293 10月20日 Ⅱ列1Ⅱテサ1ダニ5詩110-111
列王記第二1章……アハズヤが50人隊の長とその部下50人を何度もエリヤのところに遣わしたのは、エリヤを確実に打ち取るためではなかったでしょうか。神をも恐れぬ行為です。しかし、エリヤが信じお従いする神さまは、そのような脅かしが虚仮脅しでしかないことを証明するため、天から火を下され、合わせて102人を焼き滅ぼされました。それほどまでにエリヤが主の御目に大事な存在であったのと同時に、主は生きておられ、主のみことばはまことで、生きて働いていたからでした。
テサロニケ人への手紙第二1章……私たちクリスチャンはこの地上の生涯において、キリストのゆえに苦しみます。しかしその苦しみは、自分からキリストのあとについて十字架を背負う、いわば自分が納得して選んだ苦しみであり、不条理に苦しまされた苦しみではありません。私たちがこの地上においてキリストのゆえに苦しむならば、主は必ず終わりの日、キリストの再臨の日に、その苦しみに報いてくださり、素晴らしい安息を天国にて与えてくださいます。私たちはその日を目指して進んでいくのみです。
ダニエル書5章……ベルシャツァルは創造主なる神の宮の杯で悪霊の神々にささげる酒宴を催すという、神をも恐れぬ行動に出ました。彼はダニエルを召し、ダニエルの警告を聞いて創造主をほめたたえましたが、時すでに遅し、彼はその夜、自分のいのちをもってその偶像礼拝のさばきを受けました。私たちはいつも、先人の悪い歩みから学び、主にお従いしない者の呪われた生き方から警告を受けています。しかし、それを目にしながらも自分の行いを省みることをしないならば、私たちはいったいどのようになるでしょうか。機会が与えられている間に悔い改める私たちとなりますように。
詩篇110篇~111篇……主の御業というものはすべての人に見られているものですが、それを見ていながらも創造主なる神さまを認め、ほめたたえるかどうかということは、神さまの御業を「尋ね求める」かどうかにかかっています。私たちは毎日、能動的、積極的にみことばを開き、祈って、御声に耳を傾ける必要があります。そのように尋ね求めてこそ、すべてにおいて働かれる主のご存在と御業にますます気づかされ、主をほめたたえることができます。
<祈りの課題>日々のディボーションをとおして、すべてに働かれる主のご存在と御業に気づかせていただく私たちとなることができますように。
コメント
コメントを投稿