286 10月13日 Ⅰ列16コロ3エゼ46詩102
列王記第一16章……北イスラエルは極めて悲惨な歩みをしていました。それは、代々の王が偶像礼拝を悔い改めることをしなかった、というよりも、積極的に偶像礼拝に加担したためです。民を治める者がどのような歩みをしているかによって、主がその民の命運を左右なさいます。私たちの不従順は自分だけの問題ではなく、自分の家族、自分の属する教会にも、確実に問題を及ぼします。
コロサイ人への手紙3章……もし私たちが人間的な欲におぼれるならば、それは当然のこととみなすことはできません。それは偶像礼拝であり、主の御手によって取り除かれる必要があります。そのような欲は過去のものです。新しくされた私たちにとっては、まったく似合わないものです。
エゼキエル書46章……東向きの門は安息日以外の6日間は閉じており、安息日には開けられなければならないものです。東という方向は、主が聖所に入ってこられる方向です。この日には特別に主をお迎えするために門を開けるということを考えると、安息日という日は、私たちが主にまみえることができるように主が来られるという、どれほど大事な日か、ということです。
詩篇102篇……私たちが主に敵により虐げられることは、主の御怒りによって自分が投げ捨てられたゆえであると詩人は語ります。しかし、そのような者にも希望があります。それは、主に立ち帰ることができる、ということです。主はそのように御前に戻ってくる者に、必ず恵みを施してくださり、苦境から救い出してくださるという信仰を働かせたいものです。
<祈りの課題>私たちがあらゆるむさぼりという名の偶像礼拝から守られますように。
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