285 10月12日 Ⅰ列15コロ2エゼ45詩99-101
列王記第一15章……ソロモン亡きあと、南ユダも北イスラエルも罪を犯して堕落しました。しかし、主は特に南イスラエルに格別の憐れみをくださり、アビヤのあとのアサとヨシャファテはみこころにかなう王としてお立てくださいました。その憐れみをくださった理由は、ダビデのゆえでした。ダビデのゆえに王国全体が保たれたように、私たちもイエスさまゆえに堕落から救っていただき、主にあるいのちを保っていただいている存在です。
コロサイ人への手紙2章……私たちクリスチャンのアイデンティティを決定づけるものは、宗教行為のようなものではありません。私たちにとっての本体はキリストであり、私たちにとって何よりも優先すべきは、私たちにとっての本体そのものである、イエス・キリストとの交わりです。キリストとの交わりのない営みは、それがどんなにストイックに見えても、どんなに高尚に見えても、どんなに知的に見えても、それを「キリスト教」と呼ぶことはできません。
エゼキエル書45章……君主は自分とすべての民のために、罪のきよめのささげものをささげます。まことに、私たちにとってのとりなしの祈りは、自分自身と、この日本、この世界の全ての罪が取り除かれるように、王である祭司(Ⅰペテロ2:9)としてささげるものです。私たちにこの大事な使命が委ねられていることに恐れを持ちつつ、祈りに励んでまいりましょう。
詩篇99篇~101篇……悪というもの、曲がったことは、たとえ好奇心のようなものを起こしても、伝道に役立つだろうなどという大義名分をかざしたくなっても、けっして近づいてはならないもの、目の前に置いてはならないものです。私たちは、目にするものによってたやすく支配を受ける弱い者であることを、謙遜に認める必要があります。そこから逃れるのも、主にお近づきすることによってです。
<祈りの課題>私たちが王である祭司としての自覚を持ち、日々とりなしの祈りに献身していきますように。
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