287 10月14日 Ⅰ列17コロ4エゼ47詩103
列王記第一17章……人は常識で物事を考え、その常識に従うゆえに、神さまへの従順ならびに神さまが起こしてくださる御業を受け入れようという信仰を後回しにするものです。しかしこの婦人は、主の御業を見ました。エリヤの必死のとりなしがあったからでした。その御業を見たのも、飢えている自分と息子のことよりも、やはり飢えているエリヤのことを気遣った献身のゆえでした。献身と御業はひとセットです。私たちは御業を見たいでしょうか? 主への献身を確かにすることです。
コロサイ人への手紙4章……パウロはコロサイの信徒たちに祈ることを命じる際、自分たち働き人のために祈ることを要請しています。働き人が祈りを要請することは恥ずかしいことではありません。むしろ、とても必要なことです。信徒たちはどれほど、働き人のために祈っていますでしょうか? それは自分たちの霊的な益のため、ひいては世界中の教会の益のためですが、それはすなわち、神さまのご栄光がこの世界に現れるということです。
エゼキエル書47章……流れる水は天国に流れるいのちの水を彷彿とさせます。私たちはこの世界を生きながら、いのちの水なる御霊に潤されて生きる存在です。そして私たちはこの地上の歩みを終えて、イエスさまの十字架を信じる信仰のゆえに御父に天の御国に招き入れられ、このいのちの水の川に永遠に潤される恵みをいただきます。私たちの地上のこの歩みが苦しくても耐えられるのは、このように終わりの日に報われることを私たちが知るゆえです。
詩篇103篇……恵みとは何でしょうか? 罪人に対して怒りを発しておられる主が、私たちの罪にしたがって怒りの扱いをなさることがなく、私たちの咎に従って怒りの報いをなさることがない、ということです。私たちは本来神さまに背き、神さまと敵対する罪人であるゆえに、神さまが怒りを注がれて当然の存在でした。しかし私たちはイエスさまの十字架のゆえに、神さまの怒りを免れさせていただいた存在です。その恵みをいただいている者として、喜びに満ちて生きてまいりましょう。
<祈りの課題>自分の教会の働き人があらゆる面で支えられますように。
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