283 10月10日 Ⅰ列13ピリ4エゼ43詩95-96
列王記第一13章……ヤロブアムに、イエスさまの誕生の預言をこめた警告を発した預言者は、神のみことばの成就という、驚くべき形で死にました。その死の手引きをした老預言者の一団は、彼の死を悼み悲しみました。それは、一連のできごとにより、神さまが彼にほんとうにお語りになり、みことばを授けられた、それなのに、老預言者のしたことで彼が神の怒りに触れ、死んでしまったからでした。まことに神さまは恐るべき方です。しかし、それでもヤロブアムが悔い改めなかったということを見ると、そのような者を王に戴いたイスラエルの破滅は目に見えるようでした。
ピリピ人への手紙4章……平和の神さまがともにいてくださる祝福を受け取るためには、みことばにおいてパウロのような信仰の先達が語った主のみこころを守り行うことです。みことばは聞いて終わりの「教養」のレベルのものにしてはいけません。ときにみことばを守り行うことは多くの人の反対にあったりして、極めて厳しいことです。しかし、厳しくても守り行うならば、その人には神さまがともにいてくださるという祝福が伴います。
エゼキエル書43章……神さまがご自身の民を受け入れられる条件は、全焼のささげ物と交わりのいけにえをささげることです。それは、神さまがご指定されたとおりのものだからです。しかし、人間の側で準備した供え物は、完全なものではありません。神さまが受け入れてくださるささげものは、ひとえに、神さまが備えてくださったものでなければなりません。私たちはイエスさまの十字架という全焼のささげものと、聖霊の交わりという交わりのいけにえによって、神さまに受け入れていただけます。
詩篇95篇~96篇……主への賛美とは、主が私たちに命じられたことです。しかし、世に存在する多くの命令が、それが不完全であり罪人である人間の発するものであり、その命令を受け取る私たちもやはり頑なな罪人であるゆえに苦痛であるのと異なり、主を賛美せよ、主の感謝せよというご命令は、それが私たち人間にとってかぎりない喜びであり、神さまは至上の被造物である人間に心から喜んでほしいからと発してくださるものです。私たちは主を賛美し、主に感謝するたびに、主のこの親心に感動したいものです。
<祈りの課題>日々イエスさまの十字架を思い、聖霊の交わりを体験する中で、主を賛美し、主の感謝する喜びを味わう私たちとなりますように。
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