280 10月7日 Ⅰ列10ピリ1エゼ40詩91
列王記第一10章……全世界の権力者たちは、神さまがソロモン王に授けられた知恵を聞こうとエルサレムにやってきて、そのために豊かな貢ぎ物をしました。世界の羨望の的だったソロモン王は、まことの知恵そのものである神さま、イエスさまの象徴です。私たちは神さまから日々大いなる知恵をいただいています。その知恵は、世界のあらゆる富を差し出してもなお足りないほどすばらしいものです。
ピリピ人への手紙1章……私たちはみな人間であるかぎり苦しむものですが、その苦しみがイエスさまのゆえの苦しみであるならば、それはまことに祝福です。しかし、イエスさまのゆえの苦しみは、自分から担おうと強く決心して自発的に体験しようとしないかぎり、けっして味わうことはありません。十字架を担われたイエスさま、そのあとをついて行ったパウロたち……私たちもそのあとをついていこうと願うならば、幸いです。
エゼキエル書40章……この箇所は幻の神殿のビジョンです。この神殿を案内する人はだれでしょうか? 青銅でできているような人、その「青銅」の七十人訳はヨハネの黙示録1章15節の「真鍮」のギリシャ語原語と同じであり、ここに私たちは、やがて再臨される「人の子」を見ます。この幻の神殿は、地上に建てられては壊されたイスラエル(ユダヤ)の目に見える神殿ではなく、私たち主の民がイエスさまを迎え入れている、私たち主の民のうちに存在する、目に見えないまことの神殿の象徴です。この神殿においてもいけにえはささげられることが示されています。イエスさまの十字架といういけにえはただ一度のできごとでしたが、永遠の贖いを成し遂げたできごとでもありました。
詩篇91篇……私たちはみな人間だから苦しみますが、クリスチャンにとって苦しみというものの持つ意味がほかの人と異なるのは、それが神さまがともにおられ、神さまからの誉れが与えられる機会となる、ということです。だから私たちは現実に苦しんでいるからと、落ち込んでいてはなりません。その場そのときに主が顕してくださる臨在の祝福を体験し、むしろ喜ぶ者となりたいものです。
<祈りの課題>私たちにとっての苦しみが受け身のものに終わらず、むしろイエスさまのために積極的に選び取る苦しみとなり、そこに主が私たちをとおしてご栄光を顕してくださいますように。
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