282 10月9日 Ⅰ列12ピリ3エゼ42詩94
列王記第一12章……レハブアムがソロモンから王位を継承するにあたり、民に対すべき態度は、ソロモンの長老たちがアドバイスしたとおり、民のしもべとなることでした。そうすれば、民はレハブアム王のしもべとなるということでした。主によって高い地位、指導者としての地位を与えられている者がまずへりくだり、自分の影響下にある者たちに対してしもべとして仕えるならば、その奉仕を受ける者たちもその者に仕えてくれます。それは、主イエスさまが私たち神の民に仕えてくださるゆえに、私たちも喜んでイエスさまにお仕えするのと同じことです。その助言を退けたとは、レハブアムは実に愚かで、全イスラエルの王としてふさわしくなかったのでした。
ピリピ人への手紙3章……到達したところを基準にして進む、これが、神さまが私たちクリスチャンに命じておられることです。私たちはたしかに、イエスさまの十字架を信じる信仰によって救われていますが、まだ死んで天国に入っているわけではありません。天に召されるまでの間、その日という栄光のゴールを目指して、走りおおせる者となるために、あらゆる節制をし、また、日々の歩みにおいて主のご栄光を顕しつづける者となるよう、従順に次ぐ従順の歩みを止めてはなりません。私たちは救われるために主にお従いするのでは決してありませんが、救われているからこそ、そのように救ってくださった主のために生きるのは確かです。
エゼキエル書42章……聖なるものと俗なるものは区別されているというのがみことばの教えです。私たちは「俗」の世界においても、その「俗」の世界なる「この世」と調子を合わせず、聖い生き方を全うするように召されていますが、神さまの御前に出ていこうとするならば、さらに世のものと隔絶された、かぎりなく聖くされているという姿勢で御前に出ていく必要があります。私たちにとってそれは、毎日のディボーションであり、週ごとの礼拝です。私たちはその時間が「かぎりなく」聖であるという意識をもって臨んでいますでしょうか?
詩篇94篇……悪しき者は勝ち誇ります。私たちの生きている世界を見渡しても、なんと悪しき者が堂々としていることでしょうか。そのために、主の民が追いやられ、悲惨な生活を余儀なくされていることでしょうか。しかし、そのような悪しき者も、主のお許しによってようやく生きている存在にすぎません。私たちは彼らが栄えているからと、うらやんだり、怒ったりする必要はありません。しかし、彼らの言動は主のみこころをいたく損なっているのは確かで、私たちは彼らが主の御手に陥ることを祈る必要があります(それは、いのちが取り去られることとはかぎりません。主を救い主と信じ受け入れ、生き方がまったく変えられることも含みます)。
<祈りの課題>私にとっていやな存在に見える人が(具体的に名前を挙げましょう)、主の御手に陥り、主の正義がなされますように。
コメント
コメントを投稿