290 10月17日 Ⅰ列20Ⅰテサ3ダニ2詩106
列王記第一20章……主が民の王に聖絶ということを命じられるのは、主の民にとって少しでも妨げになるものがあったならば、民は主の御前に出られなくなり、したがって民は主とお交わりすることも、いわんや主のご栄光を顕すこともできなくなるからです。私たちの中に主との交わりを断つ要素が少しでもあるならば、惜しみなく取り除けるように、主の恵みとあわれみを心から求める必要があります。
テサロニケ人への手紙第一3章……パウロは、テサロニケ教会を動揺から救うために、自分が心血注いで訓練した働き人であるテモテを遣わしました。働き人というものはだれでもなれるものではなく、主と教会を心から愛する者が、その主と教会に対する愛を身に着けるべく養い育てた者こそがなるべきものです。私たちの群れからもそのような働き人が輩出されるように、心から祈る必要があります。
ダニエル書2章……ダニエルは、王の見た夢の内容とその意味を正確に解き明かすにあたって、自分のいのちを守ろうと拙速に行動することはせず、しばらくの時を与えてくれるように王に要求しました。この「時」が、ダニエルだけではなく、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、そしてバビロンのすべての賢者を救うこととなったのでした。私たちはいざというときに、主の時に従って歩む選択をする必要があります。そのとき、私たちは自分で行動しようとする人生の主導権を手離し、主に働いていただくことにより、みわざを体験します。
詩篇106篇……人は愚かであり、何度となく罪を犯します。その犯した罪のゆえに、人生に大きな損害を被り、悲しみと苦しみの中で叫びます。しかし主は、その叫びをみこころに留めてくださり、私たちを度重なる罪の中にあってもなお憐れんでくださり、救い出してくださいます。それは、契約のゆえ、イエスさまが私たちのために流してくださった十字架の血潮のゆえです。私たちはもはや、自分の誇るものは何もありません。ただ、十字架の贖いを成し遂げてくださった神さまに感謝するのみです。
<祈りの課題>私たちがいざというときに主の時、主のお導を求める信仰の行動を取ることができますように。そのとき働いてくださる主の御業のゆえに、主をほめたたえる者となりますように。
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