めてくださり、私たちを度重なる罪の中にあってもなお憐れんでくださり、救い出してくださいます。それは、契約のゆえ、イエスさまが私たちのために流してくださった十字架の血潮のゆえです。私たちはもはや、自分の誇るものは何もありません。ただ、十字架の贖いを成し遂げてくださった神さまに感謝するのみです。 <祈りの課題>私たちがいざというときに主の時、主のお導を求める信仰の行動を取ることができますように。そのとき働いてくださる主の御業のゆえに、主をほめたたえる者となりますように。

289 10月16日 Ⅰ列19Ⅰテサ2ダニ1詩105

列王記第一19章……私たちは時に、主にあって孤独な戦いを強いられているように思えてならないときがあるかもしれません。しかし、忘れてはならないことがあります。それは、私たちのような主の勇士のために、とりなして祈っているたくさんの信仰の同志たちの存在です。このときエリヤが7000人の祈りの勇士たちに支えられていたように、私たちも多くの人の祈りに支えられて、今があります。 テサロニケ人への手紙第一2章……福音を語ることは人を喜ばせることではありません。神さまを喜ばせることです。問題になるのは、人を喜ばせるような妥協した態度で福音を語ろうとする態度です。もし、福音を語ることとは神さまを喜ばせることと知るなら、時に相手が拒絶したくなるような厳しいことばであろうと語る必要があります。しかし、はっきりと語るべきことを語るならば、そのことばを聞いた人は正しく福音を聞くことになり、救いの門は確実に開かれます。 ダニエル書1章……バビロンにおいてはダニエルたちに並ぶ知恵を持つ者はいませんでした。そのような者を神さまが王の前でお選びになったのは、この反キリスト的な王国もご自身の御手のうちにあることを、満天下にお示しになるためでした。私たちの生きている社会も反キリスト的であるかもしれません。しかし、私たちはそのような中にあっても、主がこの世界を支配しておられるという事実に変わりがないことを心に留め、そのような中でも用いられることを祈ってまいりたいものです。 詩篇105篇……主は全地を私たちに与えてくださいます。いま現実に反キリスト的なものがこの世界を支配しているように見えても、すべてが主の御手のもとにあるという事実に変わりはありません。私たちはそのような中で全地が与えられるわけですが、その理由は、私たちが主のおきてを守り、そのみおしえを保つためです。その従順の歩み、実践の歩みをとおして、私たちは主から託されたこの地において主のご栄光を顕します。 <祈りの課題>反キリスト的なものに支配されている現実の中にあっても、主がそこにおいて私たちをとおしてご栄光を顕してくださいますように。

288 10月15日 Ⅰ列18Ⅰテサ1エゼ48詩104

列王記第一18章……イスラエルの民はどっちつかずの状態にありました。まことの神に従うか、バアルに従うか。それは彼らの選択にかかっていることでした。しかし神さまは、エリヤをとおしてご自身を彼らにあらわしてくださいました。民はその光景に「主こそ神です。主こそ神です」と告白しましたが、主の働き人はこのように、主が民にその御業をあらわされ、民が主に従っていくことができるように、つねに祈る人であるべきです。 テサロニケ人への手紙第一1章……福音がことばだけではなく、力と聖霊と強い確信を伴って届いた人は、神に選ばれていることが確かであるとパウロは語りますが、ことばにとどまらない聖霊の力と確信のある人は、人生の変化を体験します。逆に言えば、人生の変化もない伝道は、何の救いの証拠もない、したがってことばだけであるということであり、私たちが目指す宣教や伝道というものは、そのような表面的なもので終わってはなりません。 エゼキエル書48章……主による割り当て地の記述。その土地は主の聖なるものなので売り渡してはならない、とあります。私たち主の民は、主の御国が割り当てられている存在です。私たちにとっての生活の領域すべてが主から割り当てられた土地のようです。しかし、そのような貴重な存在を売り渡すようなことをしていないでしょうか。すなわち、私たちの生活の領域を、主のものとしないで済ませ、その生活態度が定着してしまっている領域がないでしょうか。私たちは、神さまによってすべてが与えられていることを心に留め、それにふさわしい生き方をしてまいりたいものです。 詩篇104篇……被造物の世界は、主の知恵に満ちており、主の知恵が現されています。私たちクリスチャンはこの世界に目を留めるとき、創造主なる神さまをほめたたえ、神さまにご栄光をお帰しします。そのような偉大なお方に人々はお従いすべきです。お従いしない者は悪しき者で、それ相応の悪い行いの実を結ぶものです。主はそのような者をおさばきになります。 <祈りの課題>私たちが生活のすべての領域を主におささげするものとなりますように。

287 10月14日 Ⅰ列17コロ4エゼ47詩103

列王記第一17章……人は常識で物事を考え、その常識に従うゆえに、神さまへの従順ならびに神さまが起こしてくださる御業を受け入れようという信仰を後回しにするものです。しかしこの婦人は、主の御業を見ました。エリヤの必死のとりなしがあったからでした。その御業を見たのも、飢えている自分と息子のことよりも、やはり飢えているエリヤのことを気遣った献身のゆえでした。献身と御業はひとセットです。私たちは御業を見たいでしょうか? 主への献身を確かにすることです。 コロサイ人への手紙4章……パウロはコロサイの信徒たちに祈ることを命じる際、自分たち働き人のために祈ることを要請しています。働き人が祈りを要請することは恥ずかしいことではありません。むしろ、とても必要なことです。信徒たちはどれほど、働き人のために祈っていますでしょうか? それは自分たちの霊的な益のため、ひいては世界中の教会の益のためですが、それはすなわち、神さまのご栄光がこの世界に現れるということです。 エゼキエル書47章……流れる水は天国に流れるいのちの水を彷彿とさせます。私たちはこの世界を生きながら、いのちの水なる御霊に潤されて生きる存在です。そして私たちはこの地上の歩みを終えて、イエスさまの十字架を信じる信仰のゆえに御父に天の御国に招き入れられ、このいのちの水の川に永遠に潤される恵みをいただきます。私たちの地上のこの歩みが苦しくても耐えられるのは、このように終わりの日に報われることを私たちが知るゆえです。 詩篇103篇……恵みとは何でしょうか? 罪人に対して怒りを発しておられる主が、私たちの罪にしたがって怒りの扱いをなさることがなく、私たちの咎に従って怒りの報いをなさることがない、ということです。私たちは本来神さまに背き、神さまと敵対する罪人であるゆえに、神さまが怒りを注がれて当然の存在でした。しかし私たちはイエスさまの十字架のゆえに、神さまの怒りを免れさせていただいた存在です。その恵みをいただいている者として、喜びに満ちて生きてまいりましょう。 <祈りの課題>自分の教会の働き人があらゆる面で支えられますように。

286 10月13日 Ⅰ列16コロ3エゼ46詩102

列王記第一16章……北イスラエルは極めて悲惨な歩みをしていました。それは、代々の王が偶像礼拝を悔い改めることをしなかった、というよりも、積極的に偶像礼拝に加担したためです。民を治める者がどのような歩みをしているかによって、主がその民の命運を左右なさいます。私たちの不従順は自分だけの問題ではなく、自分の家族、自分の属する教会にも、確実に問題を及ぼします。 コロサイ人への手紙3章……もし私たちが人間的な欲におぼれるならば、それは当然のこととみなすことはできません。それは偶像礼拝であり、主の御手によって取り除かれる必要があります。そのような欲は過去のものです。新しくされた私たちにとっては、まったく似合わないものです。 エゼキエル書46章……東向きの門は安息日以外の6日間は閉じており、安息日には開けられなければならないものです。東という方向は、主が聖所に入ってこられる方向です。この日には特別に主をお迎えするために門を開けるということを考えると、安息日という日は、私たちが主にまみえることができるように主が来られるという、どれほど大事な日か、ということです。 詩篇102篇……私たちが主に敵により虐げられることは、主の御怒りによって自分が投げ捨てられたゆえであると詩人は語ります。しかし、そのような者にも希望があります。それは、主に立ち帰ることができる、ということです。主はそのように御前に戻ってくる者に、必ず恵みを施してくださり、苦境から救い出してくださるという信仰を働かせたいものです。 <祈りの課題>私たちがあらゆるむさぼりという名の偶像礼拝から守られますように。

285 10月12日 Ⅰ列15コロ2エゼ45詩99-101

列王記第一15章……ソロモン亡きあと、南ユダも北イスラエルも罪を犯して堕落しました。しかし、主は特に南イスラエルに格別の憐れみをくださり、アビヤのあとのアサとヨシャファテはみこころにかなう王としてお立てくださいました。その憐れみをくださった理由は、ダビデのゆえでした。ダビデのゆえに王国全体が保たれたように、私たちもイエスさまゆえに堕落から救っていただき、主にあるいのちを保っていただいている存在です。 コロサイ人への手紙2章……私たちクリスチャンのアイデンティティを決定づけるものは、宗教行為のようなものではありません。私たちにとっての本体はキリストであり、私たちにとって何よりも優先すべきは、私たちにとっての本体そのものである、イエス・キリストとの交わりです。キリストとの交わりのない営みは、それがどんなにストイックに見えても、どんなに高尚に見えても、どんなに知的に見えても、それを「キリスト教」と呼ぶことはできません。 エゼキエル書45章……君主は自分とすべての民のために、罪のきよめのささげものをささげます。まことに、私たちにとってのとりなしの祈りは、自分自身と、この日本、この世界の全ての罪が取り除かれるように、王である祭司(Ⅰペテロ2:9)としてささげるものです。私たちにこの大事な使命が委ねられていることに恐れを持ちつつ、祈りに励んでまいりましょう。 詩篇99篇~101篇……悪というもの、曲がったことは、たとえ好奇心のようなものを起こしても、伝道に役立つだろうなどという大義名分をかざしたくなっても、けっして近づいてはならないもの、目の前に置いてはならないものです。私たちは、目にするものによってたやすく支配を受ける弱い者であることを、謙遜に認める必要があります。そこから逃れるのも、主にお近づきすることによってです。 <祈りの課題>私たちが王である祭司としての自覚を持ち、日々とりなしの祈りに献身していきますように。

284 10月11日 Ⅰ列14コロ1エゼ44詩97-98

列王記第一14章……レハブアムは、王宮の財宝である金の盾が奪われたら、その代わりに青銅の盾をつくらせ、自分が王宮入りするときにだけ近衛兵に持たせ、あとはしまっておきました。それは、ソロモンの栄華が地に落ちたということであるのと同時に、この期に及んでレハブアムがむなしい王のきらびやかさにすがりついていた、ということです。私たちは世のものになお執着するような愚かさから自由になり、ただイエスさまだけで満足する者にならなければなりません。 コロサイ人への手紙1章……私たちが神さまと和解させていただいているのは、御子イエスさまによって、また、御子イエスさまのためにです。私たちは本来、神さまと敵対した関係にありました。私たちが不従順であるゆえに、神さまの怒りが注がれていました。しかし、御子イエスさまは、そのような神さまと私たちの敵対関係を和解に導こうと、ご自身十字架におかかりになり、イエスさまの十字架を信じる私たちは、神さまの御怒りから免れさせていただきました。イエスさまにかぎりない感謝をおささげしましょう。 エゼキエル書44章……神殿に「異国の民」を入れてはいけないというのは、こんにちにおいても有効です。名前だけのクリスチャンは、主の弟子となることを嫌がります。そのような人は、たとえ主のからだなる教会に属しているように見えても、実際のところは、主から民の群れへの出入りを禁じられるべき人です。私たちがもしそのような性質を持っていると自覚するならば、悔い改めて、キリストの弟子として歩むことを志願しなおす必要があります。 詩篇97篇~98篇……神々よひれ伏せ、とあります。これは、創造主ならぬ神々を信じ従っていた者たちが、そのむなしい生き方を悔い改め、まことの神さまを信じて悔い改めよ、ということを意味します。神々はいかにも神々(こうごう)しいもののように飾り立てられ、礼拝されますが、それらは極めてむなしいものです。人々はいち早く、神ならぬものを礼拝することをやめなければなりません。 <祈りの課題>私たちがまことのキリストの弟子として歩む者となりますように。

283 10月10日 Ⅰ列13ピリ4エゼ43詩95-96

列王記第一13章……ヤロブアムに、イエスさまの誕生の預言をこめた警告を発した預言者は、神のみことばの成就という、驚くべき形で死にました。その死の手引きをした老預言者の一団は、彼の死を悼み悲しみました。それは、一連のできごとにより、神さまが彼にほんとうにお語りになり、みことばを授けられた、それなのに、老預言者のしたことで彼が神の怒りに触れ、死んでしまったからでした。まことに神さまは恐るべき方です。しかし、それでもヤロブアムが悔い改めなかったということを見ると、そのような者を王に戴いたイスラエルの破滅は目に見えるようでした。 ピリピ人への手紙4章……平和の神さまがともにいてくださる祝福を受け取るためには、みことばにおいてパウロのような信仰の先達が語った主のみこころを守り行うことです。みことばは聞いて終わりの「教養」のレベルのものにしてはいけません。ときにみことばを守り行うことは多くの人の反対にあったりして、極めて厳しいことです。しかし、厳しくても守り行うならば、その人には神さまがともにいてくださるという祝福が伴います。 エゼキエル書43章……神さまがご自身の民を受け入れられる条件は、全焼のささげ物と交わりのいけにえをささげることです。それは、神さまがご指定されたとおりのものだからです。しかし、人間の側で準備した供え物は、完全なものではありません。神さまが受け入れてくださるささげものは、ひとえに、神さまが備えてくださったものでなければなりません。私たちはイエスさまの十字架という全焼のささげものと、聖霊の交わりという交わりのいけにえによって、神さまに受け入れていただけます。 詩篇95篇~96篇……主への賛美とは、主が私たちに命じられたことです。しかし、世に存在する多くの命令が、それが不完全であり罪人である人間の発するものであり、その命令を受け取る私たちもやはり頑なな罪人であるゆえに苦痛であるのと異なり、主を賛美せよ、主の感謝せよというご命令は、それが私たち人間にとってかぎりない喜びであり、神さまは至上の被造物である人間に心から喜んでほしいからと発してくださるものです。私たちは主を賛美し、主に感謝するたびに、主のこの親心に感動したいものです。 <祈りの課題>日々イエスさまの十字架を思い、聖霊の交わりを体験する中で、主を賛美し、主の感謝する喜びを味わう私たちとなりますように。

282 10月9日 Ⅰ列12ピリ3エゼ42詩94

列王記第一12章……レハブアムがソロモンから王位を継承するにあたり、民に対すべき態度は、ソロモンの長老たちがアドバイスしたとおり、民のしもべとなることでした。そうすれば、民はレハブアム王のしもべとなるということでした。主によって高い地位、指導者としての地位を与えられている者がまずへりくだり、自分の影響下にある者たちに対してしもべとして仕えるならば、その奉仕を受ける者たちもその者に仕えてくれます。それは、主イエスさまが私たち神の民に仕えてくださるゆえに、私たちも喜んでイエスさまにお仕えするのと同じことです。その助言を退けたとは、レハブアムは実に愚かで、全イスラエルの王としてふさわしくなかったのでした。 ピリピ人への手紙3章……到達したところを基準にして進む、これが、神さまが私たちクリスチャンに命じておられることです。私たちはたしかに、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救われていますが、まだ死んで天国に入っているわけではありません。天に召されるまでの間、その日という栄光のゴールを目指して、走りおおせる者となるために、あらゆる節制をし、また、日々の歩みにおいて主のご栄光を顕しつづける者となるよう、従順に次ぐ従順の歩みを止めてはなりません。私たちは救われるために主にお従いするのでは決してありませんが、救われているからこそ、そのように救ってくださった主のために生きるのは確かです。 エゼキエル書42章……聖なるものと俗なるものは区別されているというのがみことばの教えです。私たちは「俗」の世界においても、その「俗」の世界なる「この世」と調子を合わせず、聖い生き方を全うするように召されていますが、神さまの御前に出ていこうとするならば、さらに世のものと隔絶された、かぎりなく聖くされているという姿勢で御前に出ていく必要があります。私たちにとってそれは、毎日のディボーションであり、週ごとの礼拝です。私たちはその時間が「かぎりなく」聖であるという意識をもって臨んでいますでしょうか? 詩篇94篇……悪しき者は勝ち誇ります。私たちの生きている世界を見渡しても、なんと悪しき者が堂々としていることでしょうか。そのために、主の民が追いやられ、悲惨な生活を余儀なくされていることでしょうか。しかし、そのような悪しき者も、主のお許しによってようやく生きている存在にすぎません。私たちは彼らが栄えているか...

281 10月8日 Ⅰ列11ピリ2エゼ41詩92-93

列王記第一11章……ソロモンが異邦の女性たちと通じたのは、単なる政略結婚以上の意味がありました。ソロモンは、偶像礼拝の民である彼女たちのことを「愛した」のです。「愛する」ということは、主がひとつにしてくださるということであり、主の民の男性であるならば、主の民の女性を「愛して」ひとつになるべきであり、そうしないで主の民以外の女性を「愛する」ことをしてはいけません。いわんやイスラエルの王がそのようなことをするなど論外です。それゆえの大いなる懲らしめがイスラエルに臨むこととなりました。もっとも、イスラエルは宿命のようにソロモンの過ちを受け入れざるを得なかったわけではなく、それからの南北王国にもまことの主の人は引きつづき起こされていたように、未信者と結婚したことそのものにより祝福を失ったと考えるのもよくありません。そのようにして結ばれたご家庭は、主が必ず祝福を与えてくださると信じ、祈りつつ取り組んでいくことができれば素晴らしいことです。 ピリピ人への手紙2章……私たちクリスチャンは、お互いのことを自分よりもすぐれた人であると、心から思える人です。そのように本気で思えるのは、イエスさまがへりくだって仕えてくださった、実に十字架に身代わりになっておかかりくださるほどに愛してくださったと、イエスさまとの個人的な愛の交わりによって受け止めてこそです。人に本気で愛を施せる愛の人になるには、日々イエスさまとの交わりを保つことが大事です。 エゼキエル書41章……青銅の人は私たちがその姿に人の子を見る聖なる存在ですが、その人はエゼキエルに幻の神殿、まことの神殿を見せるにあたり、その神殿に「最も聖なる場所」があることを示しました。まことに神殿とは、「最も聖なる場所」、すなわち、神さまと人が一対一で交わりを持つ場所が存在するものです。私たちもこの肉体という主の宮の中に、主との一対一の交わりを持つ至聖所があります。私たちはこの、それぞれ心の中に宿している「至聖所」を、日々神さまとの交わりを保つべき空間として、聖く大事に保っていますでしょうか。 詩篇92篇~93篇……主に感謝し、賛美することを実際にどのようにすればよいかを、この詩篇は語っています。それは、朝ごとに主の恵みを告げ、夜ごとに主の真実を告げることです。そのためには、主が日々どのようなみことばを私たちに語り、どのようなみわざを私たちになし...

280 10月7日 Ⅰ列10ピリ1エゼ40詩91

列王記第一10章……全世界の権力者たちは、神さまがソロモン王に授けられた知恵を聞こうとエルサレムにやってきて、そのために豊かな貢ぎ物をしました。世界の羨望の的だったソロモン王は、まことの知恵そのものである神さま、イエスさまの象徴です。私たちは神さまから日々大いなる知恵をいただいています。その知恵は、世界のあらゆる富を差し出してもなお足りないほどすばらしいものです。 ピリピ人への手紙1章……私たちはみな人間であるかぎり苦しむものですが、その苦しみがイエスさまのゆえの苦しみであるならば、それはまことに祝福です。しかし、イエスさまのゆえの苦しみは、自分から担おうと強く決心して自発的に体験しようとしないかぎり、けっして味わうことはありません。十字架を担われたイエスさま、そのあとをついて行ったパウロたち……私たちもそのあとをついていこうと願うならば、幸いです。 エゼキエル書40章……この箇所は幻の神殿のビジョンです。この神殿を案内する人はだれでしょうか? 青銅でできているような人、その「青銅」の七十人訳はヨハネの黙示録1章15節の「真鍮」のギリシャ語原語と同じであり、ここに私たちは、やがて再臨される「人の子」を見ます。この幻の神殿は、地上に建てられては壊されたイスラエル(ユダヤ)の目に見える神殿ではなく、私たち主の民がイエスさまを迎え入れている、私たち主の民のうちに存在する、目に見えないまことの神殿の象徴です。この神殿においてもいけにえはささげられることが示されています。イエスさまの十字架といういけにえはただ一度のできごとでしたが、永遠の贖いを成し遂げたできごとでもありました。 詩篇91篇……私たちはみな人間だから苦しみますが、クリスチャンにとって苦しみというものの持つ意味がほかの人と異なるのは、それが神さまがともにおられ、神さまからの誉れが与えられる機会となる、ということです。だから私たちは現実に苦しんでいるからと、落ち込んでいてはなりません。その場そのときに主が顕してくださる臨在の祝福を体験し、むしろ喜ぶ者となりたいものです。 <祈りの課題>私たちにとっての苦しみが受け身のものに終わらず、むしろイエスさまのために積極的に選び取る苦しみとなり、そこに主が私たちをとおしてご栄光を顕してくださいますように。

279 10月6日 Ⅰ列9エペ6エゼ39詩90

列王記第一9章……ソロモンは王の地位にある者にふさわしく、主の御前に派手なささげものをしました。それは主のみこころに従順になることでイスラエルに祝福があるように願う態度でもありましたが、ソロモンの統治には早くもほころびが出はじめていました。壮麗な建築のためにあれだけ惜しみなく支援してくれたヒラムに対して、大した贈り物もしないで済ませましたし、エジプトのファラオの娘を妻のひとりに迎えて、偶像礼拝の民族と通じる隙を国にもたらしたりしました。主にお従いしようという態度を示そうとするのは結構なことですが、その生き方を貫くうえで、この世の富に執着することは大きな罠となります。 エペソ人への手紙6章……福音宣教の働き人のために祈ることは必要なことです。なぜならば、彼らは「鎖につながれている」からです。パウロがこうして現実に鎖につながれた囚人となっていたように、主の働き人は、経済的な制限、体力的な制限、地域社会の無理解という制限、働きを進めるにあたっての家族や教会の反対という制限……そのような「鎖」のような制限に、働き人はつねに苦しみ、それが教会による福音宣教の大きな妨げとなっています。私たちは福音宣教に献身した働き人のために祈って支える必要があります。 エゼキエル書39章……終わりの日のさばきのビジョンです。神の民は神さまのあわれみによって回復されます。しかし、そこにはみこころを損なった偶像礼拝の者どもに対するさばきが伴います。私たちもやがて迫りくるこの終わりのさばきを絶えず意識して生きる必要があります。私たちは救われたいと願うならば、それにふさわしい歩みをつねに主の御前にて志し、みこころに反するけがれからつねに自分をきよめていただく必要があります。 詩篇90篇……私たちの人生は長いようでいて短いです。その年月の短さばかりを思うならば、人はなんとむなしくなることでしょうか。しかし、そのような私たちがむなしさから救われる道があります。それは、私たちを創造し、私たちのいのちの終わりにみもとに引き寄せてくださる主なる神さまが、永遠であることを心に留めることです。 <祈りの課題>私たちの教会の働き人のために。

278 10月5日 Ⅰ列8エペ5エゼ38詩89

列王記第一8章……ソロモンは未来において、主への不従順のゆえに異国に捕らえ移される子孫たちのために祈りました。主に対して罪を犯す者が反キリストの支配下に置かれることを主がお許しになるということは、いつの時代にも真理です。しかし、それは決して幸福な状況ではありません。それでも、その中においても主はご自分の民を忘れておられたわけではありません。主に祈り求める民を、主は必ず顧みてくださいます。私たちもそのように顧みていただけることは、ソロモン王の祈りがあるゆえです。 エペソ人への手紙5章……私たちクリスチャンには、確実にふさわしくないことがあります。淫らなこと、汚れ、貪り、わいせつなこと、愚かなおしゃべり、下品な冗談……これらのことは、神さまと人に対する感謝の告白と対照的に列挙された、避けるべき罪です。クリスチャンの中にも、自分は何をしてもイエスさまの十字架によって許されているからとうそぶき、このような罪を犯すことをやめない人がいるものですが、そういう人は果たして、自分がイエスさまによってどれほど罪が赦されているか、また、そのように罪赦された者どうしの共同体である教会のひと枝とされていることに、感謝しているのでしょうか。私たちはこのような罪を避けるためには、どんな努力も惜しまずする必要があります。罪を犯させるような要素を、生活から取り除く必要があります。 エゼキエル書38章……終わりの日にイスラエルが攻められる様子が描かれています。しかし、イスラエルを攻める者もまた、大いなるさばきに服することになります。そのさばきはもはや人間のレベルではなく、自然環境全体が激しく揺り動かされるレベルです。私たちは、主の民に触れるということはそれほどのさばきを受けること、それだけ、創造主なる神さまは主の民を特別に愛しておられることを知らなければなりません。 詩篇89篇……神さまが民を救ってくださるという契約は、ダビデのすえとして神さまがこの地に生まれさせてくださったイエスさまによって確かなものとなりました。このことはすでに、イエスさまがお生まれになるはるか昔、詩篇の時代に預言されていました。イエスさまの王座はとこしえに堅く立ちます。私たちはイエスさまを信じる信仰によって、永遠に続く神の民の子孫のひとりとしていただいています。 <祈りの課題>私たちが自分は主の民であるという意識をしっかり保っ...

277 10月4日 Ⅰ列7エペ4エゼ37詩87-88

列王記第一7章……ソロモンの宮殿、また、主の宮を建てることにおいて、聖書は詳細な記述に紙面を割いています。目に見える宮を建てることはそれだけ大事だったわけですが、私たち神の民も、主をお迎えした主の宮です。私たちも主のからだなる教会を立て上げるということは、主の御目から見てとても大事なことをしていることになります。私たちは自分たち神の宮を立て上げることに、どれだけ真剣になっていますでしょうか? また、どれだけ献身していますでしょうか? エペソ人への手紙4章……私たちは、御霊による一致をもって一つの教会を立て上げるべく召されています。しかし、私たちはみな同じ行動をするわけではありません。主は私たちそれぞれに、ひとつの教会を立て上げるために別々の賜物を分け与えてくださいました。私たちはこの賜物をそれぞれが生かし、それぞれが所属する教会を立て上げてまいりたいものです。 エゼキエル書37章……神の民イスラエルが絶望の中にあったとき、主は、あなたがたは干からびた骨ではない、わが霊により人となる、と語ってくださいました。主の民はひとたびさばきに服しましたが、主は悔い改める彼らをいつまでも罰してはおかれませんでした。死んでいたようだった彼らを、ダビデのすえなるイエスさまによって回復してくださると約束してくださいました。その終わりの日の約束、主の民が回復されるという約束は、必ず成ります。 詩篇87篇~88篇……私たち主の民は、まるで自分が死んだ人のように思えてならない瞬間というものがあるのではないでしょうか。それはかつて主の民が主のさばきに服し、実際に体験していた感情と同じものです。しかし主は、私たちのことを必ず回復してくださいます。苦しみの中から叫び求める私たちの祈りを、必ず聞いてくださいます。私たちはこの信仰をもって、主に心から祈ってまいりましょう。 <祈りの課題>苦しみの中にあるときこそ、私たちが大いに主の御名を祈り求める者となりますように。

276 10月3日 Ⅰ列6エペ3エゼ36詩86

列王記第一6章……ソロモンは神殿を建てるにあたって、建材を石切り場で完全に仕上げた状態で、それを現場で組み合わせて建て上げるばかりにし、現場には鉄の道具の音が一切聞こえないようにしました。神殿が建て上げられるということは、実に静かで厳かなことです。私たち主の民は主の神殿、聖霊の宮です。私たちの交わりは、人間的な騒々しさに満ちているようではいけません。ともに御霊に満たされて主の御前に進み出ることにより、私たちは主の宮として建て上げられますが、そこには人間の権勢や能力が及んではなりません。 エペソ人への手紙3章……パウロは、自分が福音に仕える人となったのは、キリストの測り知れない富を「すべての人に」明らかにするためであると語ります。聖書のみことばは、キリストという富がすべての人に明らかになるために神さまがお取りになった、ただひとつの手段です。それゆえ私たちは、聖書のことばを学び、人々に宣べ伝えるのです。 エゼキエル書36章……神の民が回復されるのは、この民がほかの民族に比べて特別に優れているからではありません。彼らもまた、神の御前に罪を犯し、みこころをいたく損なっていました。しかし神さまは、ご自身の栄光にかけて御民を回復させてくださいます。ゆえに、私たち主の民が誇るべきは自分自身ではありません。どこまでも神さまを誇るべきです。 詩篇86篇……私たちが苦しむとき、主に祈り求めるのは、主が並ぶ者なき大いなるお方であり、民が苦しむときに救ってくださるお方であることを知り、信じているからです。このことを心から知って信じるには、普段からどれほどみことばをお読みし、お祈りして、主との深い交わりを保っている必要があることでしょうか。主は、そのようにご自身に拠り頼む者のことを、必ず苦しみから救ってくださいます。 <祈りの課題>私たちが聖書を深く学び、人々に聖書のみことばを伝える者となりますように。

275 10月2日 Ⅰ列4-5エペ2エゼ35詩85

列王記第一4章~5章……神さまがソロモンに与えてくださった知恵は、単なる政治的なものに限定されてはいませんでした。森羅万象、あらゆるものに通じていました。それは、天地万物、森羅万象をお造りになり、治めていらっしゃる神さまの知恵が、ソロモンに臨んでいたということです。私たちが知恵を求めるということは、その場しのぎの解決法を求めるということではなく、あらゆる道に通じる広い知恵を求めるということを意味します。 エペソ人への手紙2章……私たち異邦人は希望がありませんでした。しかし、あわれみ深い神さまは、私たちをイエスさまの十字架を信じる信仰のゆえに救ってくださり、ユダヤ人と同じ神の民としてくださいました。本来、民族の異なるどうしはその民族なりのプライドゆえに、お互い敵対するのが当然のようでしたが、その異なる民族はともに同じイエスさまを仰ぎ見、ひとつとなります。このひとつとされる麗しさを、私たちは民族を超えて世界に証しし、人々をキリストに導くのです。 エゼキエル書35章……セイルとはエドム人の象徴です。彼らは神の民イスラエルにとどめを刺すような行動に出ましたが、それがどれほど神さまの忌み嫌う行いだったか、主は語っておられます。まことに、神の民は神さまへの不従順のゆえに懲らしめにあうものですが、懲らしめ以上の侵略を神の民に働いて飽きることを知らない者には、神さまご自身がさばきを下されます。私たちはひとたび、主に敵対する者の手の下にくだることもありますが、主はその者たちがいつまでも勝ち誇ることをお許しになりません。私たちは最終的に救われるのです。 詩篇85篇……神さまの恵みは、ご自身の民をひとたび懲らしめられても、その民の傷をいやし、回復してくださるという形であらわされます。私たちは懲らしめられても、神さまの御顔をいつまでも恐れることはありません。私たちが真剣に悔い改めるならば、神さまは私たちと愛の関係を回復され、私たちをいやしてくださいます。私たちが神さまに打たれたと思うならば、神さまから逃げてはなりません。真剣に悔い改めることが必要です。 <祈りの課題>私たちが敵対する人々と和解する一歩として、人々を赦すことを学びますように。赦しにおいて、勝利する者となりますように。

274 10月1日 Ⅰ列3エペ1エゼ34詩83-84

列王記第一3章……ソロモンは、自分には知恵がないことを徹底して認め、神さまに知恵を求めました。その結果、それが神さまのみこころにかない、ソロモンには知恵が与えられ、さらに、主に従順であるかぎり、富も誉れも与えようと約束していただきました。主に知恵を求めるならば必ず与えていただけますし(ヤコブ1:5)、その祈りを欠かさない者は、あらゆる面で祝福をいただけます。 エペソ人への手紙1章……私たちは御国を受け継ぐ者としていただいています。それは、私たちがみこころによって選んでいただき、イエス・キリストを信じる信仰を与えていただいているからです。そのみこころは、世界の始まる前からすでに定められていたものです。私たちは永遠の昔から選んでいただいていて、永遠の御国を受け継ぐ者としていただいています。どんなに感謝なことでしょうか。 エゼキエル書34章……神さまは私たち羊を、悪い牧者、悪い羊、悪い獣の手から取り上げ、直接養ってくださいます。私たちは反キリストの象徴である悪い獣ではないかもしれません。しかし、羊のことを自分にとって利得の手段としか見なさない、悪い牧者、悪い羊になってはいないでしょうか。私たち自身も主に撲される羊として、身を低くしてほかの兄弟姉妹に接してまいりましょう。 詩篇83篇~84篇……神に敵対する者たちは、神さまに属するものを「神の牧場」と見なしていて、それが神さまの牧される領域であることを知っています。しかし、それゆえに神さまを恐れるということをせず、かえって私たちからすべてを奪おうと、勢力をひとつにしてとどまるところを知りません。私たちは、彼らが私たち主の民に対してほしいままに振る舞うことのないように、神さまに叫ぶ祈りの声をあげなければなりません。 <祈りの課題>私たちが永遠の昔から救いに選ばれていることを感謝しましょう。